キンチェム
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性別 | 牝 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1874年3月17日 |
死没 | 1887年3月17日 |
父 | カンバスカン |
母 | ウォーターニンフ |
生産 | 国立キシュベル牧場 |
生国 | オーストリア・ハンガリー帝国 |
馬主 | E.V.ブラスコヴィッチ |
調教師 | ロバート・ヘスプ |
競走成績 | 54戦54勝 |
獲得賞金 | 394,820コロナ |
キンチェム(Kincsem、1874年 - 1887年)はハンガリーの歴史的競走馬。名前はハンガリー語で「私の宝物」の意味(恋人同士や夫婦の間で使うと「あなた」の意味になる)。デビューから引退までの無敗記録としては世界記録となる54戦54勝の記録を持つ。デビューからの連勝記録としてもプエルトリコのカマレロに破られたものの、未だそれに次ぐ2位の記録である。
※日本では長い間「キンツェム」として知られてきたが、ハンガリー語の発音では「キンチェム」の方が近い。
目次 |
[編集] 出自
キンチェムはハンガリーの国立キシュベル牧場に生まれた。当時のハンガリーは、東欧の強国オーストリア・ハンガリー帝国のもとサラブレッド生産にも力を入れ、今日のハンガリーとは比べものにならないほどレベルが高かった。母のウォーターニンフ(Water Nymph)は英オークス5着のザマーメイド(The Mermaid)の子で、現役時代にハンガリーの1000ギニーに優勝した名牝だった。キンチェムを生産したエルンスト・フォン・ブラスコヴィッチは、自分の乗馬用の馬としてこの馬を購入したのだが、周囲に説得されて繁殖牝馬とした。ウォーターニンフは繁殖に入って1年目からハンガリーオークス馬のハマト(Harmat)を輩出した。2年目にはバッカニア(Buccaneer)(*)が配合されるはずだったのだが、牧場のミスでウォーターニンフはカンバスカン(Cambuscan)に配合されてしまい、そしてキンチェムが生まれた。カンバスカンは種牡馬として活躍したニューミンスターを父に持ち、2000ギニー2着、セントレジャーステークス3着に入った後にイギリスで種牡馬となり、2000ギニーを勝ったカムバッロ(Camballo)を出している。その後ハンガリーのジョッキークラブに購入されたが、受胎率が低くバッカニアに比べれば人気はなかった。
ブラスコヴィッチの生産馬は1歳になると一括して売却されることになっていて、キンチェムの年はアレックス・オークシーという人物に7頭700ポンドくらいで売られることになったのだが、購入したにもかかわらずこの人物はキンチェムともう1頭の馬を引き取らなかった。キンチェムはひょろっとした暗い栗毛で外見が悪かったためか、走らないと判断されたのである。結局キンチェムは生産者のE.V.ブラスコヴィッチの所有で走ることとなった。
キンチェムは子馬の頃ロマに誘拐された事があり、犯人逮捕後に警察が「あの牧場にはもっといい体の馬が沢山いたのに何でこんな馬を狙ったんだ?」と尋ねた。すると犯人は、「確かにあの馬は外見は他の馬に見劣りする。でもそれを補って余りある勇気を持っていたんだ」と答えたという。
[編集] 競走馬時代
[編集] 2歳時
キンチェムは2歳時の1876年6月、ベルリンの第一クリテリウムでデビューすると快進撃を開始した。ドイツで6戦全勝した後に地元オーストリア・ハンガリー帝国に戻り4戦してすべて勝った。この年は全て違う競馬場で10戦10勝をあげた。
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着(2着)馬 |
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1876年6月21日 | ベルリン | 第一クリテリウム | 1着 | M.マデン | 芝1000m | 4馬身 | (Boreas) |
7月2日 | ハノーファー | フェアグレイヒス賞 | 1着 | M.マデン | 芝1000m | 1馬身 | (Harmburg) |
7月9日 | ハンブルク | クリテリウム | 1着 | M.マデン | 芝950m | 1 1/2馬身 | (Adelaide) |
7月29日 | ドベラン | エリネルンクスレネン | 1着 | M.マデン | 芝947m | 1 1/2馬身 | (Blucher) |
8月20日 | フランクフルト | ルイーザレネン | 1着 | M.マデン | 芝1000m | 10馬身 | (Regimenstochter) |
8月31日 | バーデンバーデン | ツークンフツレネン | 1着 | M.マデン | 芝1000m | 大差 | (Criterium) |
10月2日 | ソブロン | ボルガルデューユ | 1着 | M.マデン | 芝1200m | 大差 | (Little Luder) |
