毛利綱元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利 綱元(もうり つなもと、慶安3年12月23日(1651年2月13日) - 宝永6年3月1日(1709年4月10日))は、長門長府藩の第3代藩主。父は第2代藩主・毛利光広(綱元は長男)。母は本多忠義の娘・清殊院。正室は池田光政の娘・祥雲院。側室に貞性院。官位は従四位下。甲斐守。侍従。
1650年12月23日、江戸で生まれる。幼名は又四郎。1653年、父の死去により後を継ぐ。このとき、叔父の毛利元知に1万石を分与して、清末藩を立藩する。1664年、甲斐守に叙任する。1683年、倹約を主とした「天和御法度」を制定する。1697年には窮民の救済に尽くし、さらに文武奨励や覚苑寺建立など、藩政に尽くしている。
[編集] 赤穂義士お預かり
元禄15年(1702年)12月15日、赤穂義士47士が吉良上野介を討つと47士のうち岡島八十右衛門・吉田沢右衛門・武林唯七・倉橋伝助・村松喜兵衛・杉野十平次・勝田新左衛門・前原伊助・間新六郎・小野寺幸右衛門の10士のお預かりを命じられている。 1709年3月1日、60歳で死去し、後を孫の毛利元朝が継いだ。法号:滝沢院道正瑞霖。墓所:下関市長府の覚苑寺。東京都港区白金台の瑞聖寺。