社会主義国
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社会主義国(しゃかいしゅぎこく)は、社会主義を標榜する国家。
ソ連崩壊後も共産党が選挙を通じて政権を担った国(モルドバ、南キプロス)や独裁体制を保持した中央アジア諸国は社会主義国とされない。その為、ソ連崩壊前に建設された共産主義を目指す国家群が社会主義国になると言える。
現在、社会主義国は中華人民共和国、ラオス、キューバなどに限られている。
目次 |
[編集] 社会主義国の歴史
共産主義 |
共産主義の歴史 共産主義の種類 社会主義国 人物 |
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19世紀の資本主義社会は過酷な労働環境をもたらすなど多くの矛盾・問題点を孕んでいた。その問題点は多くの学者によって分析され理想の社会が論じられてきたが、特にカール・マルクス・フリードリヒ・エンゲルスらは、資本主義が成熟した後に社会主義が実現しうるとした。
しかし、実際には成熟した資本主義国では社会主義革命は起らず、集中排除、社会福祉、労働法規、財政等の社会民主主義的政策によって、一応の安定をみた。一方ロシア等資本主義が成熟していない社会において、改革を急ぐ急進的な人々により暴力的に革命・改革は実行された。結果的に、社会主義革命はその理想とは裏腹に多くの悲惨な結果と犠牲者を残した。これは20世紀における最大の社会実験であり、その失敗は人類の悲劇であろう。
[編集] 社会主義国家の拡大
ソビエト連邦はイデオロギーの輸出と言う全く新しい世界侵略の方法を生み出し、国内向けには恐怖政治、国外向けには自国の軍事力に加え、各国の共産党に指示や武器等を与えることで世界革命を実現しようとした。実際、第二次世界大戦後多くの東欧の国々が「解放」され社会主義国となった。
中国では、日本の敗戦により汪兆銘政権が崩壊した後に国共内戦が再開され、蒋介石率いる中国国民党が敗れ台北に逃走した結果、中国共産党の手により中華人民共和国が成立した。
ベトナムでは、1945年、終戦の混乱に乗じて旧仏領インドシナ地域が独立を宣言し、ベトナム民主共和国が成立した。しかし、1946年にはフランスが東南アジアの利権を守るべく傀儡政権のコーチシナ共和国を成立させたことで、国土は分断状態に置かれた。その後、南北の対立は続き、断続的に戦争が行われた。北ベトナムはソ連・中国の(中ソ対立ではソ連側に付いた)、南ベトナムは初めフランスの、後にアメリカ合衆国の支援を受けていた。1975年、北ベトナム軍は南ベトナムの首都サイゴンを陥落させ、社会主義国としての統一を実現した。周辺国のカンボジア、ラオスも社会主義国となった。
1976年にはアンゴラ、1978年にはエチオピア、モザンビーク、南イエメン、アフガニスタンで社会主義政権、もしくは親ソ政権が誕生した。
これらの動きに対し西側諸国は、革命に反対する勢力への武器提供や資金援助を行った。その結果、いずれの勢力も主導権を握ることが出来ず、いつ果てるとも知れぬ泥沼の内戦を繰り広げることも多かった。
[編集] 社会主義国家の消滅
これら社会主義諸国の間でも様々な紛争が起り、「共産主義は一枚岩」(社会主義国は将来的には共産主義を実現すると標榜していた)という理念は短期間で崩壊した。ハンガリー事件、ソ連と中国の対立、ソ連のチェコスロバキアへの軍事介入、ソ連のアフガニスタン侵攻、中国のベトナム侵攻などである。
東西冷戦の重圧と、生産性の低さによって東欧社会主義諸国は経済的な行き詰まりを見せ、ベルリンの壁崩壊などの東欧諸国の民主化やペレストロイカを経て、1991年、世界初(パリ・コミューンを除く)にして最大の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊した。重しの外れたヨーロッパの社会主義国は次々に社会体制を改め、現在ヨーロッパには社会主義国は残っていない。アジア(中華人民共和国、ベトナム、北朝鮮)と中米(キューバ)では一党独裁制の社会主義国が残っている。それらの国々でも、現在ではある程度開発独裁的な体制(社会主義市場経済、ドイモイなど)を取りつつある。