10月15日 | ブダペスト | ケーテヴェシェックヴェルシェニエ | 1着 | M.マデン | 芝948m | 1/2馬身 | (Csalogany) |
10月22日 | ウィーン | クラッドルーバー賞 | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 10馬身 | (Der Landgraf) |
10月22日 | プラハ | クラッドルーバークリテリウム | 1着 | M.マデン | 芝1400m | 大差 | (Criterium) |
[編集] 3歳時
5ヶ月の休みを挟みポズホニのトライアルステークスで復帰するとハンガリーの2000ギニーであるネムゼティ賞、そして母子制覇となるハザフィ賞(ハンガリー1000ギニー)を続けて勝利し、さらに中央ヨーロッパの強豪馬たちが出走するレースだったジョッケクルブ賞(オーストリアダービー)を大差で圧勝した。この後ドイツに渡り初の古馬とのレースとなったハノーヴァー大賞、そしてバーデン大賞などに勝った。地元に帰ってアラームディーユを2連勝した後、ハンガリーセントレジャーに楽勝した。さらにカンツァディーユ(ハンガリーオークス)も勝った。この年キンチェムはハンガリーのクラシックに相当するレースを4勝したが、このころは国中の有力馬がこぞって出走するというわけでなく、各地でクラシック的なレースがいくつも開催されていた。また、ハンガリーオークスには古馬でも出走でき、キンチェムは4歳・5歳でも勝って3連覇している。この後キンチェムは3連勝し、3歳時は17戦17勝をあげた。
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着(2着)馬 |
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1877年4月27日 | ポズホニ | トライアルS | 1着 | M.マデン | 芝1800m | 1馬身 | (Blucher) |
5月6日 | ブダペスト | ネムゼティ賞(ハンガリー2000ギニー) | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 大差 | (Camillo) |
5月8日 | ブダペスト | ハザフィ賞(ハンガリー1000ギニー) | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 1 1/2馬身 | (Bimbo) |
5月21日 | ウィーン | ジョッケクルブ賞(オーストリアダービー) | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 大差 | (Tallos) |
5月24日 | ウィーン | トライアルS | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 2馬身 | (V Secko Jedno) |
5月27日 | ウィーン | カイザー賞 | 1着 | M.マデン | 芝3200m | 10馬身 | (Hirnok) |
6月24日 | ハノーファー | グローサー賞 | 1着 | M.マデン | 芝3000m | 6馬身 | (Konotoppa) |
7月9日 | ハンブルク | レナードレネン | 1着 | M.マデン | 芝2800m | 4馬身 | (Pirat) |
9月3日 | バーデンバーデン | バーデン大賞 | 1着 | M.マデン | 芝2500m | 3馬身 | (Kotoppa) |
9月8日 | フランクフルト | ヴェルトヒェン賞 | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 10馬身 | (Pfeil) |
9月29日 | ソブロン | アラームディーユ | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 3馬身 | (Prince Gregoire) |
9月30日 | ソブロン | アラームディーユ | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 1馬身 | (Blankensee) |
10月7日 | ブダペスト | ハンガリーセントレジャー | 1着 | M.マデン | 芝2800m | 10馬身 | (Prince Giles the First) |
10月9日 | ブダペスト | カンツァディーユ(ハンガリーオークス) | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 3馬身 | (Konotoppa) |
10月14日 | ウィーン | フロインデナウアー賞 | 1着 | M.マデン | 芝2400m | (単走) | - |
