フォークランド戦争
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フォークランド戦争(フォークランドせんそう、スペイン語名:Guerra de las Malvinas、英語名:Falklands War)とはイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名: マルビナス諸島)の領有を巡ってイギリスとアルゼンチンの間で2ヶ月に亘って行われた戦争。フォークランド紛争とも言う。
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[編集] 諸島の概要
[編集] 位置
フォークランド諸島は南アメリカ大陸のほぼ南端(アルゼンチン)から約500km沖合いの大西洋に位置している。東フォークランド島と西フォークランド島に、200余りの小島で構成された面積12,000平方キロ程度の諸島である。
[編集] 歴史
1600年以降、イギリス、フランス、スペインが相次いで入植・撤退を繰り返すなどしていたが、1816年に最寄に位置するアルゼンチンがスペインより独立したのを契機に領有を宣言した。
しかし、1829年にアメリカ軍が上陸し諸島の中立を宣言、続いて1833年にはイギリスが再占領するなどして以降領有権をめぐって対立、そして紛争に至った。なお、アルゼンチンは領有の根拠として、トルデシリャス条約でのスペインの権益を独立後受け継いだと主張している。
[編集] 背景
一見これといった価値がないこの南大西洋の島になぜこのような紛争が起きてしまったのか。歴史が動き出したのは1981年、双方で政権が交代したことに端を発する。
[編集] アルゼンチン情勢
アルゼンチンは最初は直接交渉で、第二次世界大戦後は国連を通じた交渉で、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求め続けていた。これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、アルゼンチンはあくまで無条件返還を求めたため平行線を辿り難航していた。
アルゼンチンは1950年代までは穀物輸出から得られる外貨によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、フアン・ペロン元大統領派と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が、国民生活を深刻な状況に陥れていた。1976年に誕生した軍事政権は、元大統領派を徹底的に弾圧し、3万人が行方不明になったといわれる。経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。
軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ大統領(現役将軍でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。
[編集] イギリス情勢
「陽の落ちることが無い」とまで言われたかつての大英帝国の威勢は跡形も無く、長引く不況や硬直した政治制度による深刻な財政難に悩まされていた。フォークランド諸島はイギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、島自体の価値は相対的に低かったが、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としての戦略拠点としての価値がにわかに高まっていた。
当時のイギリス首相・マーガレット・サッチャーは、改革を期待されたものの、失業者が増加を続け、相次ぐ労働争議などにより国民の支持を失いつつあった。そのような情勢下で、サッチャーに、安易な妥協や譲歩は許されなかった。イギリスは従来の立場を一変させ、フォークランド諸島の条件付返還を撤回、態度を硬化させた。
[編集] 両国の衝突
その後1982年に、民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。
この様な動きに対して、アルゼンチン政府は形だけの沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍の補給艦がフォークランド諸島の南東約1300kmにある同じくイギリス領となっていたサウスジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せ始めた。イギリスはこれを強制退去させるなどしていたが、アルゼンチンのガルチェリ大統領が正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリスのサッチャー首相はアメリカのロナルド・レーガン大統領に事態収拾への仲介を要請。しかし翌2日にはアルゼンチンの陸軍4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。
