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イーモン・デ・ヴァレラ - Wikipedia

イーモン・デ・ヴァレラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イーモン・デ・ヴァレラEamon de Valera、正式にはEdward George de Valera, 時にアイルランド語式綴りでÉamon de Bhailéaraとも。1882年10月14日 - 1975年8月29日)はアイルランドの政治家、アイルランド共和国第3代大統領。

20世紀初頭のアイルランド独立運動を指導し、アイルランド内戦では英愛条約反対派の中心人物であった。最高評議会の第2代議長、初代ティーシャク(1937年以降のアイルランド首相の名称)、アイルランド大統領を2期(1959年1973年)務めるなど生涯にわたってアイルランドの要職を歴任した。その一方で教育者・数学者としての顔も持ち、1922年から死去までアイルランド国立大学の総長職にもあった。彼の功績に対しては賛否両論があるが、20世紀のアイルランドを語る上で欠かせない最重要人物であることは間違いがない。日本語では「イーモン・ド・ヴァレラ」「エーモン・デ・ヴァレラ」とも表記される。

目次

[編集] 生涯

[編集] 青年時代まで

デ・ヴァレラは1882年にニューヨークの病院で生まれた。彼自身の言葉によれば、アイルランド人の母ケイト・コールとキューバ系の父ホアン・ヴィヴィオン・デ・ヴァレラは1881年ニューヨークで結婚したという。しかし、歴史家や伝記作家たちがいくら丹念に調べても、教会にも市役所にもそのような二人の結婚記録は残されていなかった。1990年に最新の伝記『デ・ヴァレラ』(“De Valera: Long Fellow, Long Shadow”)を著したティム・パット・クーガンもそのような記録を見つけられなかったといい、それどころかホアン・ヴィヴィオン・デ・ヴァレラあるいは似た名前の人物の誕生・洗礼・結婚・死去に関する一切の記録を発見できなかったと述べている。このような事実からデ・ヴァレラは私生児であったというのが定説になっている。

現在の社会では私生児であっても特に不利益を受けることはないが、19世紀の終わりごろには私生児であることはカトリック教会の聖職者になる道を閉ざされることを意味していた。デ・ヴァレラは生涯を通じてカトリック信徒としての深い信仰を持ち、死に際して遺体を修道院に埋葬してほしいと頼んだほどであった。生涯の中でも数度、本気で修道者になりたいと思案していた時期があった。司祭であった異父弟のトーマス・ウィールライトの生き方も彼に影響を与えていた。彼の相談を受けた司祭たちも修道生活の道を勧めず、結局その道に入ることがなかった。前述のパット・クーガンも彼の出生の秘密と修道者になれなかったこととの間に関連があるかどうかは不詳としている。

生まれがどうであれ、デ・ヴァレラが2歳でアイルランドに渡ったことは事実である。母親ケイトが別の男性と再婚したのを機に、デ・ヴァレラはアイルランドのリメリック州に住む母方の親戚の家に預けられたのである。彼はブリュリー国立学校、チャールビルキリスト教兄弟学園で学び、16歳でダブリンのブラックロックカレッジの奨学生に選ばれた。真面目な学生だったデ・ヴァレラはさらに奨学金を獲得して勉学を続け、1903年にはティッパーラリー州のロックウェル・カレッジの数学教授の任命を受けた。1904年にアイルランド王立大学を卒業するとダブリンに戻ってベルヴェデーレ・カレッジで教鞭をとった。1906年にはブラックロックのケリーズフォート女子教育大学で数学を教えるようになった。デ・ヴァレラはアイルランド王立大学での就職を望んだが果たせず、メイノースなどいくつかの学校で講師の職を得た。