チリでは、1970年の自由選挙においてサルバドール・アジェンデが大統領に選出され、社会主義政権が合法的な(革命を伴わない)形で誕生した。この動きが中南米に広がることを危惧したアメリカ合衆国は反政府勢力を支援し、チリの政情は不安定な状態となった。1973年にはCIAの後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らによるチリ・クーデターが成功を収め、軍事独裁体制へと移行した。民主的な選挙による社会主義政権は足掛け4年の短命であった。
[編集] 社会主義国の抑圧体制
暴力革命によってプロレタリア独裁を実行したことから、結果的に社会のあらゆる組織を国が管理・支配する社会が生まれた。言論の自由がなく、秘密警察が市民を監視する社会である(当時ルーマニアでは人口2300万人に対し、秘密警察は200万人いると言われていた。無論ありえない数字であり、歴史修正主義者によるプロパガンダとの批判もある)。体制の最高指導者の政策に異議を唱えるものは、「人民の敵」「反革命分子」等の烙印を押され、まともな裁判も受けられずに処刑され、あるいは収容所や精神病院に押し込まれた。ソ連においてはスターリンによる粛清が最も悪名高く、独ソ開戦当初ソ連軍の敗北が続いたのは、軍隊での大量粛清の影響だとする説もある程であった。このような弾圧は言論のみならず芸術や宗教、数々の演劇関係者、演奏者、作曲家、文学者が「反革命的」であるとして断罪され、ある者は銃殺されある者は公表の機会を奪われある者は作風を変えられある者は家族を捨てて亡命した(例えばメイエルホリド、ソルジェニーツィン、ショスタコーヴィッチ。社会主義リアリズム参照)。
東ドイツが建国された1949年から、ベルリンの壁が建設される1961年まで、つまりわずか11年足らずの間に、270万人もの東ドイツ国民が西側に亡命した(1989年、東ドイツの総人口は1700万人)。西ドイツで公式に亡命者として登録された人だけでも270万に達し、親族や知り合いを頼って移住し、亡命者として登録していない人も含めれば、実数はこれよりも多いと考えられている。東西ドイツが統一するまでに亡命したドイツ人の数は東ドイツの人口の二割とも言われている(当然ながら、西から東へと移住した人もいる)。
カンボジアのポル・ポト政権は、中国の文化大革命に触発されて極端な農業化を推し進め、人口700万の同国で150万から300万の国民(国外亡命者を含む)を処刑した。
1989年6月には、中国・北京の天安門広場で民主化を求める学生デモが発生したが、中国政府はこれを武力で鎮圧した(天安門事件)。事件での犠牲者について、中国政府は軍人を含む319人と発表したが、実際にはもっと多いのではないかと推測する者もいる。また、2005年の反日暴動に前後して、インターネットにおける中国政府の検閲や同国の国定教科書が話題になった。
[編集] 社会主義国の低生産性
計画経済の下では資本主義諸国に比べ生産性の向上が遅い。これには、
- 市場での競争原理が働かないため、各事業体がノルマの達成だけを考え、商品や生産技術を進歩させようと考えない
- 厳しいノルマの生産計画により、生産設備も労働者も疲弊してしまう
- 労働者がいくら働いたところで同じ給与しか貰えないからと仕事をあまりしない
- 需要を考えずに計画を立ててしまい、製造しても売れず、資源を浪費する。
- 無能な経営者の淘汰が構造的に起きにくい(資本主義では株主などの直接的な利害関係者がチェックし経営者を変えられる。最悪の場合は企業が倒産する。)
などの理由が挙げられている。また、冷戦による軍事費の増大は、経済基盤が元々弱い環境にあった社会主義国にとっては大きな負担となった。
