コーヒーの歴史
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コーヒーの歴史
コーヒーの起源については二つの説が伝承として伝えられている。
- エチオピアのカルディという名前のヤギ飼いの少年が、山中でコーヒーを食べたヤギが興奮状態になることに気づいたことから発見したという説。
- オマルという名前のイスラム神秘主義の修道者(デルウィーシュ)が、追放されて迷い込んだ山中で鳥に導かれて見つけたという説。
ただしこれらは後世に考えられたという説もあり、その実際の起源は明らかではない。しかしながら、紀元前には既にエチオピアではコーヒーの実を潰して丸めて携帯食としていたとも伝えられている。これらはいずれも実を食用とするものであった。
初期には、このような食用の他に生の実や豆の煮汁として飲まれていたと伝えられている。いつ頃から今日のように焙煎した豆を用いるようになったかは不明であるが、焙煎器具が発掘された年代から、遅くとも13世紀には焙煎が行われていたと考えられている。
[編集] 飲用史
コーヒーは、6世紀から8世紀頃にエチオピアからアラビア半島のアラブ人に伝わり、彼らを通して中東・イスラム世界の全域に広まった。
初めてコーヒーが文献に現れるのは9世紀になってからである。イランの哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィーが、自身が見聞きした民間療法や医学知識を記した「医学集成」に、コーヒー豆を指す「ブン」とその煮汁「バンカム」について記載している。
15世紀頃、イエメンのイスラム神秘主義教団の間で夜間の修行を助ける覚醒飲料として、コーヒーは広く飲用されるようになり、16世紀までに修行のためのコーヒー飲用の習慣がエジプトまで広まった。しかし、クルアーン(コーラン)の時代(7世紀)にはコーヒーについて十分な知見がなかったのでコーヒーの摂取の是非に関するイスラム法上の規定がなく、同じ頃コーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。多くの法学者は、その飲用はイスラム教の立場からはビドア(逸脱)であるとみなし、クルアーンで禁じられたアルコールの飲用に似た効果のあるコーヒーの飲用は、悪しきビドアとして排斥されたのである。その背景には、コーヒーを供する場所が庶民や知識人が集まる社交場となりはじめたため、それが為政者や社会に対する不平不満を語り合う場に転ずることを警戒する動機があったと言われる。現実的には完全な禁止は難しく、それほど大きな弊害もなかったので、1454年にアデンのムフティー(法学者)、ジャマールッディーンがイスラム法学上の見解で合法と判断して以来、数十年にわたる論争を経つつ、やがて飲用しても構わないという見解が主流となってコーヒーは中東圏に広まっていった。
1516年にセリム1世がマムルーク朝を征服、イスラム世界の北方の辺境であったオスマン帝国がアラブ地域を併合するとトルコ地域にも伝播し、オスマン帝国の首都イスタンブルにまでコーヒーは持ち込まれるようになった。コーヒーはトルコ語ではアラビア語のカフワがなまってカフヴェと呼ばれた。
オスマン帝国の年代記は、翌17世紀の初頭にイスタンブルにやってきたアラブ人によって世界で初めてのコーヒー飲料を供する固定店舗が開かれたことを伝えている。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。オスマン帝国では19世紀に安価なインド産の茶が持ち込まれた結果、社交の場の主要な飲料の座を紅茶に譲るが、一般にトルココーヒーと呼ばれるその飲用法は家庭や喫茶店で広く行われつづけている。トルコにおけるコーヒー飲用の風習はオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島に16世紀中には広まった。このため現在でもギリシャなどでコーヒーの伝統的飲用法はトルコと同じである。
ヨーロッパには、地中海を渡る盛んな人の往来に乗って16世紀末には既にオスマン帝国から伝わっていった。1602年には、ローマに持ち込まれている。このときすでにcoffeeと呼ばれていたという。
ヨーロッパではコーヒーは初め健康に悪い等といわれたが、その飲用は次第に広まっていった。ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェなどにコーヒーを供する「カフェ」ないし「コーヒー・ハウス」ができ、上流階級から中流階級へと広まった。オーストリアでコーヒーが知られるのは、1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲失敗の際に、コシルツキーがオスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れたことに始まると言われる。この頃からコーヒーの飲用はフランスやドイツなどにも伝わり、17世紀末には各地で飲み物として定着するにいたった。
