ダブルスピーク
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ダブルスピーク(二重語法、Doublespeak)は、言葉本来の意味をいつわったり歪めたりする修辞技法。一つの言葉で矛盾した二つの意味を同時に言い表す表現方法であり、しばしばコミュニケーションや相互理解の断絶に陥る結果につながる。政府、軍、企業、政治団体などに関連付けられることが多く、その政策や話法などを批判的に言及する際に「ダブルスピーク」という言葉が使われる。
ダブルスピークは婉曲話法の形態をとることがあるほか(例:事業縮小・ダウンサイジングは、もっぱら大規模解雇を置き換える意味で使用される)、わざと意味のあいまいな用語を用いることもある。(例:KGBなどによる用語「ウェット・ワーク」は、暗殺を意味する)ダブルスピークは政府や軍などにより故意に使用されるという点で、他の婉曲話法とは区別して使われている。
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[編集] 語源
ダブルスピークという用語は1950年代に英語の中に登場した。しばしば、全体主義のディストピアを描いたジョージ・オーウェルによる小説『1984年』(1949年)が由来であると誤って紹介されることがあるが、この小説の中には「ダブルスピーク」という用語は一切出てこない。しかし、『1984年』の中には「ニュースピーク(新語法)」「オールドスピーク」「ダックスピーク」「ダブルシンク(二重思考)」といった用語が登場しており、これらの用語の語感(『1984年』以前にはなかった「~スピーク」という造語が、発刊後に流行した)およびオーウェルによるこれらの作中用語の定義から、だれかがダブルスピークという用語を考案したものと思われる。
ダブルスピークは、作中の国家が国民の認識を支配するために整備した、という設定でオーウェルが作成した架空の簡略英語「ニュースピーク」の、「B群語彙」(政治目的に造られた語彙、または政治目的に造られたわけではなくても、使用者の心理や態度を望ましい方向に誘導するような語彙)の定義に影響を受けている。『1984年』における党のスローガン「戦争は平和である」や、「平和省(軍事をつかさどり、永久に戦争を続けるための政府機関)」「真理省(国民に対するプロパガンダを行い、歴史や記録を改竄する政府機関)」などの省庁名はその典型であり、不愉快な事実をおおいかくすためのニュースピークが「ダブルスピーク」の概念のもととなった。
[編集] ダブルスピークの用例
実際の政府や企業などの官僚組織も、不愉快な事実を伝えるためにしばしば婉曲的な言い回し・事実とは逆の用語の使用・あいまいな言葉の使用などを行っており、これらは事実を隠し国民の認識を操作するためのダブルスピークであるともみなすことができる。また、マスコミが人を傷つけないように使い出し、官僚組織も後から使い始めるような政治的に正しい言い換え語も、語彙使用者の認識を操作するダブルスピークの一例といえる。
[編集] 政府
政府機関や官僚によるダブルスピークは、ネガティブな事象を表現したりネガティブな側面のある政策を実施する際に特に多い。人々の反発を回避するために、負担増を招く政策や法律は負担増を意識させない名前がつけられる。戦争を行う場合も多くのダブルスピークが使われる。また、特にジョージ・W・ブッシュ政権はダブルスピークによって国民を操作すると反対勢力から非常に非難を浴びている。アメリカのアフガニスタン侵攻作戦には「無限の正義」「不朽の自由」という名がつけられて戦争目的の崇高化が図られ、テロに対して国民に対する強大な捜査権限を認めさせた法案を「愛国者法」と呼び、アメリカによる中東や南米でのさまざまな軍事作戦や出費や犠牲は、「テロとの戦い」「麻薬との戦い」などの名で国民や世界に是認されようと意図されている。
ダブルスピークは第二次世界大戦前、ナチス・ドイツやソビエト連邦などでも広く使われていた。ヨーゼフ・ゲッベルスやドイツ宣伝省は数多くの新語や婉曲語を世に送り出した。「Heim ins Reich」(ドイツ国への呼び戻し)はオーストリア併合のことであった。「ユダヤ人問題の最終解決策」はホロコーストに至ることとなった。またプロパガンダを通じ、Volk(人民、大衆)やRasse(民族)といった言葉に新たな意味を付与していった。日本においても、「大東亜共栄圏」といった麗しい字面の言葉は拡張主義的で侵略的な政治目的を含んでおり、第二次大戦末期にはたとえば撤退を「転進」と言い換えて、前線の縮小という事実に対する国民の印象をポジティブなものに変えようとする努力がなされた。戦後も敗戦が「終戦」と言い換えられている。
冷戦下の各国では、反共団体が「自由」という用語を多用し、逆に共産主義勢力は「平和」という用語を多用した。
[編集] 軍事
軍事用語はダブルスピークの宝庫である。アメリカの場合の「国防総省」という名称自体が、陸軍省や海軍省などを統合した際にできた婉曲的な名称であった。また、攻撃や殺傷にともなうネガティブなイメージを刷新するため、たとえばアメリカ軍は非常に多くの言い換え語を造語してきた。「敵を無力化する」という言葉は、敵の戦闘能力を奪うことであり必ずしも殺害を伴うわけではないが、多くの場合は敵を殺害する意味である。「コラテラル・ダメージ(副次的被害)」は、戦争やテロで発生する巻き添え被害の意味である。「フレンドリー・ファイアー」は、自軍による誤射を意味する。「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」も、ベトナム戦争時に戦争神経症(シェルショック)について発表する際に広く使われるようになった。
[編集] 企業
企業もダブルスピークを活用して社員の士気や対外イメージを損ねまいとする。アメリカ企業などでは「レイオフ」「ダウンサイジング(事業のスリム化)」「リストラクチャリング(事業再構築)」「ヘッドカウント・アジャストメント(人員数の適正化)」といった語彙のもとに社員の解雇や事業からの撤退を行ってきた。1990年代に人気を博した新聞コミック『ディルバート』は、ROEの最大化など数字目標達成の圧力にさらされたアメリカ企業で、上司の思いつき同然の事業再構築に振り回される社員を突き放して描き、企業の官僚組織化を皮肉ったが、ビジネス用語や会計用語を乱用したダブルスピーク同然の新政策や理解不能な社内新用語がしばしばねたにされた。製品のクレームに対しても、しばしば「仕様」などの用語が欠陥や設計ミスを認めない意味で使用される。
[編集] マスコミ
差別に使われる語彙に関して、日本でも諸外国同様1960年代~1970年代に人権団体など多くの団体により抗議が相次いだ。これに対しポリティカル・コレクトネスに配慮した用語がアメリカなどで広く使用されることがあった。また、日本ではこれに対し、マスコミの側で市民団体の抗議などを想定して事前に表現の自主規制を行い多くの言葉の使用を自主規制している。こうした規制や言い換え、婉曲話法は差別される側が望まない場合もあるが、マスコミの一律規制や事なかれ主義の官僚的な態度、そういった言い換え語を同様に政府も使用すること、言い換え語を通じて人々の認識を操作しようとすることなどはダブルスピークといえる部分もある。