志波城
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志波城跡(しわじょうあと)は、岩手県盛岡市の西の郊外にあり、現在、外郭南門(がいかくなんもん)築地塀(ついじべい)などが復元されつつある国指定の史跡である。(斯波城とも。)
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[編集] 沿革
志波城は、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が胆沢(いさわ)地方において蝦夷(えみし)の首長アテルイを滅ぼした翌年の803年に城柵として北上川・雫石川合流地近くに造営された。これにより、朝廷は北上川北部まで律令制の支配を及ぼすことが可能となった。その後、雫石川氾濫による水害のため、南方(現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田)に徳丹城(とくたんじょう)が造営され、志波城は約10年でその役割を終えた。
[編集] 発掘の経緯
1976年-1977年に東北自動車道建設にともなう発掘調査中に築地塀や大溝、竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)が発見され、その後の範囲確認調査の成果受け、1984年に「志波城跡」として国史跡に指定された。「日本紀略」延暦22年(西暦803年)条初見の志波城の所在地は諸説あり、長らく不明であったが、太田「方八丁」という地名が八町四方の外郭を持つ城郭の姿と一致したため、有力な確定根拠の一つとなった。1991年から外郭南門と築地塀が古代の技術にならって復元され、志波城古代公園として志波城跡愛護協会により管理運営がなされている。
[編集] 志波の地名
旧岩手郡地内の「志波城」が、古代「志波郡」の名を冠すことについては諸説あるが、当時まだ岩手郡が建郡されていなかったため、とする説がある。これによれば、岩手郡は志波郡から分立されたことになる。
志波・斯波・紫波は、古代郡名に由来し同源であると考えられるが、当該城跡を指す場合、現在では「志波」が定着している。斯波は中世の「斯波氏」、紫波は現在の「紫波郡」での使用が一般的。なお、「志和」は現在特に岩手県紫波郡紫波町志和町周辺の通称として用いられ、これは同地区が南部八戸藩の飛び地であったことに由来する。
[編集] 関連項目
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