大久保忠隣
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文22年(1553年) | |||
死没 | 寛永5年6月27日(1628年7月28日) | |||
別名 | 千丸(幼名)、新十郎(通称)、 渓庵道白(号) |
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戒名 | 凉地院霊庭道白 | |||
墓所 | 神奈川県小田原市の大久寺 京都府京都市上京区の本禅寺 |
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官位 | 従五位下、治部大輔、相模守 | |||
幕府 | 江戸幕府老中 | |||
藩 | 相模国小田原藩主 | |||
氏族 | 大久保氏 | |||
父母 | 父:大久保忠世、母:近藤幸正の娘 | |||
兄弟 | 忠隣、忠基、忠成、忠高、忠永 | |||
妻 | 石川家成の娘 | |||
子 | 忠常、石川忠総、教隆、幸信、 石川成堯、忠尚、忠村、娘(依田康真室) |
大久保忠隣(おおくぼただちか、天文22年(1553年) - 寛永5年6月27日(1628年7月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の譜代大名である。相模国小田原藩主。
講談で有名な旗本の大久保彦左衛門の甥にあたる。
三河国額田郡(愛知県岡崎市)で産まれる。11歳の時から徳川家康に仕え、三河一向一揆などで戦う。尾張国の織田信長・豊臣秀吉に従った家康の家臣として姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・小牧・長久手の戦い、小田原合戦などに参戦。1593年(文禄2)には家康の子の徳川秀忠付の家老となり、翌94年に父・忠世が亡くなり、遺領相模小田原6万5000石を継ぐ。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中信州上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する。
1601年、高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞。1610年には老中に就任し、2代将軍秀忠政権の実力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の中、家康重臣である本多正信・本多正純父子と対立する。1612年(慶長17)の岡本大八事件、1614年の大久保長安事件と浪人の馬場八左衛門の証言により改易され、近江国に配流され井伊直孝に預けられる。この時、近江国栗太郡中村郷に5000石の知行地を与えられている。その後、出家して渓庵道白と号し、1628年に死去、享年75。井伊直孝が、大久保忠隣の冤罪を将軍秀忠に嘆願しようと図ったところ、忠隣は不忠になるとして、これを断ったとされる。彼の死後、大久保家は、孫の大久保忠職を以て、家名再興が許され、小田原侯に復帰を果たした。
関ヶ原の戦いの後に、家康が重臣を集めて後継者に関する相談をしたときに、秀忠の兄の結城秀康や松平忠吉の名前が挙がるなか、忠隣が秀忠を推薦したエピソードも知られる(『台徳院殿御実記』)