石部宿
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石部宿(いしべじゅく)は東海道51番目の宿場(→東海道五十三次)。「京立ち石部泊り」と言われ、京都を出て1日の行程にあり、現在の滋賀県湖南市となる。
宿の成立は、1571年(元亀2年)に織田信長の治下で5ヶ村が合わさり「石部町(まち)」を形成した時点とする説、1597年(慶長2)の豊臣秀吉治下で信濃善光寺の輸送に役夫・伝馬を課せられた時点とする説、1601年(慶長6)年に東海道各宿に朱印状が発せられ伝馬徴発の定書が下付された時点とする説、1615年~1623年(元和年間)の記録に残る時期とする説などがあるが、『新修石部町史』は1601年説を妥当として紹介している。
宿場内には、本陣2軒(小島本陣、三大寺本陣)、旅籠32軒を含む458軒が街道の両脇約1.6キロメートルにわたって建ち並んでおり(1843年現在)、その中央には宿役人の詰める問屋場と高札場があった。幕末には征夷大将軍徳川家茂が上洛の際に(1863年)、新撰組局長近藤勇も江戸下向の際に(1864年)それぞれ小島本陣に宿泊し、のちに最後の征夷大将軍となる一橋慶喜も上洛の際小島本陣に小休止(1863年)している。現在、街なかに往時の面影は薄いが、湖南市内の東海道石部宿歴史民俗資料館に宿帳などの歴史資料が展示されている。
なお、江戸方面に進むと、水口宿との間、現在の湖南市夏見に藤棚を備えた「立場(たてば)」があったが、ここの茶店がところてんに黒蜜をかけて食べる発祥の地であるといわれる(注:立場は人夫が杖を立てて休憩する所から名付けられ、宿場と宿場の中間に置かれる合いの宿と宿場との中間に設置された)。
歌川広重が「東海道五十三次」に描いた「目川の里」は石部宿よりもむしろ草津宿にかなり近い(現栗東市)。なぜここを「石部」として描いたのかは不明である。
目次 |
[編集] 最寄り駅
[編集] 史跡・みどころ
- 見付跡(東)
- 高札場跡
- ポケットバーク(石部中央交差点角)
- 問屋場跡
- 「石部宿場の里」
- 建物の内部は無料休憩所となっている。
- 小島本陣跡
- 明治天皇も宿泊した本陣だが、建物は残らない。
- 「田楽茶屋」
- 建物の内部は無料休憩所となっている。
- 一里塚跡
- 見付跡(西)
- 東海道石部宿歴史民俗資料館
- 街道からはやや離れているが、東海道石部宿関連の資料を展示する施設で必見。小島本陣に関する資料や1/20の復元模型などを展示する資料館の他、旅籠、商家、農家、茶屋などが再現されていて、当時の道具類が展示されている。
[編集] ゆかりの人々
- 大岡越前 1723年(享保8)10月23日夕方、石部宿に泊まった大坂三度飛脚一行が財布を盗まれた。空の財布は発見されたが、信用問題であるとした飛脚は、宿問屋や財布の発見者までを訴えた。膳所御役所から江戸評定所、さらには当時の江戸町奉行 大岡越前守御番所で取り調べがされたが、翌年4月4日の大岡裁きは今後何らかの事実が判明した場合速やかに届け出よとの双方お咎めなしであった。
- 徳川家茂
- 近藤勇
[編集] 隣の宿
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