秋水
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秋水(しゅうすい)は太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍がドイツ空軍のメッサーシュミットMe163の資料を基に開発を目指したロケット推進戦闘機である。正式名称十九試局地戦闘機秋水 J8M1(大日本帝国海軍)、キ-200(大日本帝国陸軍)。
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[編集] 機名【秋水】の由来
- 日本刀の美称
- 秋の澄み切った水をあらわす言葉
[編集] 開発経緯
[編集] ドイツからの潜水艦による資料輸送
第二次世界大戦中、日本とナチス・ドイツは技術協力協定を結んでいたが、独ソ戦によってシベリア鉄道ルートが、日米開戦により水上船舶ルートが困難になってしまったため、両国の人的交流、物的交流は潜水艦輸送に限定されるようになった(遣独潜水艦作戦)。
日本から技術供与できるものは少なく、タングステンなどの戦略物資への見返りとして、ドイツはジェットエンジン、ロケットエンジン、原子爆弾などの新兵器の技術情報を日本に供与した。
1944年4月、帝国海軍の伊29潜は ロケット戦闘機 Me163B "コメート" と ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262 "シュヴァルベ" の資料を積んでドイツ占領下フランス・ロリアン(Lorient)を出発し、7月14日、日本占領下のシンガポールに到着したものの、出港後バシー海峡で米海軍のガトー級潜水艦 ソーフィッシュ(Sawfish)に撃沈されてしまった。
幸いな事に、伊29潜に便乗した巌谷海軍技術中佐が「本国の技術者のため一刻も早く資料を」とシンガポールから零式輸送機に乗り換えために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。だが、もたらされた資料は本機のコピー元である Me163B の資料は機体の外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、ロケット燃料噴射弁の試験速報、巌谷中佐の実況見分調書のみであった。そのため、本機は Me163B のコピー機であるとよく言われているが、設計そのものは完全なコピーではない。外観はよく似ているものの、機首部は無線装置搭載のために延長されており、内部の桁構造なども異なる。
機体の特徴である無尾翼はすでに東大航空研究所で木村秀政研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は昭和15年より陸軍航空技術研究所で開始されていた。この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によって誘導弾イ号一型甲、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては酸素魚雷に次ぐ魚雷の駆動力として回天二型向けに高濃度過酸化水素と水化ヒドラジンの化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。
このような事実から従来の定説であった巌谷資料の到着により急遽陸海軍がドイツの秘密兵器になんの定見も無く飛びついたという事実は無く、「ドイツ人も考えることは同じだな」というのが当時の研究者の感想だった。「秋水」の開発においては海軍主導で陸軍は消極的だと思われがちだが、過去数年に渡る研究の蓄積がある陸軍は開発に対して海軍よりも冷静でより実現性の高い計画を持っていたというべきであろう。その結果の一つが機体復元よりも重要なエンジンの復元担当が陸軍であったことからも伺る。そして、実際の復元試作には三菱重工しか引き受けられなかったことも自明の理である。
[編集] 異例の陸海軍共同開発
ロケット戦闘機秋水がいよいよ開発されるにあたり、日本軍は陸海軍共同での製作体制を構えた。これは帝国陸海軍にしては異例というより画期的な事であった。官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産ロケットエンジン「特呂二号(KR10)」の開発を陸軍が主導で行う事となった。しかしここに来て三菱は無尾翼機の開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答したらしい。
しかし海軍航空技術廠(空技廠)が翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。
[編集] ロケットエンジンの開発
機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。しかしロケットエンジンという未知のエンジンの開発にレシプロエンジンでつちかった技術はほとんど役に立たなかった。
当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に 2 基が完成しているはずであったが、12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。さらに同年12月には東海地区を東南海地震が襲い、B-29 による爆撃も開始された。このときにエンジン開発を行っていた三菱航空機名古屋発動機研究所が壊滅し、研究員は資料をもって追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。
[編集] 専用燃料の開発
秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は Me163 に搭載されていたヴァルター機関 HKW-109/509A 型のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。燃料は燃料概念図を参考にし、[メタノール 57 % / 水化ヒドラジン 37 % / 水 13 %] の混合液と、濃度 80 % の過酸化水素を酸化剤として化学反応をさせるというシステムである。日本は前者を乙液、後者を甲液と呼んだ(ドイツはC液とT液)。また安定剤兼反応促進剤として乙液に銅シアン化カリウムを、甲液にはオキシキノリンとピロ燐酸ソーダが加えられた。
このロケットの構造はとても複雑で、甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、燃料(乙)と酸化剤(甲)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。
[編集] 飛行試験
[編集] 滑空テスト
1944年12月26日 全木製滑空機のMXY8「秋草」が完成し、海軍三一二航空隊の犬塚大尉によって滑空飛行テストを行った。エンジンが完成するまでの間、滑空機としてのテストは順調に回を重ね、操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。
[編集] 動力飛行テスト
ドイツより Me163B のわずかな設計資料を入手してから約1年の1945年(昭和20年)7月7日、秋水は試飛行を迎えた。陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジン「特呂二号」が間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の全力運転が達成された後の試飛行となった。
