ニジニ・ノヴゴロド
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ニジニイ・ノヴゴロド(ニージュニイ・ノーヴゴロト;ロシア語:Нижний Новгород ニージュニイ・ノーヴガラト;Nizhnij Novgorod)は、ロシアのニジニ・ノヴゴロド州の州都。ロシアを代表する大河、ヴォルガ川とオカ川とが合流するところにある商工業都市で、モスクワ、サンクトペテルブルグ、ノボシビルスクに次ぐロシア第4の都市であり、沿ヴォルガ連邦管区の本部所在地になっている。主に自動車産業で有名な工業都市である。人口は133万人ほど、近郊も入れた大都市圏全体の人口は約200万人。北緯56°20'、東経43°54'に位置する。
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[編集] 歴史
[編集] 城塞都市
1221年に築かれた東部の要塞を起源とする古都であるが、町の本来の名前である「ノヴゴロド」は「新しい町」を意味する。「ニージュニイ」は、ロシア語で「下の」という意味の形容詞で、ロシア北部にあるノヴゴロドなど、ロシア中にある同名の町と区別する為に付加される。1392年、モスクワ大公国に編入されると、ニジニ・ノヴゴロドの難攻不落のクレムリン(城砦)は、カザン・ハン国の侵入に対する最強の砦となった。
[編集] 国民義勇軍
1612年、東西交易で利益を上げていた街の肉商人で愛国者であったクジマ・ミーニンがニジニ・ノヴゴロドの国民義勇軍を組織し、ドミトリー・ポジャルスキー公爵の指揮のもと、モスクワ大公国の動乱期に乗じたポーランドのロシア侵入に立ち向かいモスクワからポーランド軍を追放した。翌年、ミーニンやポジャルスキーらの開いた国民会議により新しいツァーリが選ばれ、ロマノフ朝が成立する。
[編集] ロシアの交易拠点
18世紀にはロシア最大の豪商・大地主・産業家であったストロガノフ家がこの地に拠点を置き、19世紀にはロシア最大で世界でも有数の見本市、「マカリエフ・フェア」がニジニ・ノヴゴロドに移転し、毎年7月に延べ数百万の商人や観客が殺到する賑わいを呈した。こうしてヴォルガ川畔の街はロシアの商業の中心地となり、さらに工業も急激な勢いで発展した。この時代、この街に生まれた作家マクシム・ゴーリキーは、ニジニ・ノヴゴロドの労働者達やヴォルガ川沿岸の農民達の苦難に満ちた生活を描いた。
[編集] 工業都市・閉鎖都市
ソ連時代にはNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、後にGAZ・「ゴーリキー自動車工場」に改称、「ヴォルガ」ブランドの自動車で有名)など様々な軍需・民需の工業の拠点となったが、それゆえ外国人の立ち入りが禁止された閉鎖都市となった。また1932年から1990年までは、この街出身の文豪マクシム・ゴーリキーにちなんで街の名を「ゴーリキイ」(Горький; Gor'kij)と変えていた。1990年、街の名が元に戻ると同時に閉鎖都市も解除された。
1980年から1986年にかけては、ノーベル平和賞受賞者で核物理学者のアンドレイ・サハロフ博士がソビエト連邦のアフガニスタン侵攻への批判をとがめられ、夫人と共にこの街へ国内流刑となっていた。
[編集] 交通・名所
現在はシベリア鉄道の特急「ロシア号」の停車地となっている。市内は地下鉄が走り、空港には国際線がロシア・ヨーロッパ各地から飛んでいる。また、古いクレムリン(城砦)やストロガノフ家の寄贈した数々の教会のほか、劇場、美術館などがある。
[編集] 出身者
- イリーナ・メジューエワ - ピアニスト
- ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー - 数学者