アラン・グリーンスパン
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アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan, 1926年3月6日 - )は、米国のマネタリスト経済学者で、1987年から2006年まで連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。就任直後の1987年に起きたブラックマンデーを巧みな金融政策で乗り切り、1990年代の米国経済の黄金時代を招来したため、長期にわたって信任されていた。米国マスコミも彼の手腕を絶賛し、「マエストロ」(巨匠、名指揮者を意味するイタリア語)の称号を与えた。
一方でドットコム・バブルが2000年にピークを迎え、2001年から2002年の景気後退を招いた。2001年以降、資産市場を刺激することで実体経済を調整してきたことや彼の声明がFRBの伝統的な範囲を越えていたり、ブッシュ大統領の政策を過度に支持したりしている事が批判されるようになった。そのような批判にもかかわらず、その期間もアメリカの実体経済と金融政策の権威とみなされた。
2006年にFRB議長を退職し、イギリスのブラウン財務相の名誉顧問に就任した。
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[編集] 来歴
グリーンスパンはニューヨーク市でユダヤ系の家庭に生まれた。彼はジョージ・ワシントン高校を卒業すると1943年から1944年までジュリアード音楽院でクラリネットを学び、才能あるサクソフォーンの演奏者として知られていた。そしてニューヨーク大学に入り、1948年に経済学士、1950年に経済学修士を取得した。さらに進んだ経済学を学ぶためにコロンビア大学へ入り、後にFRB議長を勤めるアーサー・バーンズに師事したが、経済的な理由等で中退した。その後、1977年にニューヨーク大学から通常は必要な論文抜きで経済学博士号を贈られた。2005年には4つ目の学位となる商学の名誉博士号を贈られた。
グリーンスパンは1948年から1953年までの間、経済に特化したシンクタンクであるコンファレンス・ボードの経済アナリストとして働いた。1955年にニューヨークで経済コンサルティング会社であるタウンゼント・グリーンスパンを設立し、1987年まで社長兼会長を務めた(1974年から1977年の間を除く)。ジェラルド・フォード政権下で1974年から1977年まで米国大統領経済諮問委員会の議長を勤めた。1980年代にはアルコア社やABCの取締役に就いていた。
NBCテレビのジャーナリスト、アンドレア・ミッチェルと1996年に結婚している。12年生活を共にしたミッチェルへ結婚のプロポーズをする際に、グリーンスパンの言葉が難解であったためプロポーズと気づかず、グリーンスパンは後により明確な言葉で再度プロポーズした。[1]
[編集] 連邦準備制度理事会議長
1987年8月11日、グリーンスパンはロナルド・レーガン大統領の指名で連邦準備制度理事及び議長になることが上院に承認された。就任して2ヶ月後に彼は最初の危機、ブラックマンデーに直面した。1日でダウ工業株平均が約20%下落した翌朝、FRBは流動性を提供する準備ができているという短い声明を発表し、株式相場は約4%反発した。短い声明は、市場の崩壊を防ぐために効果を発揮したとされ、ウォールストリート・ジャーナルはブラックマンデーの5週間後に新しい議長は試験に合格したと評価した。
1988年の大統領選挙の前には景気を優先させるために政府は利下げの圧力をかけたが、FRBの独立性を守りインフレ対策として利上げを行った。選挙は共和党が勝利し、ブッシュ大統領が就任した。1989年には金利は10%近くまで達したが、景気が軟化したため徐々に利下げしていった。1990年8月にイラクがクウェートに侵攻し、景気の指標が低下するとさらに利下げを行った。ウォールストリート・ジャーナルはFRBの他の理事たちの一部にグリーンスパンは利下げを急ぎすぎているという不満があると伝えた。グリーンスパンの任期は1991年の8月に切れるが、大統領がぎりぎりまで再任を決めなかった。そのため政府からFRBに対する暗黙の圧力を疑われ、グリーンスパンの再任が決まった際にウォールストリート・ジャーナルはFRBの独立性について社説で疑問を投げかけた。その後、景気が急速に悪化したため、12月に1%の利下げを行い金利は4%になった。
1992年の大統領選挙では民主党が勝利し、ビル・クリントンが大統領に就任した。景気回復のためには財政赤字を削減し、長期金利を下げることが必要だというグリーンスパンの意見が容れられ1400億ドルの支出削減が政府の経済政策として発表されると長期金利は低下した。1994年に景気が拡大を始めると、FRB内部では0.5%の利上げが検討されたが、グリーンスパンは5年ぶりの利上げであることから市場にショックを与えないために0.25%の利上げを主張し、理事会を説得して指導力を発揮した。1995年は金利を5.5%前後に置き、失業率・インフレ率が低く抑えられ1.5%の経済成長と好調な株式市場という理想的な状態になった。
1996年にグリーンスパンはクリントン大統領にから3期目のFRB議長として再任された。大統領選挙でクリントン大統領が再選を果たした後の12月に株式市場が高騰し、1年で26%上昇していた為、日本のバブル崩壊から教訓を得ていた財務省やFRBは危惧を抱いていた。グリーンスパンはスピーチで「根拠無き熱狂」という言葉を使用して株式市場に疑問を提示した。[2]2000年にはクリントン大統領に4期目の再任の指名を受けた。
2004年5月18日には共和党のブッシュ大統領から米国史上前例のない5期目の連邦準備制度理事会議長に任命され、2006年1月31日まで同職を務めた。
[編集] 住宅バブル
グリーンスパンが2001年から金利を歴史的な低水準におく政策をとった事が、住宅バブルの一因とされている。ビジネス雑誌のビジネスウィークは2004年の7月に、低い金利と高い住宅価格が経済全体に流動性をもたらす構造をFRBが容認することで住宅バブルを招いたと批判した。
[編集] 政策の批判
2005年3月3日に、民主党のハリー・リード上院院内総務は、2001年のブッシュ大統領の減税策を支持したグリーンスパンを批判した。 また、労働者が給与税の一定割合を個人の退職用口座へ移行できるようにするというブッシュ大統領の社会保障制度の変更案を支持したことでバーニー・フランクから批判を受けた。
[編集] 脚注及び参照
[編集] 参考文献
- ボブ・ウッドワード『グリーンスパン』山岡洋一 高遠裕子 訳、日経新聞社、2001年
- 伊藤洋一『グリーンスパンは神様か?』ティビーエス・ブリタニカ、2001年
- ピーター・ハーチャー『検証グリーンスパン神話』中島早苗 訳、アスペクト、2006年