坂上田村麻呂
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坂上田村麻呂(さかのうえ・の・たむらまろ。天平宝字2年(758年) - 弘仁2年5月23日(811年6月17日))は、平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
父は坂上苅田麻呂で、坂上氏は田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。妻は三善清継の娘高子。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。
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[編集] 事績
田村麻呂は、天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤務した。
田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(791年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい。
延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。
いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこで阿弖利為(阿弖流為)と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。
延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし、延暦23年(804年)に藤原緒嗣が軍事と造作が民の負担になっていると論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった。(徳政相論)田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。
戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列した。大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があってはっきりしない。
平城上皇と嵯峨天皇が対立したとき、田村麻呂は上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし薬子の変では嵯峨天皇についた。子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を邀撃する任を与えられた。このとき田村麻呂は、身柄を拘束されていた文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。
田村麻呂は弘仁2年(811年)5月23日に54才で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。
[編集] 年譜
和暦 | 西暦 | 日付 | 年齢 | 事柄 |
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宝亀11年 | 780年 | 23才 | 近衛将監になった。 | |
延暦4年 | 785年 | 11月25日 | 28才 | 正六位上から従五位下に進んだ。 |
延暦6年 | 787年 | 3月22日 | 30才 | 内匠助を兼ねた。 |
延暦6年 | 787年 | 9月17日 | 30才 | 近衛少将になった。 |
延暦7年 | 788年 | 6月26日 | 31才 | 越後介を兼ねた。 |
延暦9年 | 790年 | 3月10日 | 33才 | 越後守を兼ねた。 |
延暦10年 | 791年 | 1月18日 | 34才 | 軍士と兵器の点検のため東海道に遣わされた。 |
延暦10年 | 791年 | 7月13日 | 34才 | 征東副使になった。 |
延暦11年 | 792年 | 3月14日 | 35才 | 従五位上に進んだ。 |
延暦12年 | 793年 | 2月17日 | 35才 | 征東副使が征夷副使に改称になった。 |
延暦12年 | 793年 | 2月21日 | 36才 | 辞見した。 |
延暦13年 | 794年 | 6月13日 | 37才 | 坂上田村麻呂以下が蝦夷を征した。 |
延暦13年 | 794年 | 10月28日 | 37才 | 大伴弟麻呂が戦勝を報告した。 |
延暦14年 | 795年 | 2月7日 | 38才 | 従四位下に進んだ。 |
延暦14年 | 795年 | 2月19日 | 38才 | 木工頭を兼ねた。 |
延暦15年 | 796年 | 1月25日 | 39才 | 陸奥出羽按察使、陸奥守を兼ねた。 |
延暦15年 | 796年 | 10月27日 | 39才 | 鎮守将軍を兼ねた。 |
延暦16年 | 797年 | 11月5日 | 40才 | 征夷大将軍になった。 |
延暦17年 | 798年 | 閏5月24日 | 41才 | 従四位上に進んだ。 |
延暦17年 | 798年 | 7月2日 | 41才 | 清水寺を建立した。 |
延暦18年 | 799年 | 5月 | 42才 | 近衛権中将になった。 |
