橋本真也
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橋本真也 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 橋本真也 SHOGUN ハシフ・カーン |
本名 | 橋本真也 |
ニックネーム | 破壊王 爆殺シューター ハッスル・キング ブッチャー |
身長 | 183cm |
体重 | 135kg |
誕生日 | 1965年7月3日 |
死亡日 | 2005年7月11日 |
出身地 | 岐阜県土岐市 |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー | アントニオ猪木 坂口征二 |
デビュー | 1984年9月1日 後藤達俊戦 |
引退 | 2005年 |
橋本真也(はしもと しんや、1965年7月3日 - 2005年7月11日)は、プロレスラー。闘魂三銃士の一人。岐阜県土岐市出身。身長183cm、体重118kg。全盛期は135キロ。入場テーマ曲は『爆勝宣言』。血液型はAB型。鉢巻きを付けて印を結び、リングに上がる。
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[編集] 経歴
母子家庭で育つが高校時代に母を失う。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年4月に新日本プロレス(以下「新日」)に入門。入門初日に後のライバル、蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こす。 1984年9月1日に東京でデビュー戦を行い(そのときの会場は練馬区の「東部球場」だったと記述されている資料が多いが、実際は「東台野球場」の誤りだと思われる)、その後海外修行に出る。カナダのカルガリー地区を中心にモンゴル人レスラー『ハシフ・カーン』のリングネームで試合を行うが、対戦相手を負傷させたりした為に試合を干される事もあった。海外修行の後、帰国し闘魂三銃士として、武藤敬司、蝶野正洋と共に売り出されることになり、数々の対戦相手をリング上で徹底的に叩き潰したことから『破壊王』の異名を持つことになった。その一方で、相手レスラーの得意技を正面で受ける姿も鮮烈であり、ベイダーやスコット・ノートン、トニー・ホームといった巨漢外人レスラーと好勝負を展開した。橋本自身は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級レスラーであるが、その階級のレスラーがとかく得意技としがちであるラリアットやパワーボムをほとんど出さず(武藤、蝶野にも似た傾向が見られる)、アンコ型でありながらキック主体という珍しいスタイル。
1993年、前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤や、G1クライマックス2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であった橋本の前に現れたのが、当時新日本に参戦していたWARの天龍源一郎である。この年天龍と2度のシングルを行ない連敗した橋本であったが、天龍との激しい攻防が橋本に勢いを与え、9月20日、ムタから初のIWGPヘビー級王座を奪取。また、天龍には翌年1994年2月17日、3度目のシングル戦で初勝利をあげている。
1996年4月、この年1月武藤からIWGPシングルを奪取した高田延彦と対戦する。垂直落下DDTから、三角締めで勝利し、3ヶ月ぶりにIWGPシングルを新日に取り戻す。
1997年8月31日佐々木健介に敗れIWGPシングルを奪われる。これ以降橋本がIWGPを巻く日は二度となかった。
新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したものの、その一方で、G1クライマックスだけはなかなか手中に収めることができなかった。毎年優勝候補には挙がるのだが、準優勝(1995年)の経験こそあれ、なかなか優勝することができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年には念願のG1優勝を果たし、悲願を達成した。
その後、デビューした小川直也と何度も抗争を繰り広げる。
1997年4月の初戦は敗れたが、翌月にはリベンジを果たし小川を失神KOさせる。
1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは完全なセメントを仕掛けられ、橋本は手も足も全く出ず事実上の敗北を喫する(結果は無効試合)。この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではない、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であった。当時全日本の三沢も全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントをする。当時の全日本プロレス中継で新日本プロレスについて語る事は異例中の異例の事であった。
