八王子市の歴史
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<八王子市
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八王子市の歴史(はちおうじしのれきし)では、現在の東京都八王子市に属する地域の歴史を詳述する。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 古代
現在の八王子市域に人々が住み着き始めたのは有史以前の時代のことで、市域には先史時代の遺跡が数多く点在している。代表的なものとして国指定史跡である椚田遺跡のほか、船田、北野などの各遺跡があり、八王子市域のこの時代の遺跡は主に浅川およびその支流付近の段丘面に位置している。縄文時代中期から平安時代に至るまでの集落が同一の遺跡から発見されており、先史時代からかなり後の時代まで、人々は河川付近の段丘面にのみ集住して暮らしていたことがわかる。
1964年に発掘された宇津木向原遺跡では、ムラの住居跡ともに方形周溝墓が発見された。特定の個人を葬った方形周溝墓は弥生時代のムラにおける身分格差を示すとされている。
この地が朝廷(畿内政権)の支配下に組み入れられると、市域は武蔵国の多麻郡(現代の用字では多摩郡)に編入された。古代に八王子市域に存在した郷名などははっきりしないが、931年に勅旨牧に指定された小野牧(おののまき)を八王子市由木付近に求めようとする説がある。
律令制が崩壊し荘園制が発達して関東各地で武士団が形成された平安時代後期には、武蔵七党のひとつ、横山党がこの地方に興った。横山党は古代氏族小野氏の末裔である小野義隆が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町に名を残す横山荘に居館を構えて横山氏を称したのに由来する。横山党の一族には由木氏・海老名氏・平山氏など八王子近辺の地名を名字とする武士がおり、その勢力が八王子市域一帯に広がっていたことがわかる。
[編集] 中世
横山党の勢力は鎌倉時代に入ると衰退し、13世紀にはかわって鎌倉幕府の重臣大江氏の一族である長井氏や、執権北条氏の一族の支配が浸透した。室町時代に入り、15世紀になると関東管領を世襲した山内上杉家の被官で武蔵など関東数カ国の守護代を歴任した大石氏が武蔵西部に地盤を築き、八王子市域一帯を支配するようになった。片倉城や高月城、滝山城などの八王子市域の中世城館の多くはこの時期に建てられたものである。
戦国時代に入ると、16世紀前半に南の相模国から北上してきた後北条氏が多摩地方から武蔵全域に向かって勢力を伸張し、大石氏もその圧力を受けた。1546年、山内・扇谷両上杉家が河越夜戦で敗れると大石氏は後北条氏に屈服することになり、北条氏康の次男氏照を養子に迎えることで、完全に後北条氏に取り込まれることになった。
氏照は、はじめ大石氏の地盤をそのまま受け継いで滝山城に拠っていたが、1584年ごろ、滝山城の西南にあって甲州街道筋の敵軍を監視することができる深沢山に新城を築城した。この城は、山麓に牛頭天王の八人の王子神である「八王子権現(はちおうじごんげん)」が祀られていたのを城の鎮守とし、八王子城と名づけた。この城名が市名の由来であり、山の南麓を流れる北浅川の支流、城山川の谷筋に沿って設けられた城下町が八王子の町のもとになった。これが現在の元八王子町である。
八王子城遺構の調査、発掘と遺跡の整備は近年急速に進んでおり、この城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や大きな城門を備えた大がかりなものであったことが明らかになってきた。遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具、香炉などが出土し、城内の生活をしのばれる。
[編集] 近世
1590年、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、秀吉の小田原攻めが始まると、城主氏照以下、八王子城衆の主力は小田原城に入った。このため八王子城は家老以下わずかな兵で守らざるを得なくなり、さしもの巨城も上杉景勝・前田利家らの北陸勢の猛攻を受けて落城した。
その後小田原城が降伏し、氏照が兄の北条氏政とともに敗戦の責任をとって切腹すると、没収されたこの地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた。家康もまた後北条氏と同じく、家康の居城が置かれる江戸を甲州口から守るための軍事拠点として八王子を位置付けた。
しかし徳川氏は後北条氏のように八王子に支城を置かず、八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領とした。八王子には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当した。長安は甲州街道を整備し、八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに新たに八王子町を設けて旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた。
