八路軍
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八路軍は、現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。
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[編集] 背景
毛沢東は軍閥や列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方で1920年代の中国国民党は装備こそ貧弱であるものの党の軍隊を組織しており、第一次国共合作は軍隊組織を持つ国民党・蒋介石による反共クーデターにより瓦解した。この経験から、中国共産党は軍隊の組織を開始することになる。
ドクトリンは毛沢東による人民戦争理論にしたがっていたと考えられる。 すなわち、「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」人海戦術がそれである。 そのドクトリンに従い、共産党は積極的に各地に共産党を広める浸透工作をおこなった。共産党に好意的な村落、都市を増加させるのが目的である。その結果共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させるのも容易になった。 事実、日本軍は都市や拠点など点と線のみの確保にとどまり、それ以外はすべて敵性の住民に囲まれるという様相を呈し始めた。 こうした共産党勢力と八路の展開は、日中戦争後の国共内戦でも有利な条件となり、最終的に国民党軍を撃破するのに大いに役立った。
[編集] 歴史
- 前身
当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。第四軍はその後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。
この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。
- 誕生
このような情勢下、西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。
同時に中国南方地域では紅軍は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に新四軍と呼ばれることになる。
- 消滅
1947年に第二次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された。
[編集] 行動地域
八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。また、1940年には華北において百団大戦という大規模な会戦を行い、延安と華北地域への回廊を確保した。
[編集] 戦果
八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は七万四千回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したとされている。また、兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していた。
[編集] 組織
- 総指揮官:朱徳
- 副総指揮官:彭徳懐
- 正規師団:第115師団・第120師団・第129師団が存在したが、民兵組織も多数参加した模様。
[編集] 評価
日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であり、神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本兵を悩ませた。また、抗日戦線を戦う過程で華北を中心に民衆に根ざした八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において国民党軍よりも大衆の支持を集めたとされ、中華人民共和国設立に貢献した。
八路軍に降った日本軍将兵はソ連軍に下った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵は少なくない。
八路軍将兵は「三大紀律八項注意」として知られるように規律が保たれていた。後の内戦での勝因の一つといえるだろう。
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