[編集] 政治の世界へ

若き教師であったデ・ヴァレラは当時のアイルランド知識人層の多くがそうであったように徐々に政治の世界に入っていく。1908年、ゲール同盟に入り、そこで4つ年上の教師シネアド・フラナガンと出会う。2人は親交を深めていき、1910年1月8日、ダブリンのアラン・ケリーにある聖パウロ教会で結婚式をあげた。ゲール復興運動に加わっていたデ・ヴァレラが本格的に政治活動に身を投ずるようになるのは、1913年11月25日にアイルランド義勇軍に加わってからのことである。彼は急速に階級をあげ、すぐにドニーブルック中隊の隊長にまでなった。武装蜂起を準備中だった義勇軍は、デ・ヴァレラを第3大隊長とし、ダブリン師団の副団長を兼任させた。このころ、デ・ヴァレラはアイルランド共和同盟(IRB)にも加わり、アイルランド義勇軍の影の実力者トマス・マクドナフの知己を得るようになった。

[編集] イースター蜂起

1916年4月24日、復活祭明けの月曜日にイースター蜂起が決行された。デ・ヴァレラはダブリンのグランド・キャナル通りにあったボーランド・ミルズを占拠し、市内の南東区域の制圧を狙った。計画がずさんなものであったため蜂起はすぐに鎮圧され、1週間後に蜂起の指導者パトリック・ピアースから降伏命令が出た。デ・ヴァレラは他の指導者と共に捕らえられ、裁判で死刑を宣告されたが、やがて終身刑に減刑された。その理由は一般的にはアメリカ国籍を持っていたためと説明されるが、これは必ずしも正確な表現とはいえない。なぜなら死刑が行われなかった理由は以下の2つであると考えられるからだ。

第1は彼が他の指導者たちと別の刑務所に入れられていたことである。もしデ・ヴァレラがパトリック・ピアースやジェームズ・コノリーと同じ刑務所に入れられていれば、真っ先に処刑されていただろう。第2にアメリカ合衆国市民権を持っていたことである。これは死刑の中止と関係があるかどうかは明らかではないが、刑の執行を遅らせたことでは間違いない(しかし、彼は本当にアメリカ市民権を持っていたのか、また持っていたとしてもアメリカ政府がたった1人の国民の死刑を止めるために動いたのだろうか、といった疑問は残る)。英国政府としても第一次大戦におけるアメリカの協力を必要としていたことから、デ・ヴァレラの処刑に慎重になっていた。

結局、アメリカ市民権を持っていたことで彼が死刑を免れたというよりは、いくつかの理由でデ・ヴァレラの処刑を延期しているうちに、アイルランド人の対英感情の悪化と世界各国からの非難を受けて、蜂起関係者すべての処刑が取りやめられたというのが真相であろう。そう考えると、デ・ヴァレラが死刑を免れたことはまさに幸運の賜物であった。

イースター蜂起はデ・ヴァレラという人物の内面を露呈することになった。たとえばリーダーシップが発揮できる一面で、行動における計画性のなさが明らかになった。絶体絶命の状況の中で、老後に見られた神経衰弱症状の予兆を見せているが、側近たちはこのことを長く秘密にしていた。

ダートムア、メイドストーン、ルイスなどといった刑務所に収監された後、1917年にデ・ヴァレラと仲間たちは特赦で釈放された。彼は1918年の選挙で大英帝国議会庶民院の東クレア代表に選出され、さらにシン・フェイン党内の選挙で党代表に選ばれた。シン・フェイン党はもともと武力闘争路線をとらない穏健な小組織だったが、英国政府によってイースター蜂起の首謀団体と目された。共和主義者たちはこの誤った見方を逆に利用し、シン・フェイン党のもとにアイルランド人の民心を結集しようと考え、徐々に党内に人を送り込んで党の実権を握っていった。シン・フェイン党の前党首アーサー・グリフィスは、イギリスとアイルランドが英国王を君主としていただきながらそれぞれの議会を持つという、穏健な「二重君主制」の実施を唱えていた。それは1782年にヘンリー・グラタン議員の働きによって獲得された改正憲法が公布されてから、1800年に大英帝国に統合されるまでのアイルランドの政体と同じものであった。

