ヴィクトリア (イギリス女王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィクトリア(Alexandra Victoria Wettin, 1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、イギリスの女王(在位: 1837年6月20日 - 1901年1月22日)、のちに初代インド女帝(在位: 1877年1月1日 - 1901年1月22日)。ジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘。ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法を取っており、女性の統治が認められなかったため、ヴィクトリアはハノーファー王位を継承せず、叔父エルンスト・アウグストがその地位を継いだ。ファーストネームであるアレクサンドラの名は代父であるロシア皇帝アレクサンドル1世によるもの。
イギリスでもっとも輝かしい時代をつくりあげた女王であり、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。彼女は世界中の王室のモデルとなった。この時代、イギリスは世界各地を植民地化して一大植民地帝国を築き上げ、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号を得ている。「君臨すれども統治せず」によって議会制民主主義を貫き、彼女の寵愛するベンジャミン・ディズレーリ、そして、良き夫であるアルバートの助言によってイギリス帝国を繁栄させた。
[編集] 生涯
母ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトはベルギー国王レオポルト1世の姉であった。レオポルトの妻は摂政皇太子(のちのジョージ4世)の一人娘で、イギリスの王位継承者であるシャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズであったが、シャーロットは1817年死産の後、産褥で死亡し、ジョージ4世の直系の後継者は断絶することとなった。そのジョージ4世はその後再婚したり、あるいは他の女性によって子を設けようとはしなかった。このため独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは王位継承者となるべき子を設けようとにわかに結婚を始め、ヴィクトリアの父ケント公も50歳で結婚した。1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公は亡くなった。
母ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアは3歳までドイツ語のみを話す生活を送った。そのためもあってか、ヴィクトリア個人は生涯ドイツびいきであった。幼児期に英語の学習を始め、のちに古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学んだ。またオペラを好んだためイタリア語の学習も行った。
ヴィクトリアが10歳のとき、伯父ジョージ4世は子供を残さずに死去し、その弟ウィリアム4世が王位を継承した。ウィリアム4世には子がなく、ヴィクトリアは暫定王位継承者となった。ヴィクトリアを毒殺しようとする計画があるとの噂を聞いた母は、つねにヴィクトリアにボディガードをつけ、ヴィクトリアが1人で外出することを決して許そうとしなかった。ウィリアム4世の死後、ヴィクトリアは18歳で即位し、首相ウィリアム・ラムの助言により政治を行った。
ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと初めて会ったのは16歳のときである。血縁関係の他に、2人は同じ主治医にかかっており、そこから交際が深まった。ちなみに、ヴィクトリアは自分からアルバートに求婚した(女王に求婚することは許されなかったからである)。結婚式は1840年2月10日に行われた。アルバートが政治に関ろうとしたため、2人の間にははじめ軋轢があったものの、間もなく妥協が成立し、2人の結婚生活は優れて成功した、幸福なものとなった。
趣味は、乗馬と日記だった。乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させた。競走馬は持たないという夫との約束で生産した馬はすべて売却していたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても名を残している。
夫の死後、女王は悲嘆し、ハンプトンコート王室牧場も1894年に閉鎖、常に喪服を着用し公の場に出ることは殆どなくなった。
[編集] 女王の子供達
- ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(1840年 - 1901年) ドイツ皇帝フリードリヒ3世妃
- エドワード7世(1841年 - 1910年)
- アリス・モード・メアリ(1843年-1878年) ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃
- アルフレッド・アーネスト・アルバート(1844年-1900年) ザクセン=コーブルク=ゴータ公、エディンバラ公
- ヘレナ・オーガスタ・ヴィクトリア(1846年-1922年) シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子フリードリヒ・クリスティアン・カール夫人
- ルイーズ・キャロライン・アルバータ(1848年-1939年) アーガイル公ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人
- アーサー・ウィリアム・パトリック(1850年-1942年) コノート公
- レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン(1853年-1884年) オールバニ公
- ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア(1857年-1944年) バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ妃
[編集] 関連項目
- ヴィクトリア湖
- ヴィクトリア滝
- ヴィクトリアマイル
- 血友病:血友病の遺伝子を持っていたとされる。
- ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)
- フアン・カルロス1世 (スペイン王) :ヴィクトリアの曾孫に当たる。