呉昌征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呉 昌征(ご しょうせい 1916年6月28日-1987年6月7日)は台湾台南市出身。昭和初期から中期(1930年代後半-1950年代)のプロ野球選手(外野手)。
目次 |
[編集] 来歴・人物
入団から1942年までは本名の「呉 波(ご は)」。帰化し「石井 昌征(いしい まさゆき)」に改名、登録名は呉昌征とした。嘉義農林学校時代には甲子園に春に1回、夏に4回出場し、裸足のプレーで知られた。1937年に東京巨人軍に入団し俊足・強肩の外野手として活躍、人間機関車と呼ばれた。1942年~1943年に2年連続首位打者。当時は品質の粗悪な飛ばないボールを使っていたため、首位打者ではあるものの打率はそれぞれ.286、.300と低かった(1942年の打率.286での首位打者は史上最低記録)。
1944年に阪神に金銭トレード移籍。1946年は投手が少ないチーム事情から、「外野から正確なバックホームができるのだから、投手もできるだろう」との理由で投手としても登板。同年6月16日に異例の投手兼任でノーヒットノーランを達成。しかもこの年チームトップの14勝(6敗)、リーグ9位の防御率3.02を挙げた上に打率の方でも.291(リーグ14位)を記録して文字通り投打で大活躍した。1949年末の2リーグ分裂騒動でパ・リーグの毎日オリオンズへ移籍。1957年に現役引退した。1987年6月7日死去。享年70。1995年、野球殿堂入り。
[編集] 所属球団
[編集] 獲得タイトル・記録
- 最優秀選手(MVP):1回、1943年
- 首位打者:2回、1942年(.286)、1943年(.300)
- 最多安打:1回、1943年(89安打)
- 盗塁王:1回、1944年(19個)
- ノーヒットノーラン:1回、1946年6月16日
[編集] 関連項目
- 藤本定義
- 水原茂
- 三原脩
- 中島治康
- 沢村栄治
- ヴィクトル・スタルヒン
- 川上哲治
- 吉原正喜
- 千葉茂
- 青田昇
- 若林忠志
- 藤井勇
- 門前眞佐人
- 藤村富美男
- 本堂保次
- 土井垣武
- 藤村隆男
- 金田正泰
- 梶岡忠義
- 別当薫
- 後藤次男
- 湯浅禎夫
- 荒巻淳
- 西本幸雄
- 山根俊英
- 長谷川善三
- 山内一弘
- 荒川博
- 小森光生
- 植村義信
- 榎本喜八
- 葛城隆雄
- 須藤豊
- 小野正一
- 若生智男
- 醍醐猛夫
- 矢頭高雄
カテゴリ: 台湾の野球選手 | 読売ジャイアンツの選手 | 阪神タイガース及びその前身球団の選手 | 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 | 野球殿堂 | 帰化日本人の野球選手 | 1916年生 | 1987年没