[編集] 独立を目指して

イースター蜂起の首謀者の処刑への反発と、徴兵制への抵抗というアイルランド人の国民感情にうまくのったシン・フェイン党は、1918年の総選挙で圧勝。47%の得票率で104議席のうち73議席をとった。ただこれは多くの議席で対立候補が立たず、無投票で議席が獲得されたことも考慮しなければならない。1919年、シン・フェイン党の議員たちは自らを「テアクタイ・ダラ」と名乗り、1919年1月21日にダブリンのマンション・ハウスに集って「ドール・エレン」という名で知られる「アイルランド国民議会」を結成した。いわゆる「内閣」(Aireacht)は「プリオム・エール」(ドール・エレン議長)によって率いられ、初代議長にはカハル・ブルハが任命された。デ・ヴァレラは1918年5月に再逮捕されていたため、ドール・エレンの1月の議会に参加することができなかったが、翌月リンカーン刑務所から脱獄し、4月の議会でブルハに代わって議長に選出された。1919年にドール・エレンによって採択されたドール憲法では「プリオム・エール」はあくまでドール・エレンの議長であってアイルランドの国家代表ではないとされていた。

アイルランド共和国の暫定政府を国際的に承認してもらおうと、ショーン・オケリーが第一次大戦の戦後処理を話し合っていたパリ講和会議に派遣された。1919年5月、この努力が失敗に終わるとデ・ヴァレラはアメリカ合衆国政府を動かそうと決意、自ら渡米した。この訪問には3つの目的があった。第1はもちろんアメリカ政府によるアイルランド共和国暫定政府の承認、第2は国家運営に必要な融資の依頼、第3はアメリカ合衆国在住のアイルランド系市民たちによる援助の獲得であった。彼は1919年6月から1920年12月までアメリカに滞在した。融資の獲得とアイルランド系市民による援助の獲得には成功したもの、肝心なアメリカ政府による承認は得られなかった。皮肉なことに、アメリカ在住のアイルランド系市民の実力者たちが、デ・ヴァレラたちの影響力がアメリカ政府に及ぶことを恐れ、それを阻止していたのである。

そのころ、アイルランドにおける英国当局とドールの間の紛争はついにアイルランド独立戦争という形になって爆発していた。そのころ「ロング・フェロー」(直訳するとノッポという意味だが、長身のバカという意味もある)と呼ばれたデ・ヴァレラは、敬愛をこめて「ビッグ・フェロー」と呼ばれたマイケル・コリンズにアイルランド国内のことをまかせっきりであった。

[編集] 共和国大統領

アイルランド独立戦争の最中の1919年1月、デ・ヴァレラの帰国を待って行われたドールの第一回議会において、デ・ヴァレラはIRAに対し、英国政府からテロリズムと呼ばれるような行動、待ち伏せなどのゲリラ戦術をやめ、正々堂々と戦うよう求めた。しかし、装備・規模ともにまさる英国軍にアイルランド兵が正攻法で立ち向かえるはずはなかったため、この発言は現実離れしたものと徹底的に批判され、デ・ヴァレラはあわててIRAに対する支持を再表明しなければならなかった。デ・ヴァレラは図らずも独立戦争の厳しい現実に対する認識の甘さを露呈することになった。次にデ・ヴァレラはカハル・ブルハ、オースティン・スタックと組んでマイケル・コリンズをアメリカでの交渉に送り込もうと画策した。この3人はコリンズの人気が自分たちのそれをしのいでいることを危険視し、体よく追い払いたいと考えていたのだった。しかしコリンズはこの申し出を拒否してアイルランドにとどまった。

