中国共産党
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中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう、簡体字:中国共产党、発音:Zhong guo gong chan dang、英称Communist Party of China)は、アヘン戦争で中国の清王朝が衰退して以降の新中国建設に重要な役割を果たし、新・民主主義革命を成功させた中華人民共和国で唯一の政権政党である。
中華民国(台湾移転以前)および中華人民共和国における共産主義政党。中華人民共和国憲法において「中華人民共和国を指導する政党」と明記され、事実上の一党独裁制を維持している。
略称は中共(ちゅうきょう、CPC)。2004年末現在、6960万人以上の党員を抱える世界最大の政党である。
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理念
中華人民共和国 |
組織集団 主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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中国共産党は党における最終目標と最高の理想を共産主義を実現することとしている(中国共産党規約 中国共産党第十六回全国代表大会で一部改正の上、2002年11月14日採択)。よって、中華人民共和国は現在共産主義を実現するための初級段階として社会主義を行っている。
社会主義は共産主義の初級段階であるため、中華人民共和国の政権政党として党規約に基づいて、現在は国防及科学、工業及び農業技術の現代化を実現し、国を富ませ強くし、民主的、かつ、文明的な国を建設することで共産主義の実現を目指している。
- ※民主主義の意味は中国と自由主義諸国では違いがあるようである。
思想
2005年現在、指導思想として、マルクス・レーニン主義(マルクス主義)、毛沢東思想、鄧小平理論、さらに江沢民が提唱した思想理論「3つの代表」思想を掲げている。
歴史
「中国共産党」の歴史は、まさに現代中国の歴史と言える。
中国共産党の結成
1921年7月、コミンテルンの主導により、陳独秀や毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて第一回中国共産党大会(中共一大会議)を開催、結成された。 一般には、創立党員は57人とされるが、57人の名前が明確に示された文献はなく、本当に57人であるかは定かではない。 また、結成時に上海に集まった党員は13人であるが、公式記録では、12人とされているらしい。また、顧問として、オランダ共産党政治局員が招聘されている。
なお、創立党員で中華人民共和国建国まで生き残り、かつ、死ぬまで「中国共産党」内での名誉を保ちつづけた者は毛沢東を除くとほとんどいない。
大戦期
中華民国期には、中国国民党と、時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対し(1927年の蒋介石による4・12クーデター(上海クーデター)により国共分裂)、軍閥および日本との戦いを続けた。
当初は、コミンテルンの指導が強く、また、ソビエト連邦への留学生が「中国共産党」の中心勢力であった。 そして広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せずに大都市の労働者による武装蜂起を革命の基本路線と考えたコミンテルンの指導に忠実に従ったために、第一次国共合作に固執しすぎ、また、国共分裂後は、極左冒険主義に走りすぎるなどの路線の失敗を犯した。 一方で並行して、中国国民党からの熾烈な白色テロの標的ともなったため、中国国民党と比較しても、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。
このような中で毛沢東は都市ではなく農村に拠点を置き、やがては都市部を包囲していこうという戦略を取り始めた。中国共産党による農民を対象とした社会主義化の動きはそれまでのマルクス主義のような社会主義思想のように労働者階級を対象としたものではなかった、ということが事が今までのマルクス主義とは異なった点であるといえる。毛沢東のグループは江西省、福建省、湖南省等、華中や華南の農山村地域で勢力を拡大させ、1931年には江西省瑞金で「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。 しかしこの時期、上海から移動してきたソ連留学組によって指導権が簒奪され、その下で中国国民党軍の包囲攻撃に抗する事ができず、1934年から長征(ロングマーチ)に出ることとなった。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立し、陝西省延安に拠点を築いた。1936年の西安事件(西安事変)を経て、1937年に第二次国共合作を成立させ、八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との長い戦いを続けた。この時期には、アメリカ合衆国の訪問団を受け入れ、両者の協力関係も生まれていた。コミンテルン、中国共産党は日本、中国国民党の共倒れ、中国共産党の漁夫の利を得ようと画策していた。そしてその計画は第二次大戦後、実現することとなる。このことは、ソ連崩壊によって明らかになった資料や、中国共産党幹部の発言などから証拠付けられる。日中戦争が全面的に勃発した後も、日本・中国国民党間の和平を妨害しようとした。