このため経済的に困窮した社会主義諸国では、麻薬栽培、兵器輸出等を主産業として外貨を稼いでいる場合がしばしばある。東アジアでは、朝鮮民主主義人民共和国によるミサイル技術や核兵器の拡散、日本人や韓国人の拉致、工作船等の不法侵入、麻薬の密輸が深刻な問題になっている。
[編集] 社会主義国の現在
社会主義の掲げた理想は皮肉なことに、社会主義国では労働組合が傀儡化され、階級も固定化されるなどまったく実現されず、一方、資本主義国側では、教育水準の向上が社会流動性をもたらし、社会保障等の福祉制度の充実となによりも生産力の向上が、貧困の克服と、社会の成熟と安定をもたらした。資本主義体制下にあっても、社会保障を整備することで、国民全体の所得は向上し、貧困からの脱却が可能となり、革命によるものよりもはるかに豊かな社会を実現し得るということである。
こうした事実の認識は、ソ連の崩壊によって確固たるものとなった。ここに至って、世界各国の社会主義、共産主義政党はプロレタリア独裁のドグマを放棄し、イタリア共産党のように社会民主主義政党へ路線転換したりするなど、社会主義者・共産主義者からの歩み寄りもみられるようになった。日本共産党もまた、1974年にプロレタリア独裁の規定を放棄している。
一方、中南米では1990年代末より左派勢力が力を増し、ベネズエラのチャベス政権のように社会主義を目指す国が現れている。また、ロシアにおいても超大国時代の社会主義ソ連を懐古する層がおり、大統領への権限集中を後押しする一因となっている。
対立する一方の超大国が消滅したことで、世界唯一の超大国となったアメリカ合衆国の軍事力が突出していることに対する懸念の声もある。冷戦下では共通の敵を持つことで常に歩調を合わせてきた西側諸国の中でも、アメリカ合衆国の軍事行動に同調しないケースが増えつつある。また、イラクのフセイン政権の政策が反共、非宗教の国粋主義であることはかねてから知られており、反ソ連で一致すれば軍事独裁政権でも容認するという姿勢を批判する声もある。
[編集] 犠牲者に関するデータ
特記項目のないのは未確認情報である
- 毛沢東が虐殺した数 6500万人
- 八路軍による長春包囲作戦での市民犠牲者 33万人
- 江西省に一時建国された中華ソビエト共和国臨時政府にて処刑された旧地主階級・知識人・一般国民 18万6千人
- 中華人民共和国成立後に、1953年までに反政府勢力として処刑された旧国民党、富裕層、旧地主階級、知識人71万人(中国の解放軍出版社より出版された国情手冊)
- チベット解放の美名のもとに人民解放軍によって殺されたチベット人 1950年から84年までの間で120万人以上
- 大躍進政策による餓死者 2000万人~ 4300万人
- 文化大革命での犠牲者 2000万人
- 文化大革命で破壊された治安回復の為、軍優先に転換した毛沢東に見放され、地方に送り出された先々で軍・民兵(文化大革命で被害を受けた側)の復讐(リンチ殺人)対象となった元紅衛兵
- 文化大革命のどさくさに紛れ、国家分裂を防ぐために処刑されたといわれるチベット族・ウイグル族などの少数民族。これにより少数民族の多くが漢族に籍を移したという。
- 第二次天安門事件(1989)で殺されたデモ学生数 319人(中国政府公式発表)
- ポルポトがカンボジアで虐殺した数 150万人~300万人
- ソビエト連邦解体までの70年間に粛清された数(現行のロシア政府が1997年に認めた公式データ) 6200万人
- 1937年から1938年までの一年間でスターリンが虐殺した数 2000万人
- 北朝鮮 200万人
- 東ヨーロッパ 100万人
- ラテンアメリカ 15万人
- アフリカ 170万人
- アフガニスタン 150万人
- その他の共産党 1万人
[編集] 主な社会主義国
- アジア
- ラテンアメリカ
[編集] 消滅した社会主義国
- アジア
- アフリカ
- ヨーロッパ
[編集] 関連項目
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