毛利宗広
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毛利 宗広(もうり むねひろ、享保2年7月6日(1717年8月12日) - 寛延4年2月4日(1751年3月1日))は、長州藩第7代藩主。官位は従四位下、官職は大膳大夫、侍従。
享保2年7月6日、長州藩第6代藩主毛利吉元の5男として産まれる。幼名は百合助。享保16(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く。
その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。
しかし、寛延4年(1751年)2月4日、36歳の若さで死去した。世嗣がいなかったため、藩は、支藩である長府藩から重就を末期養子として迎える。法号:観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士。墓所:山口県萩市桜江の大照院。
- 毛利氏歴代(長州藩7代)当主
- 1731~1751
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- 先代:
- 毛利吉元
- 次代:
- 毛利重就