徳川氏による八王子の開発の結果、1650年代までに現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、八王子十五宿(八王子横山十五宿)とよばれるようになる。この宿は街道中最大の宿となった。八日市・横山・八幡などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ、そして八王子町へと受け継がれたものである。また徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣で軽輩の者を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ、普段は百姓として田畑を耕し、日光警護など特別な軍事目的の場合には下級の武士として軍役を課す八王子千人同心とした。
八王子宿への代官の駐在は1704年に廃され、関東御料の代官は江戸に移住する。なお、八王子宿は幕府直轄の天領であったが、江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く、一元的領域支配は行われていない。
近世後半には全国的に生産力の増大がみられ、なかでも米などの貢納用作物のほかに商品作物の栽培が増加するが、八王子宿を中心とする周辺の村々では主に、絹の原料となる蚕やその飼料となる桑、あるいは茶など商品作物の生産がさかんになった。しかし、生産力の増大は一方で農民の間に経済力の格差の拡大をもたらし、結果として治安も悪化することになる。その改善を目指した幕府の文政の改革により、関東地方では組合村(寄場組合村・改革組合村ともいう)が結成される。このとき八王子宿近辺では八王子宿組合村が成立した。これにより八王子宿とその周辺の村々の間では治安面などでの広域的な連携がみられるようになった。この八王子宿組合と、小仏関を中心とする小仏駒木野組合の構成は、ほぼ現在の八王子市の行政区域と重なっており、現在の市域に地域自治的なまとまりがこの頃生まれていたことがわかる。
幕末期、横浜開港により絹が主要な輸出産品となると、八王子は生糸・絹の一次生産地として、また関東各地から横浜へ送り出す輸送の中継地として栄えた。慶応年間、武州一揆や長州戦争など社会情勢の不穏さが増すと、幕府は八王子陣屋の再設置を計画する。すなわち、幕府は、相給地の私領を整理して多摩郡の宿村をすべて幕領とし、村落支配を一元化することを試みたが、陣屋の設置による代官の交代と、引き継ぎに伴う混乱を嫌った八王子宿その他多摩の村々の反対により、実現せずに明治維新を迎えた。
[編集] 近代
維新後も、八王子は引き続き生糸貿易の中継地として隆盛した。1873年には「生糸改会社」が、1886年には織物仲買商により織物組合が結成された。織物組合は1899年に機業家を加えて織物業同業組合に発展改組され、現在の八王子織物工業組合の起源となっている。繊維産業の隆盛は、製糸業者萩原彦七が私財を投じて架橋した萩原橋(浅川)の名からも窺い知れる。
1889年には甲武鉄道が開通し、東京との間を結んだ。現在のJR中央本線である。1917年には多摩地区では初の市制を施行するなど、多摩地区の中心都市として位置づけられた。
1926年に大正天皇が崩御すると、翌年初め、陵墓の地が横山村に選定され、多摩御陵と名づけられた。これに伴い、近接する甲州街道の改修などが進んだ。御陵参拝の玄関口となる皇室専用駅の東浅川駅および省線浅川駅(現・高尾駅)前と追分の間の甲州街道にイチョウ並木が整備されたのもこのときである。拡幅された甲州街道には、1929年に路面電車である武蔵中央電気鉄道が開通、また、陵墓への参拝客の輸送のため、京王電気軌道は1931年に御陵線を開通させた(路面電車は1939年に廃止、御陵線は1945年、不要不急線として廃止された)。
昭和初期の不況や、1937年にはじまる日中戦争期のいわゆる戦時体制により、繊維産業も徐々に衰退した。とくに戦時中には繊維業でも軍需工場への転換が進み、また、従業員の徴兵などによる人手不足や企業統合により休業・廃業する工場も現れた。
太平洋戦争末期には多摩地区の中心都市であることや、軍需工場の存在により、八王子は米軍の攻撃目標とされた。1945年8月2日未明の空襲では、B-29の編隊170機により約67万発の焼夷弾が投下され、当時の市街地の面積比で80%、戸数にして14,000戸以上が焼失し、450名余が死亡、2,000名以上が負傷した。同月5日昼には、高尾山にほど近い中央本線の湯ノ花(別称:猪鼻・亥ノ鼻)トンネル出口で、長野方面の疎開地に向かう人々を乗せた下り列車が米軍機P51の機銃掃射を受けた。一部をトンネル内に残したまま停止した列車は炎上し、死者53名・重軽傷者133名の被害を蒙った(死傷者数を900名以上とする説もある)。終戦間近に起きた八王子大空襲と湯ノ花トンネルの事件は、戦争の悲劇として市民に記憶されており、現在でも慰霊祭が行われている。
[編集] 現代