これに対し、イギリスのサッチャー首相は直ちにアルゼンチンとの国交断絶を通告し、機動部隊の派遣を命じた。4月5日には早くも第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカの仲介による事態の打開が模索されていたが、サッチャーの「我々は武力解決の道を選択する」との決断で25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウスジョージア島に逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。
その後アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度とイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、戦いを進めたものの、イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。同諸島最大の都市である東フォークランド島のポートスタンレーを包囲し、14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。
[編集] 推移
- 3月19日:アルゼンチンの「解体業者」がアルゼンチン海軍補給艦「バイア・ブエン・スセソ」でサウス・ジョージア島に上陸 。
- 3月26日:アルゼンチン海軍補給艦「バイア・パライソ」がサウス・ジョージア島に補給物資を運ぶ。
- 4月2日:アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸しこれを占領。イギリスのレックス・ハント総督以下イギリス軍を捕虜とする。イギリス、アルゼンチンに国交断絶通告。
- 4月3日:アルゼンチン軍、サウスジョージア島占領。
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- 国連安全保障理事会決議第502号、アルゼンチンの撤退を求める。
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- 4月4日:アルゼンチン政府が全ての国内にあるイギリス資産を凍結。
- 4月5日:イギリス艦隊、ポーツマス港を出港。イギリスのエリザベス2世女王が民船徴用権付与。
- 4月10日:ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行う。
- 4月12日:イギリス軍、フォークランド諸島周辺の洋上封鎖発効。
- 4月18日:イギリス海軍の機動部隊がイギリス領アセンション島を出港。
- 4月22日:イギリス海軍のウェセックス5型ヘリコプターが2機撃墜される。
- 4月23日:イギリス海軍特殊舟艇隊 (SBS)、サウスジョージア島偵察上陸。
- 4月25日:イギリス海兵隊がサウスジョージア島に上陸。これを奪回。
- 4月29日:アルゼンチン政府がアメリカによる調停案を拒否。
- 4月30日:イギリス、フォークランド諸島周辺の海空封鎖発効。
- 5月1日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンリーとグースグリーンの飛行場への長距離爆撃を初実施し滑走路を破壊。
- 5月2日:イギリス海軍、原潜「コンカラー」(HMS Conqueror)、アルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ(ARA General Belgrano)」 を魚雷攻撃により撃沈。
- 5月4日:アルゼンチン海軍航空隊のシュペルエタンダール攻撃機が空対艦ミサイル・エグゾセでイギリス海軍42型駆逐艦「シェフィールド」(HMS Sheffield) を攻撃、命中。同艦は炎上し総員退艦、12型フリゲート「ヤーマス」(HMS Yarmouth) に曳航されるも5月10日に沈没。
- 5月5日:アルゼンチン政府が国連総長による調停案を受諾。
- 5月14日:イギリスSAS部隊が西フォークランド諸島に上陸しアルゼンチン空軍機を破壊。
- 5月20日:アメリカ政府がKC-135空中給油機をイギリスに貸与することを決定。
- 5月21日:イギリス陸軍、東フォークランド島上陸。アルゼンチンが対空砲火でイギリス軍のシーハリアー2機を撃墜。
- 5月23日:アルゼンチン軍機がイギリス艦艇を攻撃するが10機を撃墜される。
- 5月24日:イギリス海軍21型フリゲート「アンテロープ」(HMS Antelope) が、アルゼンチン軍A-4AR攻撃機の投下した500kg爆弾を被弾。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発。同日沈没。
