文化大革命
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文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1960年代後半から1970年代前半まで続いた毛沢東らが引き起こした権力闘争をいう。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任し共産党指導部内での権力が後退した毛沢東が、失った権力を再び取り戻すために仕掛けた大規模な権力奪還闘争をいう。 政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動で、ほとんどの中国国民を巻き込んだ粛清運動として展開した。無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう。
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[編集] 概要
はじめ毛沢東指示のもと、劉少奇からの政権奪還を目的として林彪の主導により進められた。林彪の事故死後は四人組に率いられて毛沢東思想に基く独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争であった。
共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者、などの知識人等が弾圧の対象となった。しかしその後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが被害を受けた。期間中の行方不明者を含めた虐殺数は最低2000万人と言われる。[要出典]
[編集] 発端
中華人民共和国での思想統制は1950年代にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。
1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。
1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。
[編集] 林彪の煽動
その報告には「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面をあばき出すより他ない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない」と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。
[編集] 紅衛兵の結成
毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、毛沢東自身が仕掛けた、実権派に対する奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた五人組であったとする見方もある。原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
[編集] 実権派打倒
実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目された鄧小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、批闘大会と呼ばれるつるしあげが日常的に行われた。実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉口(日含)、儲安平などは自ら命を断った。
文化大革命中、各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は5000万人以上とも言われている。 また極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。
[編集] 文革の展開
文化大革命は大きく三段階に分けられる。第一段階は1966年5月の紅衛兵結成から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第二段階は1973年8月の第10回党大会における林彪墜死事件の総括まで。第三段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。
期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。
[編集] 歴史決議による総括
1977年8月に中国共産党は、66年以来11年にわたった文革の終結を宣言した。1981年には四人組と林彪グループに対し、死刑から懲役刑の判決が下された。
1981年6月に中共11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」ことを認めている。
文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が72年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験はおこなわれず、青年は農村に下放されたため専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。
[編集] 革命の輸出路線
ソ連など国交がある国の多くとも関係が断絶し、交流があった国はアルバニアなど数カ国に過ぎず、10年以上の実質的な鎖国状態を招いたため、中華人民共和国の文化・経済の近代化は大きく遅れることになった。なお、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配の下、自国民の虐殺を行った当時のカンボジア(民主カンプチア)は、文革中の中華人民共和国の親密な友好国であった。
国内的には「歴史決議」によって一定の終息をみた文革だが、国際面での終息はなお数年ないし数十年の持続があったと思われる。
[編集] 現在の中国共産党の対応
公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」という鄧小平の発言が公式見解のようだ。一応国定教科書にも取り上げられるが、中国は現在も実質上の言論統制下にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述にとどまった。
[編集] エピソード
- 紅衛兵は、街路や病院などの名前を、勝手に「革命的」なものに変更して回った。たとえば、ソ連大使館があった揚威路は反修(反修正主義)路、米国の資金で建設された協和医院は反帝(反帝国主義)医院など。標識が撤去できなかったために変名を免れた道路もある。
- 紅衛兵はまた、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。この案が却下されるにあたっては、なんと周恩来が動いたとの説もある。他にも、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、イギリスが左側通行との理由で取りやめになった。
- 当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。
- 紅衛兵が、北朝鮮の金日成主席を「修正主義者」と批判し、中朝関係が冷え込んだことがあった。
- 中国共産党と日本共産党の党間関係にも亀裂が生じ毛沢東が「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出的な意見を述べ、党内分裂を謀った(日本労働党)。日本共産党は内政干渉だとして関係を断絶した。なお1998年に日本共産党と中国共産党とはこの「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関係が修復した。
- 文革中の中国の切手は、毛沢東語録を中心とする「革命的」題材で埋め尽くされ、スポーツ関係の記念切手に肝心のスポーツ場面が全くなくプロパガンダに終始していたこともあった。
- 文革期の中国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞をたきつけに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
- 旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。
- 陶磁器や金魚・月餅など古い歴史を持つ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊され、陶磁器が割られたり金魚が殺害されたりした。文革の結果こうした伝統産業は壊滅的打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたが、文革後日本の関連業界や生産者の支援で再興されている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 丸山昇著『文化大革命に到る道――思想政策と知識人群像』岩波書店。ISBN 4000246062
- 矢吹晋著『文化大革命』講談社現代新書。ISBN 4061489712
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