パーヴェル・スコロパーツキイ
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パーヴェル・ペトローヴィチ・スコロパーツキイ(ロシア語:Павел Петрович Скоропадскийパーヴィェル・ピトローヴィチュ・スカラパーツキイ;パヴロー・ペトローヴィチ・スコロパーツィクィイ;ウクライナ語:Павло Петрович Скоропадськийパヴロー・ペトローヴィチュ・スコロパーツィキイ、1873年5月3日 - 1945年4月26日)は、帝政ロシアの軍人、政治家。ロシア革命後の内戦期、ドイツ帝国軍によってウクライナの元首に据えられ、キエフに親ドイツ傀儡政権を樹立した。
[編集] 概要
ロシア革命後、旧ロシア帝国領内には各勢力による「独立政権」が数多誕生した。ウクライナの中部においては、ウクライナ中央ラーダを中枢機関としたウクライナ国民共和国が1917年以降政権を握っていた。しかしながら、中央ラーダは1918年4月にドイツ軍によって解散、ドイツ軍はウクライナ最大の地主(帝政ロシアでは貴族は地主であった)であったスコロパーツキイを元首に選出した。彼は国号をウクライナ国(Українська Держава)と改め、自ら「全ウクライナのゲトマン」を名乗った。この政府をゲトマン政府と言い、その体制をヘチマナート(Гетьманат)と呼ぶ。また、ゲトマン政府による支配時期をヘーチマーンシュチナ(Гетьманщина)と呼ぶ。
キエフの住民のうち革命を嫌う者や革命によってモスクワやペトログラードを追われキエフに集まってきた資産家や軍人、反革命のコザーキなどからは「強力なドイツ軍」というイメージのもとにスコロパーツィキイへの期待は低くはなかったが、反面、当時のキエフの町は彼への批判は表明できない状況でもあった。また、彼の政府は中央ラーダ時代にボリシェヴィキー(赤軍)によって郊外へ追放されていた地主階級や資産家を優遇する政策をとったため彼らからの支持は集められたが、人口の大多数を占める農民からは激しく嫌悪されることとなった。また、反抗した村に対する旧政ロシア軍の残虐、ゲトマン軍コサック兵の横暴、そしてドイツ軍人の嘲弄に激しい憎悪を抱いていた農民らは、ある者はボリシェヴィキー、そして多くはウクライナ民族主義者で社会主義者のシモン・ペトリューラの軍隊を支持することとなり、ゲトマン政府はただドイツ軍の支援でのみ存続し得る基盤の脆弱なものとなった。その上、ゲトマン政府当局は収監していたペトリューラを9月に釈放するという致命的な失敗を犯した。当時のウクライナ人口の大多数を占めていたウクライナ人のほとんどが農民であったため、ウクライナ民族主義への直結となりかねない農民の不支持は政権の維持にとって致命的な失策となった。ゲトマン政府のとった保守政策によりウクライナ農民の蜂起が各地で頻発するようになった。
結局スコロパーツキイのウクライナ国は長続きせず、同年12月にドイツ本国の降伏により頼みのドイツ軍が撤退すると、ゲトマン政府の人間、そして赤軍や民族主義者に反抗していたロシア人やロシア人としてのアイデンティティーを強く抱くウクライナ人は、自らの敗北を悟った。軍事的・政治的後ろ盾を失ったゲトマン政府は、まず東からやってきた赤軍に破れ、スコロパーツキイはキエフの町を放棄して列車でドイツへ亡命した。にも拘らず、その後もキエフでは「強力なドイツ軍」が再び町を救出に来るとの期待感を抱く人々も少なからずおり、錯綜する情報は人々を混乱させた。中には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のもとにロシア皇帝ニコライ2世がいてドイツ軍の支援の下にウクライナに真のロシア国家を築くのだという情報もあったと伝えられる(一方で、当時すでにニコライがその家族とともに殺されていたことも知られていたし、そもそもヴィルヘルム2世は当時既に廃位されていた)。なお、こうした情報の混乱は軍隊の上官から部下へ知らされる場合もあったようであるが、スコロパーツキイが彼の軍隊を戦線に就かせたまま逃亡したことと合わせて考えるに、彼の逃亡を助けるための方策であったとも考えられる。
一旦は赤軍によって占拠されたキエフであったが、いわば素人集団であった赤軍は恒久的な支配体制を構築することができず、放逐された中央ラーダの一員でウクライナ独立を目論む民族主義者ペトリューラ率いるドィレクトーリヤ勢力によってすぐに撃退された。ペトリューラはウクライナ国民共和国を再建したが、各勢力との戦いや伝染病の発生、連合したポーランドの裏切りなどにより1919年にはウクライナ民族共和国勢力は壊滅した。最終的には赤軍の勝利により内戦は幕を閉じることになったが、その間に支配者が目まぐるしく変わったキエフの町は数年のあいだつねに戦火に晒されることとなった。この間の状況は、キエフの生まれで自身スコロパーツキイの傀儡政権軍、ペトリューラ軍、デニーキン軍などに軍医として徴用された作家のミハイル・ブルガーコフの長編小説「白衛軍」や戯曲「トゥルビン家の日々」に描かれている。
なお、パーヴェル・スコロパーツキイの先祖は、ロシア帝国に対し反旗を翻したヘーチマーン、イヴァーン・マゼーパの次に左岸ウクライナのヘーチマーンに任ぜられたイヴァーン・スコロパーツィクィイの弟であった。
現在、キエフの中心近くには「パーヴェル・スコロパーツキイ通り」という名の短い通りがある。これは、キエフの中心街である「フレシュチャートィク通り」と、南方への大通りである「レースャ・ウクライィーンカ通り」につながる「バセーイン通り」とを結んでいる。