加羅
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加羅(カラ)は、古くは、伽耶もしくは任那東部の日本及び中国における呼び名で、現代は韓国でも使われる。しかしながら、史書では任那と加羅を分ける事も多く、別の国であるか、任那と呼ばれる地域の一国であった可能性が高い。駕洛国(伽耶国の別称)の中国における音写である可能性も考えられる。加羅の名称は朝鮮の歴史書である三国史記・三国遺事には見られず、主に中国の正史、日本書紀などで散見される。そのため、歴史は主として考古学遺物から、さらに文献史料を援用して再構成して記述されることが多い。
日本に取っての一番近い外国であったようで、外国一般の事も「から」と呼んでいた。「から」と言う呼称は、韓や唐と言う字の訓読にもあてられ現代も舶来物を唐物(からもの)と呼んだりもする。親しい西方の外国というニュアンスでその痕跡が残っており、かつての倭国の一部として栄えた朝鮮半島の任那周辺に相当する地域だと考えられている。
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概説
三国史記などの文献史料に現われた伽耶諸国に関する記録は西暦3世紀までは神話・伝承記録に過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などで紀元前1世紀頃に初期形態の国家が形成されたと推測される。西暦紀元前後に鉄器文化が普及して、弁韓諸国が出現し、これら諸国間の統合が進行して西暦2,3世紀には弁韓地域に金海の伽耶国を中心にした前期伽耶連盟が成立、4世紀初以後その勢力が弱化し始めて4世紀末5世紀初にはほとんど沒落した。 5世紀後半に再統合の機運が起きて高霊の大伽耶国を中心に後期伽耶連盟が形成されて6世紀初には独自勢力を確立したが、結局562年新羅に併合された。
前期伽耶連盟
朝鮮半島南部洛東江下流地域は紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器系統の住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら富が蓄積し、支石墓を築造、青銅器を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景で社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。やがて西紀前後これらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件で相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。 西暦2,3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海の伽耶国であり、伽耶国を盟主として前期伽耶連盟を形成、対外的に周辺地域と交易を行い、辰韓(新羅)と勢力を争ったりした。前期伽耶連盟の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯だった。高霊・咸陽の内陸山間地方は周辺地域に属したまま後進状態にあった。 4世紀初に至って高句麗が楽浪郡・帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼし、百済も4世紀中葉に朝鮮半島南端の伽耶にまで影響力を及ぼすようになった。また新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。伽耶は楽浪との交易断絶で打撃を受けたが、百済と商業交易を引き続き行った。しかし4世紀末から5世紀初高句麗・百済の間の覇権争いで百済が敗れ、高句麗広開土王の軍隊が洛東江下流まで達して伽耶を討伐したので、前期伽耶連盟は大きな打撃を受けて瓦解した。これに比べて高霊・咸陽などの内陸山間後進地域は戦争の被害を被らないで勢力を維持することができ、新羅に近い伽耶地域は新羅影響圏に入った。
後期伽耶連盟
勢力が縮小した伽耶地域は5世紀に入って再び成長し始めた。西部慶尚道内陸地方の高霊・居昌・山清・咸陽・南原などの勢力は急速に発展し、先進地域から脱落した慶尚南道海岸地帯の金海・咸安・泗川などの勢力も復旧の動きを見せていた。このような中、新羅は5世紀前半に高句麗の干渉を排除して百済と和親を結んだが、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年百済を撃って首都・漢城を陷落させ、新羅はこの機会に秋風嶺を越えて西方に進出するなど国際環境が大きく変動した。 5世紀後半に周辺情勢が急変すると危機意識を感じた旧伽耶地域の小国の間に伽耶の再統合動きが起き、高霊地方の主体勢力だった半路国(または半跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成した。高霊大伽耶を中心にした後期伽耶連盟は481年高句麗・靺鞨の新羅侵入に対して百済と同盟して援兵を送るほどに国際的に成長した。その後百済と倭が河東を交易場に利用しようとすると、大伽揶は百済と小白山脈を境界とし軍事的に対峙するようになった。百済と倭が伽耶をさしおいて交易を頻繁にすると、大伽耶の異脳王は国際的孤立から脱するために522年新羅の法興王と婚姻同盟を結んで安定をはかった。その後、後期伽耶連盟の一国だった卓淳などが新羅に併合され、伽耶南部地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれ、結局新羅に併合された。後期伽耶地域の中で最も優勢だった大伽耶は自分の勢力だけで新羅に対抗したが、結局562年新羅に併合された。
日本への影響
加耶(加羅)は古くから倭人が製鉄技術を起こしてきた土地柄であり、古事記、神社名などに残る加夜の字は加耶からきた説がある。出雲地方ではこの加夜、加羅のつく神や神社が多くこの地方が加耶文化に影響を受けている可能性が高い。なかでも製鉄技術は1000年以上も前からこの地で行われており、現在でもその影響で安来市などでは鉄鋼製造が盛んである。 加羅(カラ)の言葉は、一般に日本列島の西部にある外国を示す言葉として残り、サツマ芋などは別称カラ芋ともよばれ外国産の芋という意味があった。韓や唐をカラと読むのはその影響である。しかし、現在の韓国はその文化だけを継承したものと錯覚されがちであるが、現在の朝鮮半島の人が単一民族としてアイデンティティを確立するのは高麗の時代であり、祖となる人々は高句麗、新羅、百済、加耶などの人々が含まれ、倭人系と思われる加耶の人も金海金氏として韓国で最大の氏族を形成している。