同年10月にも敗れ、小川との最後の戦いとなった5戦目の2000年4月7日東京ドームでは「負けたら引退」を公約したが、敗退し、公約どおり新日に辞表を提出した。
しかし同年8月23日、熱心なファンの子供から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回表明。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10月9日東京ドームで藤波辰爾と復帰戦を行い、 その直後に新日内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州力らの反対に合い社内で孤立。その結果、11月13日付で新日より解雇を言い渡されたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12月23日にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)を果たす。2001年3月2日「破壊なくして創造なし古きを滅せねば誕生はなし時代をひらく勇者たれ」との理念のもと旗揚げ試合では新日の永田裕志と組み、ノアの三沢光晴・秋山準組と対戦。試合後にはノア勢に小川直也、藤田和之らも入り乱れての大乱闘に発展し、プロレス界に大波乱を巻き起こした。後に小川直也とは和解し、ZERO-ONEにて共闘、「OH砲」として絶大な人気を得るようになる。
2003年には自らのゼロワン勢を率いて全日に乗り込み、全面抗争が勃発。頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦を制してゼロワンに全日の至宝を持ち帰った。5月、小川と組み、武藤、小島組と対戦し、勝利するも、川田が乱入し「橋本おまえが誰に勝とうが誰を潰そうが、オレを潰さない限り全日本は潰せないぞ」とマイクを浴びせられる。そして7月、橋本、小川vs川田、武藤の試合が決定する。しかし橋本はこの世紀の一戦前に足をケガし負傷したままリングに上がる事になる。さらに試合中川田の蹴りをチョップで返したところ右肩を脱臼してしまう、それでも川田の病み上がりの足(川田はこの時足のケガで1年間休み復帰直後であった)を関節で必死に決め勝利する(川田の足を心配しセコンドの渕正信がタオルを投入)。しかし後にこの時の脱臼がきっかけで三冠ベルトは返上する。
11月東京スポーツ紙上での長州力への口撃及びその後のコラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入。同年12月団体戦、2004年2月にはシングルで激突、連勝した。
2004年2月、3冠王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩のケガがきっかけで敗れる(セコンドからタオル投入)。(四天王とのシングル戦はこの川田戦のみで、くしくも四天王とはこれが最初で最後のシングル戦となった)
2004年にハッスル1にもハッスル・キングとして参戦。高田モンスター軍総統からポークと揶揄される。しかし同年、新日マットに急接近したことで大谷晋二郎との確執が生まれ、11月25日にゼロワン崩壊を宣言し、負債は全て自ら被ることで決着。一人でフリーの道を歩むことになる。負債の経緯については諸々の物議を醸したが(負債の責任の一端に橋本のどんぶり勘定による経営があるなど)、ある業界関係者をして「プロレス界のレスラーで実際に責任を自ら全て背負ったのは橋本くらいじゃないか」と言わしめた。
そして長い間治療せず放置していた右肩にもメスを入れ、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、 2005年7月11日午前、滞在先である横浜市内の婚約者宅において脳幹出血で倒れ、そのまま亡くなった。40歳だった。皮肉にも高校生の頃に失った母と同じ死因だった。7月16日に行われた葬儀では盟友である武藤・蝶野、小川直也ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上の参列者が集い、涙し故人を悔んだ。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤、蝶野の受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、普段クールなイメージの蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもある高島宗一郎KBCアナウンサーの涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本選手の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハシモト」コールの大声援に包まれて送り出された。戒名「天武真優居士」。