1921年8月、デ・ヴァレラはドール・エレンに1919年のドール憲法の改正を指示し、自らの職を議長から共和国大統領へと昇格させた。これによってデ・ヴァレラは自分がアイルランドの元首としてジョージ5世英国王と同等の立場に立っており、和平交渉(1921年10月~12月)に国王が出席しない以上、自分も出席する必要はないと表明した。この交渉では英国側が大きく譲歩し、アイルランドは北部6州(いわゆる現在の北アイルランド)を除く諸州の独立を勝ち取った。こうして成立したのがアイルランド自由国である。プロテスタントの多い北部6州は大英帝国のもとに残ることになった(厳密には北部6州には、アイルランド自由国と大英帝国のどちらかに所属するかの選択の自由が与えられており、大英帝国への帰属を選択した)。この結果を受けて国境策定委員会が設置され、話し合いによって北部6州とアイルランド自由国の間の国境を画定することになった。このようなやり方には多くのものが不満を持ったが、コリンズら条約賛成派は国境委員会での交渉の持っていきようによっては北部6州を経済的に立ち行かないようにさせることができ、最終的に全土をアイルランド自由国に組み込むことができるであろうと考えていた。

[編集] 英愛条約をめぐって

和平交渉におけるアイルランド側の代表団は、デ・ヴァレラと内閣の任命を受けた「全権委員会」であるとされていた。しかしこの交渉において、新生アイルランドの立場は(国際的にまだ承認されていなかった)英国連邦の中の独立国としての暫定政府を、王の任命を受けた総督によって治められるアイルランド自由国と言い換えただけではないのかという批判が起こった。デ・ヴァレラはこの交渉の結果に異議を唱えたが、彼の反対者たちはデ・ヴァレラがこのような展開を見越したうえで交渉の席から去ったに違いないと非難した。全権委員会には事前に交渉の妥協点についてデ・ヴァレラから秘密裏に指示が与えられていたため、デ・ヴァレラは交渉の結果自体には不満がなかったが、委員会が自分の最終的な承認を得ずに調印したことが気に入らなかった。しかし、よく考えればこのような事態の最大の原因はデ・ヴァレラが自ら交渉の席につかなかったことだった。交渉批准後、デ・ヴァレラとシン・フェイン党の条約反対派はドール・エレンを離れ、独自の政府を樹立しようとした。このためドールを抜けたデ・ヴァレラに代わり、アーサー・グリフィスが議長に選ばれた。

[編集] アイルランド内戦

英愛条約の締結によって成立した新政府およびドール・エレン(条約賛成派)と、デ・ヴァレラの率いる条約反対派の関係は急激に悪化した。1922年6月にアイルランド内戦が勃発すると、条約賛成派であるアイルランド国軍は、条約反対派の軍事組織となっていたIRAを各地で打ち破った。この頃のデ・ヴァレラの指導力は、どれだけひいき目に見ても厳しい評価を免れ得ないものであった。デ・ヴァレラは名目上条約反対派のリーダーであったが、実質的な影響力はほとんどなく、内戦中は投獄されていた期間も長かった。この内戦は新しいアイルランドに悲劇しかもたらさなかった。マイケル・コリンズの暗殺、ドール・エレン議長のアーサー・グリフィスの急死、条約締結に居合わせたロバート・エルスキン・チルダーズの処刑、フォー・コーツ(四法廷)内にあったアイルランド文書保管室の破壊などである。文書保管室が破壊されたことで千年におよぶアイルランドの歴史における重要書類の数々が失われた。この破壊は無意味な行為であり、条約反対派の賛同者たちからみても「愚行」としかいいえないものであった。

[編集] フィアナ・フォールの設立(1926年)

IRAが武力闘争路線の不毛さを悟って武器を「隠す」と、デ・ヴァレラも武闘路線を放棄して政治闘争へと戻った。1924年、デ・ヴァレラはニューリーにおいて北アイルランドへの不法侵入の容疑で逮捕され、1ヶ月間ベルファストの刑務所に投獄された。「臣従の誓い」(忠誠条項)の廃止を含めた自由国憲法の受け入れを問う投票権を失ったことを受けて、デ・ヴァレラは党首を辞任、1926年3月に新党フィアナ・フォール(共和党、「運命の兵士たち」の意味)を結成した。フィアナ・フォールはこの後、20世紀のアイルランド政治史に大きな影響を及ぼすことになる。