1945年に日本が第二次世界大戦で敗北し、中国国内の軍隊が全面降伏すると、再び中国国民党との関係が緊迫した。内戦を回避したい米国やソ連の意向もあり、毛沢東と蒋介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。当初は米国の支援を受けた国民政府軍(中国国民党)に敗北したが、ソ連の支援を受けて東北部から徐々に反撃し、土地改革による農民の支持や中国国民党の腐敗もあって、最終的に台湾を除く中国全土で勝利を収めた。 そして、1949年10月1日には中華人民共和国の建国を北京で宣言した。
中華人民共和国の建国後
中華人民共和国の建国によって政権政党となった「中国共産党」だが、安定的に発展することはできなかった。当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年のニキータ・フルシチョフによるスターリン批判以降はソ連共産党との関係が悪化、1960年からは公開論争にまで発展した(中ソ論争)。
文化大革命
中ソ論争の頃から「中国共産党」は独自路線を歩み始めるが、党内部では反右派闘争、大躍進政策などの路線闘争、権力闘争は絶えず、毛沢東が自らの実権を回復するために1965年に発動した文化大革命でその混乱は極に達した。この時期に劉少奇、林彪ら革命の英雄たちが姿を消していった。 その一方、1972年には米国大統領 リチャード・ニクソンの訪中を受け入れ、日本との国交回復を実現するなどの外交政策の転換も行った。1976年に毛沢東が死去すると、文化大革命は収束に向かい、毛沢東の妻・江青など文革派の四人組は逮捕され、華国鋒体制が過渡的に成立し、1977年には文革の終結が宣言された。
改革開放路線
1978年12月の第11期3中全会では、最終的に文革期の失脚から返り咲いた鄧小平の指導体制が確立し、それまでの革命路線から改革開放、現代化路線へと大きく転換した。1981年には文化大革命を完全に否定、毛沢東の誤りを一部認めた(「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」)。
改革開放の流れの中で党の指導体制は弛緩し始め、1980年代後半からは党機構と行政機構の分離も盛んに議論されるようになったが、1989年に起きた天安門事件後は保守派が息を吹き返し、党の指導体制が再び強化されることになる。 しかし、それによってこれまで続いてきた経済成長がスピードダウン、1992年冬に行われた南巡講話の中で鄧小平は「改革開放を加速せよ」と指示を出し、同年10月の第14回大会では社会主義市場経済が打ち出された。鄧小平死後の1997年9月の第15回大会では、鄧小平理論を指導思想と確立し、社会主義の初級段階における党の路線が確立されると同時に、名実ともに江沢民時代に入った。
経済発展
2002年11月の第16回大会では、江沢民が提唱した私営企業家の入党をも認める「3つの代表」思想が規約に明記されるとともに、江沢民から胡錦濤体制へと移行、第3世代から第4世代への世代交代が初めて平和的に実現した。2004年9月には、江沢民が最後まで残していた中央軍事委員会主席の地位も胡錦濤に譲られ、少なくとも公式には胡錦濤体制への転換が完了した。
2020年までにGDPを2000年の4倍とし、「全面建設小康社会(いくらかゆとりのある社会を全面的に建設する)」という目標を打ち出しているが、今後、政治の民主化を遅らせつつ一党独裁体制を継続していけるかが注目されている。 また、私営企業家の入党許可は階級政党から国民政党への脱皮を意味しており、党のあり方そのものが問われる重大事件であった。
中華人民共和国建国後の歴代の党トップは、毛沢東(主席)、華国鋒(主席)、胡耀邦(主席→総書記)、趙紫陽(総書記)、江沢民(総書記)、胡錦濤(総書記)である。
機構
- 中国共産党の最高指導機関は、5年に一度開催される全国代表大会である。 閉会期間中は大会で選出された中央委員会(毎年少なくとも1回開催)がこれを代行する。 中央委員会全体会議は、中央政治局委員、中央政治局常務委員、中央委員会総書記を選出し、中央書記処メンバーを選出する。