バラエティ番組『ロンドンハーツ』が、生涯最後のテレビ番組出演だった。(後述のエピソードを参照)
[編集] 特記
橋本が新日本在籍時代、ファンは夢のカードとして全日本・三沢光晴との「ミスターIWGP vs ミスター三冠」対決や、川田利明との「キック対決」を望んでいた。しかし橋本自身は全日本で一番戦いたい相手として、雑誌やトークショーで常々小橋健太(現・建太)の名を挙げていた。橋本がZERO-ONE設立後、三沢・川田との対戦は実現したが、小橋との対戦は遂に叶わぬ夢のままで終わった。
[編集] 師・猪木
師匠・猪木との関係は、愛憎入り乱れた壮絶な師弟関係であった。
中学時代に猪木VSウィリー・ウィリアムス戦を見て猪木の魅力にひかれ、卒業文集には「尊敬する人・アントニオ猪木」と書くほど猪木に心酔した。やがて新日に入門した橋本は猪木の闘魂哲学を徹底的に叩き込まれ、試合用ガウンには「闘魂伝承」の文字を入れるほど猪木イズムの伝承者として活躍。IWGPベルトを通算20回防衛するなど90年代の新日を名実共に引っ張る大スターへと成長した。
しかし1997年、元柔道世界王者・バルセロナオリンピック銀メダリストの小川直也がプロ格闘家として猪木に弟子入りした事で、2人の師弟関係に亀裂が入る。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸締めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1ヶ月後に橋本はリベンジを果たすが、1999年1月4日、三度目の対戦で事件は起きた。プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本はなす術なくやられてしまうのである。試合は無効試合となったが、試合後の会見で橋本は「絶対許さない」と黒幕・猪木への怒りをぶちまけた。同年10月、4度目の対戦が行われるがここでも橋本は無残な敗北を喫する。
「橋本を殺せ」との猪木のメッセージを受けた小川は2000年4月の5度目の対戦でも途中腕を脱臼するなど土壇場に追い込まれたものの、橋本の技が決まった瞬間に奇跡的に腕が治り橋本を破る。しかしこの試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に猪木は「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになる。翌2001年にゼロワンを旗揚げした橋本に猪木は「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、橋本の最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し、以降2人でタッグを組むようになった。
しかし同年6月、当時PRIDE戦士だったマーク・ケアーの「ゼロワン真撃」への参戦問題(DSE側のコメントによると「PRIDEのためにDSEの費用で来日したケアーに、橋本が許可無く会って、ゼロワン参戦の交渉をした」というもの)に端を発し、二人は再び袂を分かつ事になる。だがそれは遺恨を残した別れではなく、プロレスラーとして独り立ちし、さらに高い位置を目指すための行動だったともいえる。その後二人は一定の距離を置いてそれぞれの道を目指した。そして2005年、橋本は逝去。猪木は最愛の弟子の赤シャツで追悼し、一部に物議をかもした。
[編集] エピソード
- 「トンパチ」という表現を用いられることが多い。トンパチとは常識・既成概念があてはまらない思考・行動をする人間を指すプロレス用語(トンボにハチマキの意味)。
- 坂口征二の付き人時代、坂口の持つ高価な水虫の薬の瓶を割って紛失する等、大きなミスを連発し、野上彰が「付き人の付き人」として橋本に付いた。
- バットマンが大好きで、自分用のバットマンのコスチュームを特注で作り、それを着たまま外をねり歩いた。サイズは橋本の体躯に適合するように若干太め。
- 海外遠征時、テネシー州にあるエルビス・プレスリーの記念館に行ったのをきっかけにプレスリーかぶれとなり、その後しばらくプレスリーの様な服を着ていたという。
- 小島聡が虫が苦手ということを知り、公園でセミを大量に捕まえて小島の部屋に放った。
- 空気銃で撃った雀を付き人時代の天山広吉に食べさせた。天山はその後保健所に電話し「伝染病とかは大丈夫なんでしょうか」と聞いた。その他もう一人の付き人である西村修ら、若手レスラーを引き連れて起こした数々の「遊び」は数々の逸話を残した(最大の被害者は天山広吉であった)。
