クロヴィス1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロヴィス1世(Clovis Premier, 生没年466年 - 511年, 在位481年 - 511年)はメロヴィング朝フランク王国の初代国王。Clovis は Chlodowech, Chlodwig とも表記し、現代フランス語のルイ(Louis)、現代ドイツ語のルートヴィヒ(Ludwig)に当たる。クロヴィス2世や3世もいるが、クロヴィス1世の存在が偉大であるため、たんにクロヴィスといえば、クロヴィス1世を指す。
ゲルマン系のフランク族サリ部族の王シルデリク1世を父としてトゥルネー(現ベルギー領)で生まれた。当時のフランク族は現代のフランス・ベルギー国境付近のトゥルネー、カンブレーを中心とするライン川低地西部を占めていたに過ぎなかった。
481年に即位したクロヴィスはライン川北岸のフランク人を統一、486年にはガリア北部を支配していたローマ系軍閥シアグリアスをソワソンの戦いで破り、支配地域を一挙にロワール川北部に拡大した。さらにクロヴィスは妹のオードフレダを東ゴート王国のテオドリック大王に嫁がせて同盟を固め、493年にはブルグンド王国の王女クロティルダとソワソンで結婚した。
496年アラマン人との戦いの後、王妃クロティルダの薦めでカトリックに改宗した。 ローマ人との接触の長いフランクの王であったクロヴィスはローマの異教を信仰していたものだが、この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。西ゴート族やヴァンダル族はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派はアリウス派であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったから、クロヴィスのカトリック改宗は支配下のローマ系市民との絆を強化するものであった。
500年にはディジョンでブルグンド王国と戦い、507年にはアルモリカ人の支援を得てトゥールーズ近郊ヴイエで西ゴート王国を破り、アキテーヌの大部分を獲得、フランク王国の領土は北海からピレネー山脈まで大きく拡張された。一方、それまで南フランスを支配していた西ゴート王国はスペインに押し込められた。その後、508年パリに都を定め、セーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院を築いた。その遺構は今もパンテオン近くにクロヴィス塔として残る。
晩年にはフランク人の自らと同じ小王クラスの名門家系の出身者を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺してしまった。それにより、メロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保ったと言われている。
クロヴィス1世は511年11月27日に死去し、パリ市内のサン・ドニ・バシリカに埋葬された。その遺領は他のゲルマン諸族には見られないフランク人特有の財産均等分割相続の習慣に従い、4人の息子に分割され、メロヴィング王朝の混乱をもたらした。フランス人の伝統によれば、パリに都したクロヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王であった。クロヴィスの生涯はトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。
[編集] 外部リンク
- クロヴィス洗礼図(イメージ)