神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれた特呂二号は、実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉(海軍機関学校五十二期)と彼の部下である上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。
既に戦局はメーカーによる設計試作、試験飛行の後、実施部隊へ引き渡すという従来の手順を踏むことが出来ないほど逼迫していた。試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は、中野勇上整曹等によって作られた木製の台車に格納庫内で載せられ飛行場に引き出された。ここで台車から降ろし車輪を装着、滑走路出発地点まで押されていった。
午後2時に予定された発進は、エンジンがかからず再整備のため徐々に遅れていった。人体を溶解してしまうほどの劇薬を燃料とする秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならず、整備関係者の手に額に汗がにじむ。かたわらではテストパイロット犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)が冬用飛行服の内側や襟に銀ギツネの毛皮を縫い付けた秋水用飛行服を身にまとい、整備完了をじっと待っていた。関係者によれば高空ならまだしも、初夏の地上でのその暑さは想像を絶したというが、犬塚大尉から整備の遅れを責める声は最後までなかったという。
ようやく整備が完了した午後4時過ぎ、操縦席に乗り込んだ犬塚大尉にロケットエンジン設計責任者持田勇吉設計課長が、それまでの大尉の誠意ある態度に感謝し握手を求めた。犬塚大尉は少し微笑んで持田課長の手を握った。発進直前、濃度80%過酸化水素である燃料甲液の引火誘爆をさけるため秋水の胴体下滑走路に入念に水が撒かれる。ロケットエンジン特呂二号の咆哮が耳をつんざく。機体尾部の噴射口から圧縮波と衝撃波により「虎の尾」と呼ばれる縞模様が現れる。左翼を持つ廣瀬大尉、右翼を持つ中野上整曹にもその衝撃が伝わってくる。
午後4時55分、滑走を開始。翼を持ったまま10メートルほど秋水と一緒に走って廣瀬大尉と中野上整曹は手を離した。滑走距離220メートルで離陸、成功を確認した三一二空山下政雄飛行長が合図の白旗をあげる。高度10メートルで車輪投下、しかし連動しているはずの尾輪が上がらない。直後機体は急上昇に移った。
「試飛行成功か」と思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から黒煙を吐きパンパンパンと異音とともにエンジンが停止した。廣瀬大尉は祈るような気持ちで秋水が東京湾に不時着水するため直進するのを願った。廣瀬大尉の指示により東京湾には、本牧あたりまで救助艇が用意されていたからだ。エンジン停止後余力で150メートルほど上昇した秋水は廣瀬大尉の願いもむなしく右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた。
エンジン再起動が二度試みられるも果たせず、やがて甲液の非常投棄が始まった。しかし、非常投棄はなかなか進まず思いのほか早く高度が失われていった。残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触、そのまま不時着大破した。
残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、危険を顧みず整備分隊士工藤有範中尉は犬塚大尉を操縦席から救出した。意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、手当のかいもなく頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した。
事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇する。しかし燃料の取り出し口はタンクの最前部下面に取り付けてあった。これでは急上昇の際に液面が傾くと燃料を吸い出せなくなる。更に試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため、上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなりエンジンがストールを起こしたと結論付けられた。
秋水の開発は終戦の日まで続けられたが、ふたたび動力飛行を行うことは無かった。生産2号機が陸軍のキ-200として千葉県柏飛行場の飛行第七〇戦隊で初飛行を行うためにロケットエンジンの到着を待っていたが、エンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま終戦を迎えた。
[編集] 量産化および運用計画
秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。秋水量産計画は安来製鋼所を主として東京周辺の飛行場に1945年3月に155 機、1945年9月に1,300 機、1946年3月に3,600 機を実戦配備するという無茶苦茶な計画で、当時の日本の工業力では夢の話だった。仮に量産化が行われ実戦配備されても、航続距離が短い秋水は自機が発進した飛行場上空しか防衛できない上、Me163 がそうであったように滑空中を敵戦闘機に撃墜されたと予想される。
航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が鍵であり、当時の日本にはとても望めるものではなかった。実際に実戦配備が行われたとしても秋水の出番は皆無、もしくは事故続出で戦闘以上の被害を出していたと想像される。
更に燃料というべき甲液、乙液の生産設備はB-29の本土空襲により必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた。例え、新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは火を見るより明らかであった。
[編集] 復元
2001年(平成13年)12月、神奈川県の日本飛行機杉田工場に埋められたのち航空自衛隊岐阜基地で保管されていた機体が、残された1600枚の設計図に基づいて平成9年からの作業で三菱重工業によって復元された。愛知県小牧市の名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場史料室に展示されている。
[編集] 現存する機体
アメリカ軍に持ち帰られた3機のうち1機が、ほぼ完全な形でアメリカ・カリフォルニア州のプレーンズ オブ フェイム(Planes of Fame)航空博物館に所蔵されている。
[編集] データ
秋水
- 用途: 局地戦闘機
- 乗員: 1 名
- 全長: 5.95 m
- 全幅: 9.50 m
- 翼面積: 17.73 m²
- 最大速度: 800 km/h
- 上昇限度: 12,000 m
- 上昇能力: 10,000 m まで約 3 分
- 航続時間: 約 4 分
- 武装: 30mm機関砲×2
- 生産数: 5 機
[編集] 文献
- 藤平右近海軍技術少佐(著)、『機密兵器の全貌;わが軍事科学技術の真相と反省(II)』、ロケットエンジンと局地戦闘機「秋水」の試作より進発、興発社、1952年
[編集] 秋水が登場する作品
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 秋水配備予定部隊関係者による回顧録
カテゴリ: 日本の戦闘機 | 大日本帝国海軍航空機