ヴォルガ川
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ヴォルガ川 | |
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延長 | 3,690 km |
水源の標高 | 225 m |
平均流量 | - m³/s |
流域面積 | 1,350,000 km² |
水源 | ヴァルダイ丘陵 |
河口 | カスピ海 |
流域 | ロシア |
ヴォルガ川(ロシア語:Волгаヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3690km。
目次 |
[編集] 概要
モスクワとサンクトペテルブルクの中間にあるヴァルダイ丘陵の海抜225mを源流とし、モスクワの北をトヴェーリ、ヤロスラーヴリと東に流れ、ニージュニイ・ノーヴゴロトでオカ川と合流する。カザーニの辺りで東から南へと流れを変え、サラートフ、サマーラ、ヴォルゴグラートを経由してアーストラハニの近くの海抜マイナス28m地点でカスピ海に注ぐ。
ヴォルガ川の支流にはオカ川やカマ川といった大河が含まれ、ヴォルガ川水系はロシアの人口の多い地域や経済的・政治的に重要な地域をすっぽりと覆っている。カスピ海に注ぐ三角州・ヴォルガ・デルタは160kmにわたり伸びており、その中にアーストラハニなどの街があり、500程度の分流に分かれている。ヴォルガ川全域は毎年冬の三ヶ月間は氷結する。
帝政ロシア時代にはヴォルガ川海軍艦隊が置かれた。ヴォルガ川は水運が盛んなほか、ヴォルガ=ドン運河、モスクワ運河、ヴォルガ=バルティック水路など多くの運河が建設されており、運河やドン川を伝って、白海、バルト海、カスピ海、アゾフ海(黒海)などの間が水路で繋がっている。また巨大なダムと水力発電所が流域に多数建設され、多数の町を沈めた海のような貯水湖がいくつも連なっている。
流域は肥沃で麦が大量に生産される。また、石油・天然ガス・岩塩などの鉱物資源も豊富である。ヴォルガ・デルタとカスピ海は漁業が盛んで、アーストラハニはキャビア生産の中心地となっている。一方で沿岸の化学工場による汚染も問題となっている。
[編集] 主な支流
[編集] ダム
9つの大規模水力発電所と多数の人工湖がヴォルガ川に沿って続いている。人工湖には以下のようなものがある。(上流から下流にかけての順)
- ヴォルゴ湖 (Volgo Lake)
- イワンコフスコエ湖(モスクワ海) (Ivankovskoye Reservoir)
- ウグリチ湖 (Uglich Reservoir)
- リビンスク湖 (Rybinsk Reservoir)
- ゴルコフスコエ湖 (Gorkovskoye Reservoir)
- チェボクサリ湖 (Cheboksary Reservoir)
- サマラ湖 (Samara Reservoir)
- サラトフ湖 (Saratov Reservoir)
- ヴォルゴグラード湖 (Volgograd Reservoir)
[編集] 語源
ロシア語の「ヴォルガ」(Во́лга)は、スラブ諸語で「湿った」(влага)「湿気のある」(волога)を意味する言葉と共通している。かつてヴォルガ川沿岸に住んでいたテュルク系民族はこの川をイティル(Itil)またはアティル(Atil)と呼んでいた。フン族もこの流域に移動しており、アッティラ大王の名はこの川に由来するという見方もある。近代トルコ語ではイディル(İdil)と呼ばれ、タタール語ではイデル(İdel)、チュヴァシ語ではアタル(Atăl)と呼ばれる。
スキタイ人がヴォルガ川を呼んだ「ラ」(Rha)の名は、「聖なる川」を意味するアヴェスター語の「Rañha」やサンスクリット語の「Rasah」から来ていると思われる。この名はモルドヴィン諸語の「ラウ(Рав、Raw)」という呼び名に残っている。
[編集] 歴史
古代のアレクサンドリアの学者、プトレマイオスは著書『ゲオグラフィア(地理学)』(第5巻、第8章、アジアの地図のその2)においてヴォルガ下流に触れている。彼はこの川をスキタイ人の呼び名である「ラ(Rha)」と呼んだ。プトレマイオスは、ドン川とヴォルガ川は上流でつながっていて、極北の楽園・ヒュペルボレオイ(Hyperborea)の山々から流れてくると考えていた。
ヴォルガ下流は、インド・ヨーロッパ祖語を話した原インド・ヨーロッパ民族(クルガン仮説を参照)の文明のゆりかごと広く信じられている。紀元1世紀から10世紀ころまでにフン族ほか多くのテュルク系遊牧民が移住しスキタイ人と入れ替わった。
その後、ヴォルガ川流域はアジアからヨーロッパにかけての民族移動に大きな役割を果たした。テュルク系ブルガール人の強力な政権ヴォルガ・ブルガールがヴォルガ川とカマ川の合流点付近に成立し農業や交易で栄え、ヴォルガ下流からカスピ海にかけてはハザール王国が支配した。ハザールがヴォルガ河口に建設した首都イティル(Atil、アティル)、ヴォルガ下流のサクシン(Saqsin、サクスィーン)、同じく後にモンゴルがヴォルガ下流に建てたサライ(Sarai)などは東西交易で栄え、中世の世界でも有数の都市として知られていた。