- とても料理上手であった。天山に雀を食べさせたエピソードも、水に付けて羽根を取り、自ら包丁で捌き、茹で、調理してから天山を騙して食べさせたと言う。同じ寮生で仲が良かった獣神サンダー・ライガーの証言によると、寮でもその料理は凝っており、ある日「豆腐を作る」と言い出し、苦汁や大豆を買い出しに行き、自ら豆腐を作った。またラーメンなども、自分で出汁をとる本格派であったという。ただし、食材に拘りすぎるあまり、豆腐一丁に一万円ほどかかってしまった。
- アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対談で、同じブラジル人というだけで「マルシアを知ってるか」と訊いた。
- アントニオ猪木・坂口征二とタッグ対決をする際、控え室でピリピリしたムードの中、アナウンサーが橋本にインタビューした際に橋本が「時は来た!それだけだ」と大真面目に言ったところ、横にいたタッグパートナーの蝶野が思わず笑ってしまった。
- 生涯最後のバラエティ出演となったロンドンハーツでは、西口プロレスにおいて長州小力がマイクパフォーマンスとして「橋本、出て来い!」と言ったところ、テーマソング『爆勝宣言』とともに本人が出てきて小力を懲らしめるという、番組のお仕置きを行った。
[編集] 獲得タイトル
- IWGPヘビー級王座 : 第14代(防衛4回)、第16代(防衛9回)、第19代(防衛7回)
- 闘魂三銃士の中でもダントツの防衛回数を誇り、橋本の戦跡を語る上で欠かすことの出来ないものである。第16代王者時代に作った9回の防衛記録は後に破られるまで最多防衛記録であった。
- IWGPタッグ王座
- 三冠ヘビー級王座 : 第31代王者(防衛2回)
- NWA世界ヘビー級王座
- NWAインターコンチネンタル王座 : 第10代王者(防衛3回)
- 第8回G1クライマックス優勝(1998年)
- 第6回SGタッグリーグ優勝
[編集] 受賞
- 土岐市スポーツ栄誉賞
[編集] TVドラマ出演
- ウルトラマンガイア(1999年、第34話「魂の激突!」に本人役で特別出演。熱烈なウルトラマンファンだったことからゲスト出演が実現)
- きみはペット2003年、第7話 本人役
- ビー・バップ・ハイスクール2003年、本人役
[編集] アニメ出演
- グラップラー刃牙(アルテミス・リーガン役で特別出演をした)
[編集] 映画出演
- あゝ!一軒家プロレス(ソフト・オン・デマンド)
- 魁!!クロマティ高校(山口雄大監督作、本人役で出演)
- 力道山(東浪役)
[編集] 得意技
- 各種キック
キックは若手時代からの得意技で、当時から威力のあるキックを使用していた。気合を入れ、十分にタメを作って放つキックはプロレス的な説得力に溢れ、それだけでフォールをとれる技である。猪木はそのローキックを受け、「相当効いていた」と話している。
数あるプロレス技の中でも、一位二位を争うほどの強力な技である。それを食らう選手、見ている観客に与えるインパクトも大きく、特に98年G1クライマックスの優勝決定戦で山崎一夫と対戦したとき、この技でマットに山崎の頭を叩きつけた際はゾッとするような角度だった。それだけにフィニッシングホールドとしての説得力も十分すぎるほどであった。垂直落下式ブレーンバスターと混同されやすいが、橋本のこの技は、ゆっくりと持ち上げて頭からリングに叩きつける技でありステップもブレーンバスターではなくDDTのステップである。それは、自然重力落下よりも(ブレーンバスターの中にも、下方に加速を付加するバリエーションもあるが、先のステップも含め)、技をかける側が意図的にマット上(下方)へ加速する着地に近いことでわかる。実際この技を喰らって返したレスラーはロード・スティーヴン・リーガル(現:ウィリアム・リーガル)のみである。
- フィッシャーマンDDT
先述の垂直落下式DDTを身に付けるまでの必殺技。垂直落下式のフィッシャーマンズスープレックス。
- ジャンピングDDT
飛び上がってマットに突き刺すDDTで、通常のDDTよりスピードもつくため威力も高い。 これでフォールを取れない相手に対しては、垂直落下式DDTを繰り出す。
- 三角絞め
相手の肩と首を両足で挟み込んで絞め上げる技。橋本の場合は技の入り方がやや独特である。
- 水面蹴り
地を這うように回転しながら相手に脚払いをかける。 ボクサーのトニー・ホームに敗戦した後、リベンジマッチのために習得。おそらく、中国武術の後掃腿がヒントだと思われる。中国遠征というアングルが組まれたが本当に行ったかどうか不明。ファンの間では96年4月の高田延彦戦、00年4月の小川直也戦で繰り出した水面蹴りが有名。
- 燕返し
右回転しての水平チョップ。
- 袈裟斬りチョップ
使用頻度の高い技で、キックと共に橋本が試合を作る上で非常に重要な技である。
- ダイビングフットスタンプ
主にタッグ戦で使用。
- オレごと刈れ
小川直也との合体技。橋本が後ろから相手をつかんでジャーマンスープレックス、あるいはバックドロップを仕掛けると同時に、小川が橋本ごとSTOを仕掛ける。
- 刈龍怒(かりゅうど)
小川直也との合体技。橋本が水面蹴りを、小川がSTOを仕掛ける。二人の得意技を使った強力な技。