10月21日 | プラハ | カイザー賞 | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 1馬身 | (Prince Giles the First) |
10月23日 | プラハ | カイザー賞 | 1着 | M.マデン | 芝3200m | (単走) | - |
[編集] 4歳時
4歳になってもキンチェムの快進撃は止まらなかった。この年はまず地元で1ヶ月間に9連勝をした。そしてキンチェムはこの後に西ヨーロッパ遠征を敢行する。
最初にキンチェムはイギリスのグッドウッドカップに出走した。イギリスでもキンチェムは有名で、ヨハネス・ブラームスのハンガリー舞曲にちなんで「ハンガリーの奇跡」と呼ばれていた。キンチェムにはダービー馬シルヴィオ(Silvio)やオークス馬プラシダ(Placida)とのマッチレースも企画されそうになったが実現はしなかった。ハンプトンやアスコットゴールドカップを勝ったヴェルヌイユ(Verneuil)を初めイギリスの有力馬たちはハンガリー馬に負けるのを恐れ回避してしまっていたため、わずか3頭でレースが行なわれた。キンチェムの他にはこの後ドンカスターカップを勝つことになるページェント(Pageant)などが出走していた。そしてレースはそのページェントが逃げ、キンチェムは控える展開になったが、最後はキンチェムが2馬身差で勝利する。
次にキンチェムはフランスのドーヴィル大賞に出走した。1番人気こそプールデッセデプーラン(フランスの2000ギニーに当たる)を勝っていた地元フランスのフォンテヌブロー(Fontainebleau)だったものの、結局キンチェムが勝利している。
バーデン大賞では、騎手のマイクル・マデンが極端に後ろからの位置取りをしてしまい、プリンスジルス(Prince Giles)という馬と同着だった。マデンはこの時酒に酔ったまま騎乗したといわれている。この後決勝戦が行われたが、突然馬場に野良犬が出てきて終始キンチェムに絡み、その隙に相手のプリンスジルスがキンチェムを突き放していった。しかしキンチェムは犬を蹴飛ばして追い払うと、プリンスジルスとの差を縮めて追いつくとあっという間に交わして6馬身差で楽勝した。
遠征を終えたキンチェムはさらに地元で3戦してこれらにすべて勝ってこの年を終えた。4歳時は15戦15勝だった。
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着(2着)馬 |
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1878年4月22日 | ウイーン | エレフヌンクスレネン | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 2馬身 | (Wold Rover) |
4月25日 | ウイーン | プラーター公園賞 | 1着 | M.マデン | 芝2000m | 3馬身 | (Orszvar) |
5月4日 | ポズホニ | アラームディーユ | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 5馬身 | (Prince Giles the First) |
5月14日 | ブダペスト | アラームディーユ | 1着 | M.マデン | 芝3200m | 5馬身 | (Prince Giles the First) |
5月16日 | ブダペスト | キシュベル賞 | 1着 | M.マデン | 芝2000m | 3馬身 | (Prince Giles the First) |
5月19日 | ブダペスト | アラームディーユ | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 大差 | (Altona) |
5月26日 | ウィーン | シュタット賞 | 1着 | M.マデン | 芝2800m | 1馬身 | (Erzsi) |
5月28日 | ウィーン | トライアルS | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 大差 | (Prince Giles the First) |
5月30日 | ウィーン | シュタット賞 | 1着 | M.マデン | 芝1600m | 5馬身 | (Rococo) |
8月1日 | グッドウッド | グッドウッドカップ | 1着 | M.マデン | 芝21f | 2馬身 | (Pageaant) |
8月18日 | ドーヴィル | ドーヴィル大賞 | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 1/2馬身 | (Fontainebleu) |
9月3日 | バーデンバーデン | バーデン大賞 | 1着 | M.マデン | 芝3200m | 同着 | Prince Giles |