フィアナ・フォールは急速に民衆の支持を集めたが、臣従の誓いを拒否した。この誓いは形式的には英国王への誓いであったため、フィアナ・フォールの支持者たちから批判されたが、実質的には「英愛条約を認めた英国王の権威への忠誠」という形をとったアイルランド自由国への誓いであった。この誓いの文面はほとんどがマイケル・コリンズによってかかれたものであり、マイケル・コリンズはこの文章を書くにあたって英連邦加盟国による臣従の誓い、アイルランド共和同盟の誓い、デ・ヴァレラ自身が起草した条約文の草稿の3つを元にしている。

フィアナ・フォールは臣従の誓いを法的に廃止しようとしたが、国民会議の副議長ケヴィン・オ・ヒギンスが暗殺されたこともあって、W・T・コスグレイヴ率いる国民会議のメンバーはドールの議員および議員候補者たちすべてに英国王への臣従の誓いを義務づけた。臣従の誓いをたてなければ立候補もできず、政界から追い出されてしまう危険性が高まったため、1927年デ・ヴァレラはあくまで「形だけのもの」であるとしてついに臣従の誓いを行った。1931年、マヨ州で「カトリックの国にはカトリックの司書長を」と唱えた住民たちの手によってプロテスタントの司書長が解雇されると、デ・ヴァレラは同地へ赴いて大歓迎を受けた。

[編集] 最高議会議長として

1932年の総選挙でフィアナ・フォールは72議席を獲得。過半数に及ばないもののドール内の第1党に躍り出た。この結果を受けて3月9日にデ・ヴァレラはアイルランド総督ジェームズ・マクニールによって最高議会議長に任命された。彼はさっそく選挙の公約であった、臣従の誓い(忠誠条項)の撤廃と、イギリスへの土地年賦の支払いの停止の実現を目指して動き始めた。これに対して英国は報復措置として、アイルランドへの輸出品に高額の関税を実施したため、アイルランドはたちまち経済危機に陥った。さらにジョージ5世の名によってアイルランド総督ジェームズ・マクニールは更迭されるとともに総督のポストそのものも廃され、ドムナール・ウア・ブアハラを「シーナスカル」という総督に代わる新たな地位につけた。こうしてアイルランド人にとって目に見える恨みの的であった総督職が形式的であれ廃止されてしまった。

デ・ヴァレラは議会における不利を克服しようと1933年に総選挙を実施し、過半数を獲得して狙いどおりの勝利をおさめた。デ・ヴァレラのもとでフィアナ・フォールは1937年1938年1943年1944年の総選挙でも勝利した。デ・ヴァレラは内政のみならず外交も自ら主導し、国際連盟の総会にも自ら出向いている。1932年ジェノヴァでの連盟総会では自ら議長を務め、連盟の規約に忠実であるよう参加国に求める演説を行って参加者たちに感銘を与えた。1934年にはソビエト連邦の連盟加盟を支持している。1938年9月、19代議長に選ばれるなど、国際政治の世界で一定の存在感を示すことに成功した。

[編集] デ・ヴァレラのもとにおける新憲法

1931年、英国議会はウェストミンスター憲章を通過させた。同法は大英帝国連邦を構成するすべての自治領(アイルランド自由国やイギリス連邦そのものも含む)に同等の権利を与え、新たに英連邦を発足させるものであった。大英帝国と各自治領の間に依然として強い法的な連携はあったにせよ、これによって英国本国と自治領との間の関係性は大きく変質し、各国は事実上の独立を果たすことになった。1936年7月、デ・ヴァレラは王に任命されたアイルランド首相という立場から英国王に書簡を送り、新憲法を準備中であると伝えた。その中で新憲法の骨子が「総督」に代わって「ショールスタット・エレンの大統領」という新しい地位を導入することにあると述べている。「ショールスタット・エレンの大統領」はまもなく「アイルランド大統領」に言い換えられ、デ・ヴァレラによってアイルランド語で「アイルランド憲法」を意味する「ブンレアハト・ナ・エレン」(Bunreacht na hÉireann)と名づけられた新憲法の柱となった。