ハザールは衰退し、11世紀ごろテュルク系キプチャク人に取って代わられたが、その後キメック人が、さらにモンゴル人が侵入し、中央政権(黄金のオルド)の置かれたサライの街を中心にジョチ・ウルス(キプチャク汗国)が建てられた。中央政権没落後は各ハン国に分裂し、ヴォルガ中流のカザン・ハン国、ヴォルガ下流のアストラハン・ハン国などが成立したが、16世紀半ばにはモスクワ大公国のイヴァン4世(イヴァン雷帝)によって次々征服された。しかしなお辺境の気風は残り、17世紀半ばにはドン・コサックの頭領、スチェパン・ラージン(ステンカ・ラージン)によってヴォルガ川水系は下流から上流まで、さらにカスピ海沿岸のペルシャまで荒らされ、彼の組織した反乱軍はヴォルガを遡って皇帝のいるモスクワにまで迫ろうとした。18世紀にはロシア皇帝の誘いでドイツ人の移民が人口希薄なヴォルガ川沿岸に行われ、タタール人との緩衝地帯形成が期待された。19世紀末にはヴォルガ・ドイツ人は179万人に達し、ヴォルガ沿岸は大きく開発された。
ヴォルガ川がドン川に向かって大きく曲がる地点は古来より要衝であり、16世紀後半にツァリーツィン(後のスターリングラード、現在のヴォルゴグラート)の要塞が建てられた。第二次世界大戦時、カフカスに向かって侵入したドイツ軍はじめ枢軸国軍とソ連軍との間で行われた野戦・市街戦、スターリングラード攻防戦はロシア史上のみならず世界戦争史上でも最も激しい戦いであった。
ロシア人のヴォルガに対する感傷には深いものがあり、音楽や文学などにしばしば取り上げられている。(『ヴォルガの舟歌』などは顕著な例である。)
[編集] 民族集団
ヴォルガ川・オカ川の上流域の先住民はフィン・ウゴル語派の民族、メリャ人(Merya)であったが、10世紀ごろにはロシア人に同化したと思われる。その他のフィン・ウゴル語派民族は、ヴォルガ中流域に暮らすマリ人(チェレミス人、現在はマリ・エル共和国を構成する)やモルドヴィン人などがいる。
テュルク系の民族は紀元600年ごろヴォルガ流域に現れ、ヴォルガ川の中・下流域にいたフィン・ウゴル語派民族やインド・ヨーロッパ語族の民族を同化した。この子孫がキリスト教徒で現在チュヴァシ共和国を構成するチュヴァシ人、およびイスラム教徒のタタール諸民族である。
またモンゴル帝国の侵入とともにモンゴル人も多く移住したが、ヴォルガ下流域からカフカス北部を支配したノガイ・オルダの末裔であるモンゴル系ノガイ人は後にダゲスタン人に取って代わられた。17世紀には仏教徒でモンゴル系民族のオイラトがヴォルガ下流に移住しロシア帝国と同盟したが、後にロシア人やドイツ人らに圧迫され中央アジアに戻っていった。このうち戻れなかった人々が、現在ヴォルガ川の西側にあるカルムイク共和国に住むカルムイク人である。
ヴォルガ川沿岸地方はドイツ系少数民族、ヴォルガ・ドイツ人の故郷でもある。エカチェリーナ2世は1763年に、さまざまな報酬を申し出た上で、すべての外国人に対しヴォルガ川流域に来て定住するよう招待する勅令を発した。これは沿岸地域の開発という目的もあったが、ロシア帝国と東側のモンゴル系国家(ジョチ・ウルスの末裔の国々)との間に緩衝地帯を形成する目的もあった。フランス人やイギリス人農民はアメリカへの移住を選び、ロシア帝国の呼びかけに応えたのは貧しいドイツ農民たちであった。ドイツ人の人口は19世紀末には179万に達したが、ロシア革命とその後のロシア内戦によりボリシェビキなどの敵視を受け多くの人口が失われた。ソビエト連邦の下でヴォルガ沿岸の一部にヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国が設立されたが、第二次世界大戦前後にその全てが中央アジアなどに移住させられるか処刑され、以後も多くの人々がヴォルガ川に戻ることはなかった。
[編集] 水運
ヴォルガ川はロシアの内陸水運や国内輸送の重要な幹線となっている。川沿いに建設された巨大ダムには閘門が設けられ、門を通ることのできる大きさの船はカスピ海からヴォルガ川最上流まで航行することができる。またヴォルガ=ドン運河によってヴォルガ川やカスピ海からドン川、および黒海まで航行することも可能である。また、ヴォルガ川から北にある湖(ラドガ湖、オネガ湖)を繋ぐヴォルガ=バルティック水路によって、サンクトペテルブルクやバルト海へも航行できる。モスクワ運河はモスクワ川とヴォルガ川を繋ぎ、首都モスクワとこれら内陸水路との連絡路となっている。これらの内陸水路は比較的大きな船舶(閘門の規模はヴォルガ川の各ダムで 290m × 30m 、その他の支流や水路ではもう少し小規模になっている)が通ることができるよう設計されている。
ロシア内陸水路への外国船の航行は、ソ連崩壊後も長らく制限があり、限られた船舶しか入ることができなかった。しかし欧州連合(EU)とロシアとの経済交流の増加により、ロシア内陸航路の航行制限を緩和する新政策が施行されようとしている。これにより、外国船のヴォルガ川水系の航行が大きく許可されることが期待されている。[1]