- 中央政治局と常務委員会は党の最高意思決定機関であり、中央委員会総会の閉会期間に中央委員会の職権を行使する。 総書記が中央政治局会議、中央政治局常務委員会会議を招集する。 現在(第16期1中全会選出)の政治局委員は24人、候補委員1人。 うち、政治局常務委員は胡錦濤(総書記)、呉邦国、温家宝、賈慶林、曽慶紅、黄菊、呉官正、李長春、羅幹の9人で、党の最高指導部を形成している。 毛沢東時代には形骸化し、毛沢東の恣意的な決定が頻繁になされた。 そして鄧小平時代になっても、こうした傾向は継続したが、現在では改められている。
- 中央書記処は、中央政治局のもとに設置された日常活動を処理する事務機関。総書記が中央書記処の活動を主宰する。 現在、書記は曽慶紅ら7人。
- 中央軍事委員会は、国家中央軍事委員会と一体となって人民解放軍を指揮する軍事の最高機関。事実上、中国人民解放軍は党が指導する軍隊である。 2004年9月以降の委員は11人で、うち主席は胡錦濤、副主席は郭伯雄、曹剛川、徐才厚の3人。
- 中央規律検査委員会は、党の規律検査を担当する機関。委員は全国代表大会で選出される。書記は呉官正。
党の直属機関として、組織部、宣伝部、統一戦線工作部、対外連絡部、弁公庁、政法委員会、政策研究室、台湾工作弁公室、中央党学校、人民日報社など20の機関が設置されている。
党の地方組織は、地方各級ごとに代表大会、党委員会、常務委員会、書記などが置かれている。 中央と同じく、任期は5年。
党員
中国共産党員は中国社会のエリートであり、行政、立法、司法、軍、大衆組織など、社会のあらゆる部門に末端組織である党組を設け、指導している。しかし、改革開放時代に入り、イデオロギーの持つ社会的意義が低下すると、党員は政治活動よりも金儲けに精を出すようになり、腐敗も深刻化している。とはいえ、今でも書店にはマルクス・エンゲルス全集、レーニン全集、毛沢東選集、鄧小平文選が並べられ、彼らの肖像画も売られている。
不祥事
世界最大の党員を抱えるだけに、党員による汚職などの不祥事も枚挙にいとまがない。2004年だけでも、除籍処分を受けた元党員は4万9千人に及ぶ。
一般党員の党離れが加速しており、これまでに500~700万人が脱党したといわれている。
党幹部の中には子弟をカナダなどに移住させ、いつでも海外へ亡命できるよう準備している者も少なくない。また、1000人以上の幹部が二重国籍を有している。
日本との関係
中国共産党の初期の指導者は、多くが日本への留学経験を持つ。マルクス主義理論家の李大釗〔李大ショウ(※金偏に立刀)〕や東京生まれの廖承志は早稲田大学で、毛沢東体制で長く首相を務めた周恩来も1917年から1919年まで東京の専門学校で学んでいる。日本共産党でも中国共産党と協力して抗日戦線の成立(日本軍国主義への抵抗運動)に協力した例が多く、野坂参三はコミンテルンの日本代表として延安で日本人民反戦同盟を指揮した。
第二次世界大戦で日本が敗れると、ソ連軍の協力で中国東北部を支配した中国共産党は、満州国などの日本人指導者層の多くを戦争犯罪人として処罰した。 一方、現地に留まった日本人の中には、国共内戦で共産党軍に協力し、中華人民共和国成立後も残留する者もいた。 ただし、文化大革命が始まると残留日本人の多くは激しい批判の対象となり、帰国する者も現れた。 また、廖承志などの党内知日派も自己批判を要求され、ほとんど失脚した。
日中共産党の関係は、1950年代前半の日本側の党分裂時代でも維持され、中ソ対立でも日本共産党は当初中国側を支持した。 しかし、1966年に訪中した日本共産党委員長 宮本顕治は毛沢東と意見が対立し、その後は両党機関紙での激しい非難合戦が続いて、両党の関係は断絶した。日本側の親中派は「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)などを結党した。 一方、日本社会党との関係は委員長 浅沼稲次郎が1959年に「米帝国主義は日中人民共同の敵」と述べたように、文化大革命時代も相互自立の関係を維持して比較的良好だった。 社会党には「野党外交」を展開できるメリットがあったともいえる。
1972年に日中両国の国交が回復し、文革が終結すると、廖承志の復権(中日友好協会の初代会長へ就任)や両国指導者の相互訪問の増加などで中国共産党と日本社会との関係は再び深まり、自由民主党や公明党なども対象としてより多層に広がっていった。日本では1995年の阪神淡路大震災後当時の村山内閣の対応の不手際から日本社会党の勢力が後退。中国共産党は日本共産党との和解を模索し始め1998年には日本共産党幹部会委員長(当時) 不破哲三の訪中で両国共産党の関係も正常化した。2005年には、若手幹部が訪日し、両党で理論交流を行うなど、活発な交流を行っている。
現在の中国共産党の対日担当者は、党中央委員 唐家璇〔唐家セン(※王偏に「旋」)〕(国務委員、前外相)などのように、日中国交断絶時の中国国内で研修を積んだ世代が中心であり、今後は再び国交回復後の日本留学者が多く関わってくる事が予測される。
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