この憲法の中にはデ・ヴァレラの考える「憲法的土着性」(Constitutional Autochthony)といわれる法的な形を持った民族主義が盛り込まれていた。それは以下のようなものである。

  • 「エール」という新国名。
  • アイルランド島は本来1つの領域であるとし、イギリスによる分割の不当性を主張。
  • 英国王と王の任命による総督に代わりアイルランド大統領がアイルランドの最高権力者となること。
  • 長い間イギリスによって差別され、抑圧を受けたカトリック教会へ特別な地位を与えること。
  • 離婚の禁止などカトリックの結婚観の法制化。
  • 英語と並んでアイルランド語を国語とすること。
  • ドール・エレン(上院)、ティーシャク(首相)など公式用語にアイルランド語を積極的に用いること。

このような「憲法的土着性」を示すことで、アイルランドはカトリックでもないし、国教会派でもない、ゲール同盟派でも王党派でもないという新方向を志向することができた。

[編集] 第二次世界大戦における「中立」

第二次世界大戦の勃発前から初期にかけて、ドイツはアイルランドの動向に強い関心を示していた。たとえばアイルランドに侵攻することで、イギリスに対して軍事的優位に立てるのではないか、あるいはIRAをうまく対英戦闘に従事させることはできないか、などといったことであり、一時は実際にアイルランド政府に交渉を働きかけてもいた。ドイツはなんとかアイルランド政府の歓心を買おうと努力したが、その努力もほとんど実らなかった。デ・ヴァレラがアイルランド自由国の中立に関しては頑として譲らなかったからである。英国情報部MI5はアイルランドの動きに注意を怠らなかった。アメリカ合衆国も当初中立を標榜していたにも関わらず、真珠湾攻撃をきっかけに連合国側に立つことになるが、アイルランドは終戦まで中立を守り続けた。ただアイルランド政府内ではドイツ、あるいはイギリスがアイルランドに侵攻する可能性もあると危惧していた。

だが、アイルランドの「中立」には裏があった。現在までの研究でアイルランド政府が密かに連合国側に加担していたことが明らかになっている。たとえばノルマンディー上陸作戦の決行日(D-デイ)は、アイルランドから送られた大西洋の気象情報をもとに決定された。またアイルランドに連合国側のパイロットが不時着すると、「偶然」北アイルランドに逃れることができたが、ドイツパイロットは皆捕らえられて収容された。さらに45000人ものアイルランド人義勇兵が連合国軍に加わっていたが、このことに関して政府は一切干渉しなかった(それ以前のスペイン内戦ではアイルランド人の義勇兵としての参加が政府によって禁止されていた)。アドルフ・ヒトラーの死に際してデ・ヴァレラは、ダブリンに駐在していたドイツ公使エドアルド・ヘンペルを公式に訪問し、弔意を述べた。このことは連合国側から非中立行為として批判されたが、デ・ヴァレラにとっては、中立を標榜しながら連合国側に加担していることをカモフラージュするために必要な行為であった。

名前だけのものであったとしても、当時のアイルランドおよびデ・ヴァレラにとって「中立」以外に選択肢はなかったといえる。もしドイツと組もうものなら、イギリス軍の即時侵攻が予測されるし、さんざん批判してきたイギリスと組もうものなら、デ・ヴァレラという人物の政治信念そのものが問われることになる。また公然と連合国側につけば、これに反発するIRAがイギリスに対して攻撃を仕掛ける可能性もある。それもまたイギリス軍のアイルランド侵攻につながるだろう。デ・ヴァレラはこの事態を危惧し、IRAを牽制しようと獄中にあったIRAの闘士たち数人を処刑している。