戦後の1946年、八王子は戦災都市の指定を受け、復興計画が策定された。1950年代からは町村合併法に基づいて周辺町村の編入が進み、1955年には横山村ほか5村と、1959年には浅川町と合併、1964年8月1日の由木村との合併をもって、現在の市域がほぼ定まった。同年10月行われた東京オリンピックでは、自転車競技の会場となっている。
同年暮には多摩ニュータウンの計画がスタートし、1971年に入居が開始した。このほかにも郊外の丘陵地を中心に新たな住宅団地が造成され、八王子市の人口は急増する。代表的な住宅開発に、1967年の京王高尾線開業に合わせて開発された「京王めじろ台住宅」などがある。合併完了後の1965年に20万人余であったが、9年後の1974年には30万人、さらに9年後の1983年には40万人を超えた。その後1995年に50万人を超えてからは、人口の伸びも鈍化している。
新住民の流入の一方、市を代表する産業であった繊維関連業は、戦災の復興を経たものの、産業構造の転換により、1960年代からは次第に衰退した。かわって北八王子工業団地などの工業団地が造成され、精密機械や電子機器の工場や関連工場が誘致されるようになった。
1963年の工学院大学の移転を皮切りに、都心の大学の移転が次々と行われ、住宅団地と同様に郊外の丘陵地に各校の新校舎が建設された。現在では約11万人の学生が八王子市および周辺の大学に通学しており、東京近郊における主要な文教都市のひとつとなっている。 また、住宅地開発も続けられ、1997年には、南部多摩丘陵地帯を開発した八王子ニュータウンが街開きしている。
[編集] 年表
- 縄文時代中期 - 古墳時代 河川付近の段丘面に住民が集住する
- 7世紀 武蔵国設置。多摩郡に属する
- 10世紀 小野牧・由井牧・横山荘の成立。小野氏の支流が横山党を称し勢力を拡大
- 15世紀 守護代大石氏が勢力を誇る。滝山城、片倉城などの城館を建設
- 1560年頃 後北条氏から氏照が大石氏と養子縁組
- 1584年 この頃、八王子城が建設される
- 1590年 八王子城落城。後北条氏にかわって徳川家康領となる。徳川氏は八王子に代官陣屋を設置し、代官頭大久保長安により八王子千人同心が登用される
- 1601年 甲州街道の整備はじまる
- 1652年 千人同心の日光勤番がはじまる
- 1704年 八王子代官陣屋廃止。地域の幕領は韮山代官所の支配下に
- 1863年 代官江川太郎左衛門による農兵設置
- 1866年 武州一揆おこる。千人同心と農兵などにより鎮圧される
- 1867年 幕府による八王子陣屋の再設置計画、村々の反対で中止される
- 1871年 廃藩置県により、多摩地域は一時韮山県所属、その後神奈川県に編入
- 1873年 生糸改会社設立
- 1878年 第三十六国立銀行(八王子)設立
- 1889年 甲武鉄道(現・中央本線)開通
- 1893年 多摩地域東京府移管
- 1894年 八王子商工会議所設立(関東では、東京・栃木・宇都宮に次いで4番目)
- 1896年 八王子電燈会社開業
- 1897年 八王子大火
- 1903年 八王子電話所開設
- 1908年 横浜鉄道(現・横浜線) 八王子―東神奈川間開通
- 1917年 市制施行(人口約44,000人)。東京府内で、東京市に次ぐ2番目の市制都市
- 1925年 玉南電気鉄道(現・京王電鉄) 東八王子─府中間開通
- 1927年 大正天皇陵(多摩陵)が建設される(「多摩御陵」)。高尾登山電鉄 清滝―高尾山間開通
- 1928年 八王子競馬、初の開催
- 1930年 武蔵中央電気鉄道 東八王子―高尾橋間開通(1939年廃止)
- 1931年 京王御陵線 北野―多摩御陵多摩御陵前間開通(1945年休止) 八高線 八王子―東飯能間開通
- 1941年 八王子信用組合設立
- 1945年 八王子大空襲。中央本線湯ノ花トンネルで米軍機の機銃掃射事件。
- 1951年 貞明皇后崩御。大正天皇陵に隣接して陵墓(多摩東陵)が建設される
- 1964年 東京オリンピック。市内で自転車ロードレース開催される
- 1965年 人口が20万人を超える
- 1967年 京王高尾線 北野―高尾山口間開通。中央自動車道 八王子―調布間開通。明治の森高尾国定公園指定。
- 1973年 甲州街道で、多摩地域初の休日歩行者天国実施(1978年まで)
- 1974年 人口が30万人を突破
- 1976年 多摩ニュータウン八王子市域で入居開始
- 1983年 八王子駅ビル、市役所新庁舎完成。人口が40万人を超える
- 1988年 京王相模原線多摩センター―南大沢間開通
- 1989年 昭和天皇崩御。昭和天皇陵(武蔵野陵)が建設される(皇室墓地域が武蔵陵墓地と改名される。)
- 1994年 京王八王子駅ビル完成
- 1995年 人口が50万人を超える
- 1997年 八王子ニュータウン入居開始。八王子駅北口再開発ビル完成
- 1999年 八王子駅北口地下駐車場、八王子駅北口横断歩道橋(マルベリーブリッジ)完成
- 2000年 香淳皇后崩御。昭和天皇陵に隣接して武蔵野東陵が建設される
- 2003年 八日町第2地区再開発ビル、国土交通省直轄八日町駐車場(八日町夢街道パーキング)完成。