9月3日 | バーデンバーデン | バーデン大賞(決勝) | 1着 | M.マデン | 芝3200m | 6馬身 | (Prince Giles) |
9月29日 | ソブロン | アラームディーユ | 1着 | M.マデン | 芝3200m | 大差 | (Lorincz) |
10月20日 | ブダペスト | リターディーユ | 1着 | M.マデン | 芝2800m | (単走) | - |
10月22日 | ブダペスト | カンツァディーユ(ハンガリーオークス) | 1着 | M.マデン | 芝2400m | 1/2馬身 | (Altona) |
[編集] 5歳時
5歳時も現役を続けたキンチェムは、この年も12戦で全て完勝した。特に5月8日のアラームディーユでは斤量が76.5kgだったにもかかわらずこれにも勝った。さらにバーデン大賞を3連覇している。この後同厩舎の馬との喧嘩により脚を怪我したため、この年を最後にキンチェムは54戦54勝で引退した。
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着(2着)馬 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1879年4月28日 | ポズホニ | アラームディーユ | 1着 | 不明 | 芝2400m | 8馬身 | (Tallos) |
5月4日 | ブダペスト | カロイー伯爵S | 1着 | 不明 | 芝3600m | (単走) | - |
5月6日 | ブダペスト | アラームディーユ | 1着 | 不明 | 芝3600m | 2馬身 | (Nil Desperandum) |
5月8日 | ブダペスト | アラームディーユ | 1着 | 不明 | 芝2400m | 2馬身 | (Harry Hall) |
5月18日 | ウィーン | シュタット賞 | 1着 | 不明 | 芝2800m | 10馬身 | (Prince Giles the First) |
5月20日 | ウィーン | シュタット賞 | 1着 | 不明 | 芝3200m | 2馬身 | (Bolygo) |
6月17日 | ベルリン | シルバナーシルト | 1着 | 不明 | 芝2400m | 3馬身 | (Altona) |
8月25日 | フランクフルト | エーレン賞 | 1着 | 不明 | 芝2800m | 4馬身 | (Blue Rock) |
9月2日 | バーデンバーデン | バーデン大賞 | 1着 | 不明 | 芝3200m | 3/4馬身 | (Kunstlerin) |
9月29日 | ソブロン | アラームディーユ | 1着 | 不明 | 芝3200m | (単走) | - |
10月19日 | ブダペスト | リターディーユ | 1着 | 不明 | 芝2800m | (単走) | - |
10月21日 | ブダペスト | カンツァディーユ(ハンガリーオークス) | 1着 | 不明 | 芝2400m | 10馬身 | (Ilona) |
全54戦54勝、6度の単走があり、10戦以上は10馬身差以上の大差勝ちを記録している。成績表上は55戦の様に見えるが同着とその決勝戦で1レースなので54戦である。
[編集] 引退後
引退後は繁殖牝馬として5頭の産駒を残した。どの馬も競走馬または繁殖で活躍した。また、キンチェムの子孫は繁栄し、多くの活躍馬を出した。オーストリアやハンガリーのクラシックに何度も勝ち、ドイツ、イタリア、ポーランド、ルーマニアのダービーにも勝っている。1974年にはキンチェムの子孫のポリガミー(Polygamy)が英オークスに勝った。そして現在でも、世界各地にキンチェムの牝系子孫が残っている。
キンチェムは13歳の誕生日に疝痛により死亡した。この日ハンガリーの教会はキンチェムを追悼するために鐘を鳴らし続けたという。キンチェムの骨格はハンガリーの農業博物館に展示されている。そして生誕100周年の1974年にはこの馬を記念してブダペスト競馬場が「キンチェム競馬場」と改名された。ここにキンチェムの銅像も建てられている。
[編集] 繁殖成績
- ブタジェンジェ Budagyöngye (牝、父バッカニア、1882年生)
- 独ダービーに勝利。
- オッヤーンニチ Ollyán-Nics (牝、父バッカニア、1883年生)
- ハンガリーセントレジャーに勝利。
- タルプラマジャル Talpra Magyar (牡、父バッカニア、1885年生)
- 未出走だったが、種牡馬としてトキオ(バーデン大賞、オーストリア・ダービー)を輩出した。
- オーストリアダービー2着になり、独ダービーの有力馬になるが直前に暗殺される。
- キンチ Kincs (牝、父ドンカスター、1887年生)
- 未出走で、産駒にナフェニィ(ハンガリーオークス)がいる。
[編集] 身体・精神面の特徴
