唐津藩
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唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。
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[編集] 藩史
藩祖は寺沢広高。広高は豊臣秀吉に仕え、1592年の文禄の役では肥前名護屋城の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、1593年に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、長崎奉行に任じられた。慶長の役には朝鮮に渡海して活躍している。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功績を挙げたことから、戦後、天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。しかし広高の死後、その後を継いだ寺沢堅高のとき、島原の乱が起こってその乱が天草にも飛び火し(堅高は松倉勝家ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていたのである)、戦後、それを幕府から咎められて領地を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺する。堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となった。
その後、播磨国明石藩より大久保忠隣の孫・大久保忠職が8万3000石で入るが、その後を継いだ大久保忠朝は、1674年に庄屋が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は幕末まで続けられた。忠朝は下総国佐倉藩へ移封となった。
入れ替わりで松平乗久が7万石で入り、孫の松平乗邑のとき、志摩国鳥羽藩へ移封。入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。ちなみに忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。
代わって陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入り、以後、小笠原氏の支配で明治時代を迎えることになる。ちなみに唐津藩最後の藩主・小笠原長行は幕末期に老中・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも1868年の戊辰戦争では旧幕府軍に与して函館まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。しかしこのため、長行を藩主として数えず、その養父である小笠原長国をもって最後の藩主とする史料も多い。
唐津藩は表向きの石高は6万石から12万石であったが、実際の石高は20万石前後だったと言われている。また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配が無かった土地柄であった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 寺沢(てらざわ)家
外様 8万3000石→12万3000石 (1593年~1647年)
[編集] 大久保(おおくぼ)家
譜代 8万3000石 (1649年~1678年)
[編集] 松平(まつだいら)〔大給(おぎゅう)〕家
譜代 7万石→6万石 (1678年~1691年)
[編集] 土井(どい)家
譜代 7万石 (1691年~1762年)
- 利益(とします)〔従五位下、周防守〕土井利隆の次男。
- 利実(としざね)〔従五位下、大炊頭〕利益の長男。
- 利延(としのぶ)〔従五位下、大炊頭〕土井利清の長男。
- 利里(としさと)〔従四位下、大炊頭・侍従〕利延の弟(利清の次男)。
[編集] 水野(みずの)家
譜代 6万石 (1762年~1817年)
- 忠任(ただとう)〔従五位下、和泉守〕水野守満の次男。
- 忠鼎(ただかね)〔従五位下、左近将監〕安芸国広島藩主・浅野宗恒の次男。
- 忠光(ただあき)〔従五位下、和泉守〕忠鼎の長男。
- 忠邦(ただくに)〔従四位下、越前守・侍従 老中〕忠光の次男。
[編集] 小笠原(おがさわら)家
譜代 6万石 (1817年~1871年)
- 長昌(ながまさ)〔従五位下、主殿頭〕小笠原長堯の次男。
- 長泰(ながやす)〔従五位下、壱岐守〕出羽国庄内藩主・酒井忠徳の子。
- 長会(ながお)〔従五位下、能登守〕小笠原長保の次男。
- 長和(ながかず)〔従五位下、佐渡守〕大和国郡山藩主・柳沢保泰の九男。
- 長国(ながくに)〔従五位下、中務大輔〕信濃国松本藩主・松平光庸の次男。
- (長行(ながみち)〔従五位下、図書頭 老中格〕号は明山。初代藩主・長昌の子で第4代藩主・長国の養嗣子。藩主にはなっていない。)