アントーン・デニーキン
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アントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキン (アントーン・イヴァーノヴィチ・ヂェニーキン;ロシア語:Антон Иванович Деникин アントーン・イヴァーナヴィチュ・ヂニーキン) (1872年12月16日 ワルシャワ - 1947年8月8日)は、帝政ロシアの軍人。アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャークやグリゴーリイ・ミハーイロヴィチ・セミョーノフらと共に、国内戦期における白軍の指揮官の一人である。
ロシア革命に際し、ドン地方で義勇軍(白軍、白衛軍と呼ばれる)を組織し赤軍に対抗。連合国の支援によりボリシェヴィキー勢力の首府モスクワをも窺う勢いであった。1919年8月31日から10月までの期間、シモン・ペトリューラのディレクトーリヤにかわってウクライナの首府キエフを支配し、10月に赤軍に奪回されたあともすぐに取り戻し、同年12月16日に再び赤軍に奪われるまで支配を続けた。しかしながら、典型的な帝政ロシア軍人であったデニーキンはウクライナやポーランドの独自性を完全に否定し、それらの勢力との連合を拒んだため、結局は赤軍により各勢力は個別撃破された。デニーキン軍はピョートル・ヴラーンギェリ将軍の南ロシア軍に引き継がれたが、それも1920年に敗戦、デニーキンは亡命先のパリで死去した。