歴史家たちは、当時のアイルランドにとって中立がベストの選択肢であったということでは一致している。なぜならアイルランドは長大な海岸線を有していながら、それをカバーできるほどの兵力を持っていなかったからである。もしアイルランドが連合軍に加われば、連合軍はただでさえ十分でない戦力を、アイルランドの海岸線防衛のために割くことを迫られたであろうし、ドイツにとっても連合軍の弱点としてそこを狙う価値が出てきただろう。しかし、アイルランドが中立を標榜したため、もしドイツが無理に侵攻すれば国際社会の非難を浴び、ひいては強力なアイルランド人ロビーを持つアメリカ合衆国政府を動かすことになっただろう。そう考えると第二次大戦初期においてアイルランドが中立を宣言したことは、連合軍に加わる以上にドイツの侵攻を防ぐ効果があり、やがて後顧の憂いなく東岸に兵力を集中できることでイギリス軍も利することになった。

2005年には公文書館から秘密文書が開示され、1942年MI6がアイルランド政府に対し、極秘裏に連合国側への参戦を要請し、デ・ヴァレラがこれを却下していた経緯が明らかになっている。

[編集] 第二次世界大戦後

国家の非常時を過ぎるとフィアナ・フォールの影響力は弱まっていった。デ・ヴァレラは16年権力の座にあったが、自らの党の弱体化と対立政党による批判にさらされることになった。1948年、フィアナ・フォールは選挙の結果をうけて下野し、デ・ヴァレラはジョン・コステロに首相の座を譲った。野党党首となったデ・ヴァレラは、北アイルランド問題を解決するため各国の支援をとりつける運動を始めた。1951年、過半数はとれなかったものの首相の座に返り咲いたデ・ヴァレラだったが、その任期は彼のキャリア史上最低のものとなった。その内閣の顔ぶれが1932年の彼の最初の内閣とまったく変わらなかったからである。

1954年、フィアナ・フォールは再び総選挙で敗れた。だが他の政党の連合による連立与党は3年しか続かず、1957年には再び75歳のデ・ヴァレラとフィアナ・フォールが圧勝して権力の座に戻った。そのあとフィアナ・フォールは16年もの間、与党として君臨し続けることになる。戦後の世界に合わせた新たな経済政策を示しながらも、デ・ヴァレラは1959年まで首相の座にとどまり、ショーン・リーマスがその後を継いだ。

[編集] アイルランド大統領として

憲法改正への彼の最後の取り組みは、比例代表制を廃して直接選挙を行うというものだったが、国民投票の結果否決された。1959年6月、デ・ヴァレラは対立候補ショーン・マクイオン将軍を破り、ショーン・オケリーの後任として大統領に就任した。デ・ヴァレラがほとんど盲目であったことは有名であるが、彼の視力を補う専任のスタッフがいることは長らく秘密とされていた。そのスタッフはつねにデ・ヴァレラに従って、何歩歩くと何があるとか、どこに視線を向けるべきかなどをささやいていた。大統領在職中、デ・ヴァレラはシャルル・ド・ゴール大統領やジョン・F・ケネディ大統領といった各国の首脳の訪問を受けた。1964年、81歳のデ・ヴァレラはアメリカを訪問し、議会で25分の演説を行っている。

デ・ヴァレラは、彼にとって最後の選挙となった1966年の大統領選挙において、かろうじて勝ったことで敗北の屈辱を免れることができた。フィン・ゲール党の若き候補トム・オ・ヒギンスとの差はごくわずかだった。あまりに危うい勝利だったため、デ・ヴァレラはその責任が、選挙担当で後に首相になるチャールズ・ホーヒーにあると考えた。デ・ヴァレラは同僚たちに対し、ホーヒーはいずれフィオナ・フェイルを没落させることになるだろうと語っている。この予言は、1980年代になってホーヒーが汚職に関わった疑いで裁判を受けたことで実現することになる。