1650年には、イギリスのオックスフォードに最初のコーヒー・ハウスがオープンしている。イギリスではコーヒーがブームとなり、1700年頃には、2000軒から8000軒のコーヒー・ハウスがあったと伝えられている。コーヒー・ハウスは、上流階級の溜まり場となり、イギリス王立科学院もここから発祥したという。またコーヒー・ハウスは、女人禁制だったため、女性を中心に反対運動が発生したこともあった。後にイギリスでは茶の飲用が広まり、コーヒー・ハウスは衰退していく。
プロイセン王国では1777年にフリードリヒ2世 (プロイセン王)がコーヒー禁止令を出している。これはコーヒーの効能の是非ということではなく、海外貿易に収支や国内産業の育成などが背景にあり、同時にビール推奨令が出されている。さらに1781年からはコーヒーの焙煎は許可制となり貴族や司祭などが独占することとなった。
北米には、1668年に持ち込まれた。1698年にニューヨークでコーヒー・ハウスがオープンしている。アメリカ東海岸でもイギリスと同様に紅茶の飲用が主流となるが、イギリスが茶に重税を課したため、イギリスに反発(ボストン茶会事件)。代用としてコーヒーの輸入が急増。これが、アメリカのコーヒー飲用が主流となるきっかけとも言われている。
日本には、天明年間(1781年 - 1788年)頃に、長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。1804年に大田南畝(大田蜀山人・しょくさんじん)によって記された『瓊浦又綴』(けいほゆうてつ)には、「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ 豆を黒く炒りて粉にし 白糖を和したるものなり 焦げくさくして味ふるに堪ず」との記載がある。本格的に輸入されるようになったのは、江戸時代末期の開国を待たねばならなかった。開国後は、横浜の西洋人商館で少量が輸入されるようになった。
日本で最初のコーヒー店は、1888年4月に上野に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だと言われる。但し、軽食やアルコール類を提供する近代的なコーヒー店が日本で広がるには、1911年に銀座に開かれたカフェ・プランタンを待たなければならない。
[編集] 栽培史
コーヒーは、エチオピアのアビシニア高原が原産である。イエメンに持ち込まれたのは、1470年頃と考えられている。17世紀頃までは自生していたものを摘んでいただけで、農業手法とは無縁だったようだ。
17世紀に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダの東インド会社がこぞって、イエメンからの輸入取引を始める。コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」が最初のコーヒーブランドにもなった。
1658年、オランダがセイロンへコーヒーの苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。
さらに1700年には、ジャワで大量生産に成功する。オランダ東インド会社は、セイロン・ジャワで生産したコーヒーを一旦、イエメンに持ち込む。ここで当時の大ブランドのモカの価格を調査して、それより安い値段でヨーロッパに持ち込む。この低価格戦略が功をそうし、オランダはコーヒー取引を独占するに至る。ただし、セイロンのコーヒーはその後サビ病が蔓延して全滅。その後は茶葉の生産拠点となり現在にいたる。またイギリス東インド会社は、コーヒーから中国茶の取引に重点を移した。
南米には、1723年、フランスの海兵隊士官のド・クリュー(De Clieu)がフランス領西インド諸島に苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。これが、南米にコーヒー栽培が広まるきっかけとなった。
ブラジルでは1725年頃からコーヒー栽培が始まり、18世紀末にはプランテーションによる本格的な商業生産を行われた。独立後のブラジルはコーヒー生産で発展したといってよい。1850年代にはコーヒーの世界生産に占めるブラジル産の割合は50%を越えていた。2004年現在もブラジルは世界最大のコーヒー生産量を維持している。
1825年には南米からハワイへ持ち込まれ、東アフリカには1900年頃、イギリス・ドイツの手で持ち込まれ栽培が始まった。日本では、昭和初期から太平洋戦争後に台湾、沖縄、小笠原で栽培の可能性が試された。しかし、いずれも大量生産には成功していない。
[編集] 関連項目・文献
- コーヒー
- カフェ
- 臼井隆一郎 『コーヒーが廻り世界史が廻る ― 近代市民社会の黒い血液 (中公新書)』 (中央公論社、1992/10) ISBN 4121010957
- マーク ペンダーグラスト (樋口幸子 訳) 『コーヒーの歴史』 (河出書房新社、2002/12) ISBN 4309223966
- 日本酒の歴史