小笠原長泰
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小笠原 長泰(おがさわら ながやす、文化3年(1806年) - 文久元年12月14日(1862年1月13日))は、肥前国唐津藩の第2代藩主。父は出羽国庄内藩主・酒井忠徳。酒井忠器の弟に当たる。官位は従五位下。佐渡守。壱岐守。
幼名は鎌之助。1823年に先代藩主の小笠原長昌が死去した後、実子の小笠原長行が幼少だったことから、養嗣子の長泰が後を継ぐこととなった。しかし長泰は生来から病弱な上、33万両の借金を返済するために領民に重い人頭税を課すなどの悪政を布いた。専売制も行なって藩財政再建を目指したが、1828年には領内が大風害を受けたために効果がなかった。
嗣子が無かったため、養嗣子の小笠原長会に1833年9月20日に家督を譲って隠居し、1861年12月14日に56歳で死去した。