両国 (墨田区)
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東京都墨田区における両国(りょうごく)とは、東京都墨田区の町名。北は総武線を隔てて墨田区横網に、南は堅川と高架上の首都高速小松川線を隔てて墨田区千歳に、西は隅田川を隔てて中央区東日本橋、および台東区柳橋に、東は清澄通り(地下に都営地下鉄大江戸線が通っている)を隔てて墨田区緑に接する。町内を国道14号(京葉道路)が通っている。また、「両国」の名は通称として両国駅周辺一帯を指すこともある。元来は両国橋周辺の称。
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[編集] 歴史
江戸時代の万治2年(1659年)12月13日、両国橋が架橋された。両国橋東岸の地域、現在の両国は神田、日本橋方面と直接結ばれ、以後江戸が隅田川をはさんで東側に拡大する足がかりとなった。現在の両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川であり、双方とも江戸時代の新興住宅地域にあたる。なお、1686年(貞享3年)(一説によれば寛永年間(1622年-1643年))に南葛飾郡が武蔵国へ編入されるまでは隅田川(当時は大川)が下総国と武蔵国の国境であり、両国橋は下総国と武蔵国にまたがっており、またそれが両国橋の名称の由来となっている。
総武線の両国駅の開業は1904年のことである(開業当時の名称は「両国橋駅」)。以後の隅田川以西の秋葉原、御茶ノ水方面への延伸が難航し、また1932年の延伸後も1972年の錦糸町-東京間の地下線の開業までは千葉以東へ向かう列車の多くが両国駅を始発としたため、駅前に東京都電が乗り入れていたこともあって、両国駅はながらくターミナル駅として活況を呈した。
両国の名前が全国に知られているのは両国国技館によるところが大きいと思われる。辰野金吾と葛西万司の設計により1909年に完成し1944年まで使用された旧両国国技館は、その名前のとおり、両国2丁目の回向院の旧境内にあった。その後、蔵前国技館への移転を経て、1985年に新しく完成した現両国国技館は、両国駅の北側、墨田区横網に位置している。旧国技館は1982年に解体されるまで日大講堂として使用され、解体後の跡地は現在オフィス・住宅・劇場・レストランなどからなる複合ビル施設の両国シティコアとなっている。
また、赤穂浪士の討ち入りで知られる吉良屋敷は本所松坂町(現在の両国2丁目から3丁目にかけての一帯)にあった。現在はそのごく一部が吉良邸跡として保存されており、区立本所松坂町公園となっている。
新両国国技館と同じ墨田区横網には、関東大震災で多数の犠牲者を出した陸軍被服廠跡に建てられた東京都慰霊堂がある。震災犠牲者と東京大空襲犠牲者を祀る。
[編集] 西両国
本来、両国とは両国橋をはさんだ隅田川の両岸の称であり、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国、旧来の武蔵国側(中央区側)を西両国と呼んだ。西両国の北に隣接する柳橋も含め、両国は江戸屈指の歓楽街として栄え、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並んで賑わった。
その後、両国駅の開業や両国国技館の開館にともない、両国という地名はおもに東両国を指すようになっていったと考えられる。1971年には住居表示にともない、中央区の日本橋両国は周囲の日本橋米沢町、日本橋薬研掘町などとあわせ東日本橋と改められ、現在は中央区東日本橋2丁目となっている。一方、墨田区側は1967年に東両国から両国へ改称された。
東日本橋町内には東日本橋両国商店街があったが、2004年前後に名称を変更し、東日本橋やげん堀商店会となった。現在、中央区内では両国広小路の石碑や両国郵便局などに両国の名を残すのみである。
なお、薬研堀は七味唐辛子発祥の地と言われている(七味のことを「薬研堀」と呼ぶことがあるのはこの名残)。
[編集] 両国花火
1732年(享保17年)に起こった全国的な大飢饉(いわゆる享保の大飢饉)や江戸におけるコレラの流行を受けて、八代将軍徳川吉宗が死者の弔いと悪病退散を願って両国にて水神祭と施餓鬼を行った。この際に花火を打ち上げて川開きを同時に行ったことが両国花火大会の始まりといわれている。1733年(享保18年)5月のことであった。担当した花火師が両国の篠原弥兵衛、有名な「鍵屋」六代目である。後にこの鍵屋から暖簾分けした「玉屋」が加わり、それぞれ両国を挟んで上流側・下流側を担当した。花火を打ち上げるたびに「たまやー かぎやー」という掛け声がかかるのは、この競演に由来する。
両国花火大会は、何度かの中断があったものの、現在も続いている日本で最も歴史の長い花火大会である。1978年(昭和53年)に15年ぶりの復活を遂げた際、現在の「隅田川花火大会」へと名を変えた。