西村修
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西村修 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 西村修 |
本名 | 西村修 |
ニックネーム | ミスター無我 無我説法師 無我の継承者 |
身長 | 186cm |
体重 | 105kg |
誕生日 | 1971年9月23日 |
出身地 | 東京都文京区 |
所属 | 無我ワールド・プロレスリング |
スポーツ歴 | バレーボール レスリング |
トレーナー | 藤波辰爾 ヒロ・マツダ カール・ゴッチ ドリー・ファンク・ジュニア |
デビュー | 1991年4月21日、飯塚高史戦 |
西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - )は、無我ワールド・プロレスリング所属のプロレスラーである。東京都文京区出身。階級はヘビー級。ミスター無我、無我の継承者のニックネームを持つ。サブミッション系の技を駆使するねちっこいプロレスは「西村ワールド」と呼ばれ、それに引き込まれると相手はなかなか自分のペースを掴む事が出来ない。現在、慶應大学の通信教育課程で哲学を学んでいる。
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[編集] 経歴
錦城学園高校在学中に新日本プロレス学校に入門。卒業後の1990年に新日本プロレスに入団。
1991年4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之(現・飯塚高史)戦でデビュー。
1993年、第4回ヤングライオン杯に準優勝後、海外武者修行に出発。
1995年に海外武者修行から帰国し、藤波辰爾の自主興行「無我」にもレギュラー出場した。
1997年、再び海外修行へ出発し、欧州CWAマットに参戦。
1998年1月4日に凱旋帰国。直後に佐々木健介が持っていたIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ミサイルキックを何度も使う単調な試合運びに終始し、批判を浴びる。しかし現在では今につながる西村の頑固ぶりが出た最初の試合として記憶されている。その後、後腹膜腫瘍により欠場。原因として当時現場責任者であった長州力の横暴なやり方によるストレスだと言われ、それ以降長州を非常に嫌っている。新日本プロレスの選手としては珍しく言葉遣いが丁寧であるが、長州絡みとなると理性を失う。「生きて帰れると思うな!」発言からも見て取れる。
手術後も独自の食事療法と精神修行に励み、2000年に藤波戦で復帰。藤波と組んでIWGPタッグを奪取する。
2002年にプロレスリング・ノアに一日トレードの形で出場し、西村とファイトスタイルが似ていると言われる志賀賢太郎と対戦。また2003年にはノアの秋山準とG1 CLIMAXで対戦し勝利している。2004年にはかつての先輩である武藤敬司率いる全日本プロレスのマットへと上がった。両団体に出場することで新日本に無いものをこの両団体で感じ取れたと言い、段々新日本のプロレスが物足りなくなっていき、他団体への興味を持ち始める。同年、映画「いかレスラー」に主演。主題歌も歌っている。長身で顔もいいため映画「いかレスラー」同様、将来のエース候補と呼ばれたこともあった。プロレスの原風景ともいえる「無我」スタイルを伝道する姿は、ガンとの闘いに勝利しリングで活躍し続ける彼の生き方、彼の人間性を反映した数々の発言とも相まって広い支持を集めている。プロレス復興の中心となるのは、彼なのかもしれない。
2006年1月24日に新日本プロレスを退団。フリーバード(フリーランス)として「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言した。本人によるとフリー転向後の日本での初試合は「自主興行」として行う予定だが、インタビューで「自主興行にインディーはいらない」と言ったことで業界内からも批判の声を浴び、退団直後の発言との整合性を指摘する声もある。 さらに、無我~の9月シリーズの大分興行では大分のインディープロレス団体プロレスリングFTOが提供試合を行うこととなった。
8月2日、後楽園ホールで西村修+田中秀和自主興行『新無我伝説 エピローグ~BLACK CAT MEMORIAL 』を行い、ヒロ斉藤と対戦した。 これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、「無我ワールド・プロレスリング」を設立することが決まった。
[編集] 逸話など