延暦19年 | 800年 | 11月6日 | 43才 | 諸国に移配する夷俘を検校した。 |
延暦20年 | 801年 | 2月14日 | 44才 | 節刀を受けた。 |
延暦20年 | 801年 | 9月27日 | 44才 | 蝦夷の討伏を報告した。 |
延暦20年 | 801年 | 10月28日 | 44才 | 帰京して節刀を返した。 |
延暦20年 | 801年 | 11月7日 | 44才 | 従三位に進んだ。 |
延暦20年 | 801年 | 12月 | 44才 | 近衛中将になった。 |
延暦21年 | 802年 | 1月9日 | 45才 | 造陸奥国胆沢城使として遣わされた。 |
延暦21年 | 802年 | 1月20日 | 45才 | 度者一人を賜った。 |
延暦21年 | 802年 | 4月15日 | 45才 | 阿弖利為と母礼等500余人の降伏を容れた。 |
延暦21年 | 802年 | 7月10日 | 45才 | 阿弖利為と母礼を伴い入京した |
延暦22年 | 803年 | 3月6日 | 46才 | 造志波城使として辞見した。 |
延暦22年 | 803年 | 7月15日 | 46才 | 刑部卿になった。 |
延暦23年 | 804年 | 1月28日 | 47才 | 再び征夷大将軍になった。 |
延暦23年 | 804年 | 5月 | 47才 | 造西寺長官を兼ねた。 |
延暦23年 | 804年 | 8月7日 | 47才 | 和泉国と摂津国に行宮地を定めるため三島名継とともに遣わされた。 |
延暦23年 | 804年 | 10月8日 | 47才 | 藺生野の猟に従い、物を献じて綿二百斤を賜った。 |
延暦24年 | 805年 | 6月23日 | 48才 | 参議になった。 |
延暦24年 | 805年 | 10月19日 | 48才 | 清水寺の地を賜った。 |
延暦24年 | 805年 | 11月23日 | 48才 | 坂本親王の加冠に列席し衣を賜った。 |
大同元年 | 806年 | 3月17日 | 49才 | 皇太子が桓武天皇の死を悲しんで起きなかったので、田村麻呂と藤原葛野麻呂が支えて下がった。 |
大同元年 | 806年 | 4月1日 | 49才 | 藤原雄友に従い誄を奉った。 |
大同元年 | 806年 | 4月18日 | 49才 | 中納言になった。 |
大同元年 | 806年 | 4月21日 | 49才 | 中衛大将を兼ねた。 |
大同元年 | 806年 | 10月12日 | 49才 | 陸奥・出羽に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、認められた。 |
大同2年 | 807年 | 4月22日 | 50才 | 右近衛大将になった。 |
大同2年 | 807年 | 8月14日 | 50才 | 侍従を兼ねた。 |
大同2年 | 807年 | 11月16日 | 50才 | 兵部卿を兼ねた。 |
大同4年 | 809年 | 3月30日 | 52才 | 正三位になった。 |
弘仁元年 | 810年 | 9月6日 | 53才 | 平城京の造京使になった。 |
弘仁元年 | 810年 | 9月10日 | 53才 | 大納言になった。 |
弘仁元年 | 810年 | 9月11日 | 53才 | 薬子の変の鎮圧に出撃した。翌日、上皇の東国行きが阻まれ、変は終わった。 |
弘仁元年 | 810年 | 10月5日 | 53才 | 清水寺に印を賜った。 |
弘仁2年 | 811年 | 1月17日 | 54才 | 孫の葛井親王の射芸を喜んだ。 |
弘仁2年 | 811年 | 1月20日 | 54才 | 渤海の使者を朝集院で饗した。 |
弘仁2年 | 811年 | 5月23日 | 54才 | 山城国の粟田の別宅で死んだ。 |
弘仁2年 | 811年 | 5月27日 | 山城国宇治郡栗栖村に葬られた。従二位を贈られた。 | |
弘仁2年 | 811年 | 10月17日 | 墓地として3町を賜った。 |
[編集] 田村麻呂伝説
後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ、しだいに膨らんで歴史上の田村麻呂とかけ離れた人物と筋書きを生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくじおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。
田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。
[編集] 参考文献
- 大塚徳郎『坂上田村麻呂伝説』、宝文堂、1980年。
- 亀田隆之『坂上田村麻呂』、人物往来社、1967年。
- 黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本後紀』、吉川弘文館、1975年。ISBN 4-642-00005-4
- 黒板勝美『新訂増補国史体系[普及版] 日本紀略』(第二)、吉川弘文館、1979年。ISBN 4-642-00062-3
- 高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版)、吉川弘文館、1986年。ISBN 4-642-05045-0
- 新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2