- 5月25日:アルゼンチン海軍航空隊、シュペルエタンダール攻撃機が空対艦ミサイル・エグゾセによりイギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」(Atlantic Conveyor) を撃沈。イギリス海軍42型駆逐艦「コヴェントリー」(HMS Coventry)、アルゼンチン空軍のA-4Gの攻撃を受け爆弾が命中し撃沈される。アルゼンチン側は8機が撃墜される。
- 5月28日:イギリス軍第2空挺大隊がポート・ダーウィンとグースグリーンを占領。
- 6月7日:アルゼンチン政府が国連の撤退提案を拒否。
- 6月8日:アルゼンチン空軍機の攻撃でイギリス海軍補給揚陸艦「サー・ガラハッド」(HMS Sir Galahad)が撃沈。「サー・トリストラム」(RFA Sir Tristram)が大破。アルゼンチン軍機10機が撃墜。イギリス軍機1機が撃墜。
- 6月9日:アメリカのロナルド・レーガン大統領がイギリス支持を再度表明。
- 6月11日:イギリス陸軍によるアルゼンチン陸軍側陣地への攻撃が本格化。
- 6月12日:アルゼンチン軍機がイギリス海軍カウンティ型駆逐艦「グラモーガン」(HMS Glamorgan)を攻撃、ウェセックス・ヘリ3機撃破。
- 6月14日:イギリス陸軍部隊がポートスタンレーを包囲。フォークランド諸島のアルゼンチン軍が降伏。
- 6月16日:アルゼンチンの外相と内相がガルチェリ大統領に抗議し辞表提出。ガルチェリ大統領は辞表受け取りを拒否。
- 6月17日:アルゼンチンのガルチェリ大統領が敗北の責任を問われ失脚。大統領及び陸軍総司令官を辞任。
[編集] 主要な作戦
ブラックバック作戦(Operation Black Buck):5月1日、イギリス軍は、アセンション島を基地とするバルカン爆撃機、空母から発進したハリアーによる空爆、戦闘艦艇による艦砲射撃の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンリー空港および、同島の中央に位置するグースグリーン飛行場を使用不能とする計画を立てた。その第一段階が、バルカン爆撃機1機によるスタンリー空港の爆撃で、これをブラックバック作戦と呼ぶ。
この作戦に参加した航空機は、1機のバルカン爆撃機と10機のビクターK2給油機(これに加え、万一の場合に備えてそれぞれ予備を1機ずつあてがわれた)である。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するため、このような多数の給油機を必要とした。爆撃機と給油機の1機が離陸後しばらくしてから機械関係のトラブルに見舞われ、予備をすべて投入することになったが、この予備のバルカン爆撃機は、4発の爆弾をスタンリー空港の滑走路に命中させた。これにより空港は大型機の発着が不可能となった。この後、軽空母ハーミーズから飛び立ったハリアーのうち9機が1000ポンド爆弾とクラスター爆弾で滑走路に甚大な損傷を与えた。総仕上げとして3隻の戦闘艦(駆逐艦グラモーガン、フリゲートのアラクリティとアロー)が日中と夜間の2回に分けてスタンリー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。
グースグリーン飛行場は、別の3機のハリアーが投下したクラスター爆弾により使用不能となった。この際に、駐機していた5機のプカラ攻撃機が大なり小なり損傷した。
[編集] 評価と戦訓
この戦争は、近代化された西側軍隊同士による初めての戦争だったため、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用されたほとんどの兵器が実戦を経験していなかったが、本件によって定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンがイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともにアメリカ製の兵器も多数使用していたため、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という観点からも特徴的であった。
イギリス軍は長距離爆撃機による空爆や陸戦、同盟国であるアメリカ軍の援助を得た情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を得た。
[編集] 海戦
アルゼンチン軍は保有していた5発のフランス製の空対艦ミサイル・エグゾセをシュペルエタンダール攻撃機から発射し4発を命中させ、これによりイギリスの駆逐艦「シェフィールド」と徴用輸送船「アトランティック・コンベイヤー」が沈没する。また、イギリス海軍は、早期警戒機を展開できなかったために、超低空飛行によって近距離までアルゼンチン軍の攻撃機が接近するのを探知できず、艦艇に被害が続出した。とくに当時のイギリス艦艇は艦橋の構造物がアルミ合金製となるのが主流であり、炎上し易いという弱点が露呈された形になった。こうした戦訓は後に日本の海上自衛隊の艦艇にも反映されている。