キンチェムは子馬のころはひょろっとして見栄えが悪かったが、成長すると良い馬体に成長した。体高は165.1cmあったとされ、当時の大型馬の分類に入る。また、胴が長く典型的なステイヤー体形だった。毛色は暗い栗毛で、腰から後脚の辺りに褐色の斑点を持っていた。走るときは首を下げていて、まるで地面を這うように走っていた。
すらりとした体形だったものの、その体形からは想像できないほどキンチェムは精神的に強くタフな馬だったことがさまざまな事例からわかる。勝利距離は947mから4200mに達し、斤量76.5kgでも勝利した。さらにレース間隔も詰まっていて、2日連続で出走することもあった。4歳時にわずか1ヶ月間で9連勝したこともある。確かにキンチェムの時代の中欧の馬は各地に遠征をするのが当たり前だったが、それに耐えることができるタフさを持っていた。実力もそうであるが精神的な強さを持ち合わせてこその54戦54勝だったのだろう。
[編集] エピソード
- キンチェムの親友は猫だったそうで、いつもこの猫と一緒に転戦した。グッドウッドカップに勝利した後、船から列車に移る際に猫が行方不明になったことがあり、その時は猫が見つかるまで2時間鳴き続けた。しかし猫が見つかると、キンチェムはいつもと同じように列車に乗り込んだ。
- また、厩務員のフランキーとも非常に仲がよかった。フランキーのキンチェムへの愛情を知ってか、フランキーが寒い中で何も掛けずに寝ていると、キンチェムは自分の馬衣をフランキーに掛けた。その夜からフランキーが毛布を掛けていてもキンチェムは馬衣をフランキーに掛けたといわれている。フランキーはその後、フランキー・キンチェムと名乗り、墓標にもその名が刻まれているため本名がわかっていないほどである。また、キンチェムの死後フランキーは一生独身のままでいたといわれている。
- 列車で旅行するのが好きだったようでいつも自ら進んで乗り込み、フランキーがそばにいることを確認した後で寝たそうである。
- 馬主のブラスコヴィッチはキンチェムがレースに勝つと必ずその後にキンチェムの頭絡に花を付けていたが、たまたまあるレースの後にこれが遅くなってしまうと、キンチェムは鞍をなかなか取らせようとしなかったという。
- キンチェムは自分になじんだ水しか飲まなかったため、遠征をするときはタピオセントマルトン牧場から水を持っていった。しかしバーデン大賞に遠征した際に、キンチェムは突然水を飲まなくなってしまい、3日間も飲まないでいたが、ある井戸を見つけると、その井戸に止まって水を飲んだと言われている。それからこの井戸のことが「キンチェムの井戸」と呼ばれるようになった。
- なぜかキンチェムはヒナギクが好きで、スタート地点で探すのが癖になっていた。
- キンチェムの強さは多くの人の関心を集め、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はこの馬のファンだったことで知られている。キンチェムがレースに勝つたびに、馬主のブラスコヴィッチを祝福していたという。
[編集] 血統表
キンチェムの血統 (タッチストン系)/Slane3×4=18.75% Camel4×5=9.38%) | |||
父
Cambuscan 1861 栗毛 |
Newminster 1848 鹿毛 |
Touchstone | Camel |
Banter | |||
Beeswing | Doctor Syntax | ||
Ardrossan Mare | |||
The Arrow 1850 鹿毛 |
Slane | Royal Oak | |
Orville Mare | |||
Southdown | Defence | ||
Feltona | |||
母
Waternymph 1860 栗毛 |
Cotswold 1853 鹿毛 |
Newcourt | Sir Hercules |
Sylph | |||
Aurora | Pantaloon | ||
Lady | |||
The Marmaid 1853 鹿毛 |
Melbourne | Humphrey Clinker | |
Cervantes Mare | |||
Seaweed | Slane | ||
Seakale F-No.4-o |
[編集] 備考
- (*)バッカニア(Buccaneer)…ハイフライヤー系最後の歴史的種牡馬。引退後すぐにハンガリーに輸出されたが、イギリスに残したフォルモサがクラシックを4勝(牝馬三冠+2000ギニー)するなど活躍しハイフライヤー系種牡馬として最後のイギリスリーディングサイアーを獲得した。東欧ではドイツで4回、ハンガリーで15回リーディングサイアーを奪取した。
[編集] 参考文献
- 原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年 ISBN 4879000329
- 山野浩一『伝説の名馬 (Part2)』中央競馬ピーアール・センター、1994年 ISBN 4924426415
- 石川ワタル『世界名馬ファイル』光栄、1997年 ISBN 487719293X
- Kincsem(Thoroughbred Heritage)