鎮守府将軍
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鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、日本の奈良時代から平安時代にかけて北辺の防衛のためにおかれた令外官の官職の将軍である。はじめ鎮守将軍(あるいは陸奥鎮守将軍)といい鎮守府将軍とは言わなかった。平安時代に入り鎮守府が移動して陸奥国府と距離ができると「府」の字を入れ「鎮守府将軍」と呼ばれるようになった。武門の栄職として、歴代の清和源氏の大将も叙任した。源頼朝が征夷大将軍となって以降、事実上、無名化した。建武の新政下において鎮守府将軍職が再び置かれることとなり北畠氏などが叙任した。ちなみに三位以上が同職に就くときには征夷大将軍と同格であるとして大の字を加え府の字を去り「鎮守大将軍」と呼ぶ。鎮守大将軍は幕府機構を開設し最低でも参議を兼ね陸奥・出羽・常陸・下野の四ヶ国を直轄支配する。
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[編集] 多賀の鎮守将軍
鎮守将軍の始まりを直接記した史料はないが、知られる限りでは大野東人がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている。司令部ははじめ「鎮所」、後に「鎮守府」と呼ばれた。神亀元年(724年)に多賀(多賀城)に城柵が築かれてからは、その地に置かれたと推定される。多賀にはまた陸奥国府が置かれていた。
鎮守将軍は、陸奥国と出羽国の兵士と他国から来て両国に駐屯する兵士を指揮し、陸奥国と出羽国の軍事を統括する任にあたっていた。「将軍」と名がつくものは、鎮守将軍を除けば臨時の官職だったので、鎮守将軍は平時に唯一人の将軍であった。しばしば管轄地域を同じくする陸奥按察使が兼ねて政軍両権をあわせた。
鎮守将軍が対峙したのは陸奥国と出羽国の北にいた蝦夷であった。大きな軍事行動が必要になると、中央から派遣された様々な臨時の将軍・大将軍が他国からの兵とともに来着し、鎮守将軍を指揮下におさめた。
また、万葉集の編纂者とされている大伴家持が鎮守将軍在任中の延暦4年(785年)にこの地で病死している。
[編集] 胆沢の鎮守府将軍
征夷大将軍の坂上田村麻呂は、延暦21年(802年)に胆沢城を、延暦22年(803年)に志波城を築いた。築城と同時か数年後に鎮守府は胆沢に移転した。正確にいつかは不明である。胆沢の前に志波に置かれた時期があったかもしれない。以後の鎮守将軍(鎮守府将軍)は、陸奥国府から離れて胆沢で勤務することになった。
移転以前の鎮守将軍は国司の上に立って北方の鎮めにつく役職であったが、「征夷」の停滞後は陸奥国の一部を管轄することになり、陸奥国司よりやや格が下がることになった。行政官化した将軍の職権が国司の職権と重複する部分もあり、将軍と国司の激しい対立がしばしば起きた。このため、鎮守府将軍は早期に事実上名誉職化し、鎮守府に居ることも少なく、鎮守府は国府より早く廃絶した。しかし、前九年の役、後三年の役の発生により、現地の指揮官として出羽にも及ぶ軍事指揮権を与えられ復活する。
ちなみに、武門の棟梁となる清和源氏では、初代 経基王以来、源氏の大将の多くが任ぜられ経基王の嫡男満仲や満仲の子にあたる頼光、頼信兄弟、頼信の子 頼義と頼義の子義家に至るまでこの重職に叙せられている。また、新田氏の祖となる新田義重も贈鎮守府将軍として記録されていることから没後、贈官を受けたものと考えられる。
[編集] 名誉職の鎮守府将軍
鎮守府が実質的に機能しなくなってから、鎮守府将軍は優れた武士に与えられる名誉職的なものになった。
[編集] 主な鎮守府将軍(贈官を含む)
- 大野東人
- 坂上苅田麻呂
- 物部足継
- 藤原利仁
- 平高望
- 平国香
- 平良将
- 藤原秀郷
- 平貞盛
- 経基王
- 源満仲
- 源満政
- 源頼信
- 源頼義
- 清原武則
- 清原武貞
- 清原真衡
- 源義家
- 藤原秀衡
- 新田義重(没後、贈官)
- 北畠顕家
- 北畠顕信
- 足利尊氏
- 足利直義
[編集] 参考文献
- 工藤雅樹『蝦夷の古代史』(平凡社新書)、平凡社、2001年。ISBN 4-582-85071-5
- 高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版、人物叢書)、吉川弘文館、1988年。ISBN 4-642-05045-0
- 新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』、吉川弘文館、1994年。ISBN 4-642-07425-2