東京高速鉄道
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東京高速鉄道株式会社(とうきょうこうそくてつどうかぶしきがいしゃ)は、現在の東京地下鉄銀座線の新橋駅~渋谷駅間を建設した鉄道会社である。
[編集] 経緯
もともと東京市(1943年(昭和18年)に東京府と合同して東京都になる)は市内交通の公営主義から地下鉄も市営で建設しようとしていたが、予算が無かったため、浅草駅~新橋駅間の地下鉄路線を建設した東京地下鉄道が好成績を収めているのを見た企業家が、東京市の持つ地下鉄建設免許の譲渡を請願、それが認められたために1934年(昭和9年)9月にその建設運営を行う会社として東京高速鉄道が設立された。当初は前年までに会社を設立することが免許譲渡の条件とされていたが、予算が集まらなかったため延期され、結局東京横浜電鉄(現、東京急行電鉄)系列の総帥五島慶太を発起人に加える形で設立にこぎつけたものである。そのためもあって、五島が経営の主導権を握ることになった。
譲渡された免許区間は渋谷~東京(丸ノ内)間と新宿~築地間であったが、取りあえず東京地下鉄道は東京横浜電鉄のターミナルがある渋谷からの建設を開始し、1938年(昭和13年)に渋谷駅~虎ノ門駅間を開通させた。その後、東京高速鉄道は新橋駅まで延伸して東京地下鉄道線との直通運転を目論むが、早川徳次率いる東京地下鉄道は京浜地下鉄道を設立して新橋駅から品川駅まで延伸し、京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)との直通運転を考えていたことから、当分は無理としてこれを拒否した。五島はこの計画を阻止しようと考え、京浜電気鉄道と東京地下鉄道の株式を抑えて京浜電気鉄道を支配下に置き、更に東京地下鉄道を東京高速鉄道に合併させようとした。
しかし五島は東京地下鉄道株式の35%しか押さえることができなかったため、五島派と早川派による経営権の争奪競争になり、更に東京地下鉄道の従業員も合併には猛反対であった。結果、株主総会が両派それぞれ別の場所で開かれようとするという異常事態に陥り、内務省(現在の総務省・国家公安委員会・国土交通省の業務の一部をそれぞれ担当)の仲裁によって五島・早川の両者が地下鉄事業から手を引く事を条件にして調停を行い、議決権の棚上げも決められた。
だが五島は東京高速鉄道取締役に収まったままとなり、東京高速鉄道側からは東京地下鉄道に多くの役員を送りこませたため、この競争は事実上早川の敗北となった。またこれは、五島慶太の「強盗慶太」というあだ名を広めるひとつの要因ともなった。
なお1939年(昭和14年)1月には新橋駅への延伸を果たすが、当初東京地下鉄道は直通の準備ができていないことを理由に自社駅への乗り入れを拒否したため、東京高速鉄道は独自に駅を建設し、以後東京地下鉄道の駅への乗り入れが実現する9月までの8ヶ月間は、両者の新橋駅が壁を隔てて対峙することになった。
その後東京地下鉄道と東京高速鉄道は、未成に終わったペーパー会社の京浜地下鉄道とともに、戦時中の交通事業再編・統制を行うための陸上交通事業調整法に基づき、1941年(昭和16年)7月に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)へ統合された。
現在でも、東京高速鉄道が建設した新橋駅のホームは残存し、車両留置や資材置き場などに活用されている。テレビ・雑誌などでよく「幻の駅」として紹介されており、営団地下鉄も過去にイベントで「幻の駅体験」としてそのホームに入線し、車内からホームを見物する列車を設定していた。
[編集] 以後への影響
東京市は市営交通の公営主義を唱えていたのに東京高速鉄道へ免許を譲渡したことで、鉄道省(後、運輸省→国土交通省)からの信用を失ってしまい、戦後東京都が営団地下鉄の都営化を主張したときも、東京都だけで地下鉄の建設運営を行うことは不可能と考え、これを運輸省は阻止した。以後、東京における地下鉄整備は営団地下鉄と都営地下鉄(1960年(昭和35年)に現在の浅草線を部分開業させたのを皮切りに、順次路線延伸)が分担して行うことが方針として定められ、2004年(平成16年)に営団地下鉄が再編によって東京地下鉄(東京メトロ)となった現在でも、原則としてそれは引き継がれている。東京の地下鉄運営団体が2つ存在するのは、このような経緯によるものである。