- 1993年からのタンパでの海外武者修行時代、ヒロ・マツダに弟子入り。マツダが何故一匹狼として活躍できたかの話を聞き、感銘を受けた。「どんなに一流になろうが、自分のことは自分でやれ」と言われたことから、帰国後新日本で地位を築いた後も付き人を付けず、自分で洗濯や所用を済ませていた。
- 無我旗揚げ以前、何もないときはアメリカのタンパで暮らしていた。カール・ゴッチの世話をしながら夜にはワインを酌み交わし、プロレス談義に花を咲かせていたという。また、ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコの自宅にもよく通い、現役時代の話を聞いており、西村は「こんなに勉強になる環境は無い」と語る。西村はマツダ、ドリー、ブリスコ、ゴッチを「師匠」と呼んでいる。
- ゴッチを師匠と呼ぶが、ファイトスタイルは相手を戦闘不能にすることを目指すゴッチのシュートスタイルとは真逆の、技術や動きを綺麗に観客に見せることを中心と置いたものである。鈴木みのるに「ゴッチさんから最も遠いところにある」と指摘された(4の字固めをかけながら座禅・ヨガの手組ポーズなどを見せるスタイルのため)。
- 長州を毛嫌いしているが、西村にタンパでの武者修行をさせるようにしたのは長州本人である。
- 現在のプロレスを「学生プロレス」と扱き下ろした前田日明も西村の人柄を認めており「ゴッチさんの世話をしてくれて、有り難い。身体に気をつけて頑張って欲しい」(プロレス格闘技DX木曜日『大殿が斬る』より)と話している。
- 2006年4月から慶応義塾大学の通信教育課程に入学することとなった。
- 腫瘍完治後からの食事療法によると「陰と陽の食材」があるそうで、「夏は陽の季節なので陰のモノをとると良い」とのこと。逆にすると体調が悪くなるらしい。これは多分にヨガの影響を受けた考えである。
- 独自の難解なプロレスや人生の哲学を語る。あまりにも長い論理を話すので、新日本プロレスの年頭中継の新年ご挨拶では「早送り」されることがお約束となっていた。
- 現代文明や消費社会を批判する発言をしていたが、中邑真輔に「電動ハブラシを使っている」とギミックであることを裏付ける形での指摘を受けた。
- 現在に至るまで独身。永田裕志の結婚披露宴の際にインタビュアーから突っ込まれた時「今の私は、独身生活が楽しくて仕方がありません」と答えていた。横で聞いていた金本浩二(彼も独身である)も苦笑いして「そうやね、独身生活楽しいな」と答えていた。
- 拠点を置くタンパと日本との移動の際には、必ずユナイテッド航空を利用し、世界中を修業する際もできる限りユナイテッド航空を利用するほど、ユナイテッド航空をひいきしている。そのため日頃から「私にはパスポートとユナイテッド航空のチケットさえあればいい」と語り、ユナイテッド航空を絶賛している。
[編集] 整合性問題
- 無我ワールドの旗揚げ前に「自主興行にインディーはいらない」と答えた事
- 新日本退団後、世界中のあらゆるプロレス団体に参戦したいと語っていた。
- 無我~の9月シリーズの大分興行ではローカル団体FTOの提供試合が組まれている。
- しかしながら「インディー団体」の明確な定義はなく、個人の価値基準に依存するため、西村の定義では前述のFTOはインディーではないとも言える。
[編集] タイトル歴
- IWGPタッグ(パートナーは藤波辰爾、天山広吉)
- GWF認定ライト・ヘビー級選手権
- CWAシュートファイティング王座
- フロリダ地区認定USヘビー級
[編集] 得意技
- ミサイルキック
- スープレックス系
- スピニング・トーホールド
- コブラツイスト
- エルボースマッシュ
- ヘッドシザーズを倒立で外す
- 倒立は観客を魅せる西村の代表的な技であるが、対戦相手も対抗して使ってくることがある。巨漢のスコット・ノートンも西村戦で使用したことがある。ただし、西村は自分のヒザをヘッドシザースで締めている両足に落とすことでヘッドシザースを外す(テコの原理)が、ノートンは力ずくで外している。
- 卍固め
- 逆さ押さえ込み
- ジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールド(後方回転エビ固め)
技ではないが、相手とロックアップし、そのまま西村優勢で相手の背中がロープに触れ、ブレイクとなり分かれる瞬間に(特に試合開始早々)、相手の胸元を両手で軽く突く仕草をする。しかし川田利明とのシングルマッチでそれを行ったところ、川田の怒りを誘ってしまった。『分かれるときはクリーン』というムーブ名で呼ばれることもある。
[編集] 外部リンク
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