デ・ヴァレラは1973年に91歳で大統領職を退いたが、当時世界の元首の中では最高齢であった。63年に及んだ公務の中でデ・ヴァレラは多くの栄誉を受けている。1921年、アイルランド国立大学総長に選ばれ、その死まで同職にあった。教皇ヨハネ23世からはキリストの騎士勲章を受けている。アイルランドや世界の大学での名誉学位を受けていた彼は、1968年には数学の研究を評価されて英国王立学会数学フェロー位を受けている。また、出席することはなかった北アイルランド議会の議員権も持っていた。デ・ヴァレラは憲法に定められた在職期間の限界にあたる14年大統領職を務めて引退した。

デ・ヴァレラは1975年8月29日、92歳でダブリンに近いブラックロックにおいてこの世を去った。最愛の妻で4つ上のシネアド・デ・ヴァレラも彼に先立って1月に世を去っていた。それは奇しくも2人の65回目の結婚記念日の前夜であった。デ・ヴァレラはいまグラスネヴィン・セメタリーで眠る。

[編集] デ・ヴァレラへの評価

アイルランドの有力政治家であると同時に、アイルランドで最も影響力のある新聞『アイリッシュ・プレス新聞』の代表でもあったため、デ・ヴァレラは保守的カトリック思想によってアイルランドをがんじがらめにしていたと批判されることがあったが、それほど単純な見方ではくくれない。たとえばデ・ヴァレラはヨーロッパ全域でユダヤ人に対する迫害が始まった1937年に、唯一ユダヤ人コミュニティの権利を認めていた(ただ『アイリッシュ・タイムズ』のアンディ・ポラックによれば、迫害を逃れてアイルランドにやってきたのはごくわずかな人数であったという)。保守的カトリックというデ・ヴァレラへの評価とは裏腹に、彼は国政においてカトリック系団体の要求をしばしば退けている。スペイン内戦においてもフランコ軍を支持するよう求めるカトリック団体の要求をつき返し、中立を保っている。

現代の歴史家たちはもはやデ・ヴァレラをアイルランドの英雄とは見なしていない。近年発刊されたティム・パット・クーガンの伝記(“De Valera: Long Fellow, Long Shadow”)ではデ・ヴァレラの業績よりも失点のほうに多くのページが割かれている。最大のライバルであったマイケル・コリンズの評価が高まっていくのと対照的に、デ・ヴァレラへの評価は年々落ちているといわざるをえない。

歴史家たちは総合的に分析して、デ・ヴァレラを有能だがバランスに欠けていたリーダーであったと見る。たとえば内戦中、指導者として同じ民族同士の争いをとめるどころか、火に油を注ぐような真似をしていたが、1937年の憲法は完成度が高く、ネルソン・マンデラ南アフリカの新憲法のモデルとしたこともよく知られる。デ・ヴァレラは明晰な一方で一貫性に欠け、如才ない面がある一方で頑迷に陥りやすく、革新的かつ実践的な指導者であったといえよう。功罪両方があるにせよ、彼が20世紀のアイルランド最大の指導者であり、ネルーからケネディにいたるまで彼に学ぼうとしたという事実は消えない。

国家の創立以来、デ・ヴァレラは常にドール・エレンで活動していた。デ・ヴァレラだけでなく、彼の息子ヴィヴィオン・デ・ヴァレラは1945年から1981年までTeachta Dálaを努めた。また孫のイーモン・オ・クイとシル・デ・ヴァレラは現在上院議員をつとめ、内閣での閣僚経験がある。

1996年に公開された映画「マイケル・コリンズ」では、イギリスの実力派俳優アラン・リックマンがデ・ヴァレラを演じている。

[編集] 関連項目

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