これにより、早期警戒機の重要性が改めて認識された。戦後フランスはエグゾセやシュペルエタンダールなどの自国製兵器の戦果を兵器の販売促進に大いに役立てた。また、事実上の敗北ではあるがミラージュ5のイスラエル製無断コピー品であるダガーが中東戦争以外で初めて実戦投入される事となった。
また原子力潜水艦も実戦にて初めて使用され、イギリスのチャーチル級原子力潜水艦「コンカラー」から放たれた魚雷によりアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」が撃沈された。アルゼンチン海軍はオランダから購入した第二次世界大戦標準の英国製空母ベインティシンコ・デ・マヨを保有していたものの、オランダ時代に大規模な火災事故が発生し、この損傷を修繕している途中だった。このため、本格的な近代化工事は先延ばしとなり、対潜能力等は低いまま出撃する事となった。しかし、損害を恐れまもなく引き返した。
また、イギリス海軍も本土より空母を派遣したものの、アルゼンチン空軍機や潜水艦からの攻撃を恐れおなじく前方展開を行わなかった。
[編集] 航空戦
垂直離着陸機であるイギリス軍のハリアーの能力については常に議論されていたが、空戦において23機の撃墜と被撃墜0(事故および対空砲火等で6機を喪失)を記録するなどして一定の評価を得ることができた一方で、速度の遅さや航続距離の短さが致命的であることが再認識された。特に、ハリアーを搭載していた空母(インヴィンシブル級)が攻撃を恐れて後方に展開したため、艦載機による即応体制が整わなかった。
[編集] 地上戦
イギリス陸軍は海軍艦艇が大きな損害を受けたにもかかわらず、アセンション島経由で飛来した長距離爆撃機による空港や航空機の破壊という援助を受けながら迅速に地上部隊を上陸させ、陸戦で実戦経験に乏しいアルゼンチン軍を圧倒した。
しかしながら、アルゼンチン軍で使用されていた12.7mm重機関銃M2による狙撃は、イギリス海兵隊員に著しい損害を与えた。これは、本来は陣地戦での攻防や対車両用に用いられるM2にスコープを載せ、遠距離から敵兵を狙撃したもので、本格的な大口径対人狙撃の嚆矢となった。特にサウスジョージア島での攻防では、イギリス海兵隊は敵陣にたどり着くまでに多くの犠牲者を出している。
[編集] 情報戦
イギリスはNATOやEC加盟国として他の加盟国への協力を打診し、EC加盟国がアルゼンチンへの経済制裁を発動、また、アメリカが同じく友好関係にあるアルゼンチンとの関係を考慮しながらも全面的にイギリスを支援し、空中給油機の提供を申し出たほか自国製の戦闘機や各種武器の情報をイギリスへ流した。また、アルゼンチンの電話、通信設備を敷設したのがイギリス系企業だったこともあり、アルゼンチン軍や政府の軍事情報はイギリスへ筒抜けであったと言われている。
これに対し当時冷戦下でアメリカやイギリスと敵対していたソビエト連邦はイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したほか、非同盟諸国や南米諸国の多くは大っぴらにアルゼンチン支持を表明したものの、各国の軍隊および情報組織の力は弱く、戦況への影響はほとんどなかった。なお、アルゼンチンの隣国のチリは、ビーグル海峡地域においてアルゼンチンとの国境問題を抱えていたことから、イギリスへ積極的に基地提供などをしたといわれる。
この様な中、世界最大の通信社であるロイターはイギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方はある程度は承知していたため実害はなかったが、イギリス政府はロイターへ「貴社はイギリスの企業であるのに、愛国心はないのか?」と直接電話で聞いたところ、応対した責任者は「申し訳ないが私はドイツ人であるので愛国心の問題は分からない」と答えたとされる。
[編集] 戦後の両国関係
アルゼンチン軍の降伏後の6月17日にアルゼンチンのガルチェリ大統領が敗北の責任を問われ失脚し、大統領及び陸軍総司令官を辞任するなど、戦争に敗北したアルゼンチンでは政権交代が行われた。対して勝利したイギリスではサッチャー首相の人気が急上昇するなど完全に明暗を分けることになった。
その後両国は国交断絶状態が続いたが、その中で1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝でアルゼンチン代表が2対1でイングランド代表に完勝し、戦争の敗北の屈辱がまだ残るアルゼンチン国民を熱狂させた。
その後1989年10月にアルゼンチン、イギリス両国は開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日に両国は外交関係を正式に回復した。しかし両国は現在も自国の領有権を主張し続けている。