長崎市への原子爆弾投下
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長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分[1]に、アメリカ軍が日本の長崎市に対して投下した原子爆弾[2]に関する記述を行う。これは実戦で使われた二発目の核兵器である。[3]この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万8千人が死傷、建物の約36%が全焼または全半壊した。[4]
敗北寸前の日本に対しての原子爆弾投下はほぼ戦略上無意味であり、核の威力を実験した意味合いが強い。ソ連に対抗する為とも言われ(当時、アメリカは既に仮想敵国としてソ連を想定していたといわれる)。このような諸説が入り混じり、正確な理由は分かっていない。
長崎県、長崎市などを指す「長崎」が「ナガサキ」とカナ表記される場合は長崎市への原子爆弾投下を指すことが多い。
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[編集] 原子爆弾投下時
[編集] 小倉上空
第二回原爆投下作戦の第一目標都市は小倉市であった。 爆撃当日、先行して離陸していた天候観測機[5]からの報告では天候に問題なく爆撃可能との報告を受け、ボックスカーは小倉爆撃を目的として作戦を開始していた。
しかし、ボックス・カーに同行するはずの写真撮影機(B-29ビッグ・スティンク号)が誤って高度12,000mまで上昇してしまい、ボックスカーは合流待ちのため屋久島上空で約45分旋回を繰り返した。しかしビッグ・スティングと合流出来ず、機長チャールズ・スウィーニー陸軍中佐はやむなく2機編隊で核攻撃作戦を行う事にした。
午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗する[6]。その後別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分。
この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更し、小倉市上空を離脱した。
[編集] 長崎上空
長崎天候観測機(B-29ラッギン・ドラゴン号)は「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
ボックス・カーは小倉を離れて約20分後長崎県上空へ侵入、補助的にAN/APQ-7"イーグル"レーダーを用い照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のフレデリック・アッシュウォース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。
- 「街が見える!」
- 「タリホー! 雲の切れ間に第2目標発見!」
スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、高度9000メートルからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約1分後長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度503mで炸裂した(松山町171番地)。 [7]
[編集] 帰還
このときの原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っており、広島市への原子爆弾投下時の映像が現像失敗等で殆ど残っていない現在、これは実戦に於いてほぼ唯一の原子爆弾投下の映像である。この映像は1980年に日本へ提供され、今でもテレビなどで用いられている。
ボックスカーは残燃料を使い果たしてテニアン島に戻れなくなり、午後2時に沖縄県の読谷飛行場に緊急着陸した(伊江飛行場の説あり)。その際、スウィーニーはドーリットル空襲で名を馳せたアメリカ第8航空軍司令官ジミー・ドーリットル陸軍中将と会談した。燃料補給と整備が終了したボックスカーは午後5時過ぎに離陸、午後11時6分にテニアン島に帰還した。
[編集] 長崎原爆の性能
プルトニウム239爆縮方式(参照:原子爆弾「インプロージョン方式」の項)原爆の「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)相当であり、広島に落とされたウラン235ガンバレル方式の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)より威力があった。
長崎市は周りが山で囲まれていたため、結果的に被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害は計り知れない。 [8]
なお、長崎市が原爆投下目標都市リストに選ばれた理由の一つに、その特異な地形がある。 広島市のような平坦な三角州と異なる地形に原爆を投下した場合に、どのような爆撃効果が現れるのかを知ることは重要な選択ポイントであった。
[編集] 被爆以前の長崎
1570年、日本初のキリシタン大名とされる大村純忠による長崎開港以降、それまで一寒村に過ぎなかった長崎はポルトガルや中国との海外貿易の拠点として飛躍的に発展、長崎港に注ぐ中島川沿いを中心に街が形成されていった。1641年には、ポルトガル人が追放され「空き物件」となっていた出島(1636年完成)に平戸からオランダ商館が移転。1859年の開国まで、西洋との唯一の窓口となる。
一方原爆が投下された浦上地区は、中島川流域とは金比羅山(標高360m)で隔てられていた(原爆被害を考える上でこの地理関係は重要である)。長崎街道の「脇道」である時津街道が通る一農村に過ぎなかったが、多くのキリシタンが地下組織をつくり、禁教下も独自の信仰を守り続けた隠れキリシタンの里であった。
明治維新後、これまで「裏道」に過ぎなかった浦上地区には九州鉄道が敷設され開発が進む。長崎も「西洋との唯一の窓口」という役割は終えたが、長崎海軍伝習所の流れをくむ造船業や、上海など大陸と日本を結ぶ船舶航路の拠点として発展を続ける。長崎港口に浮かぶ伊王島、高島、端島 (長崎県)では石炭が見つかり、鉱山として開発され、多くの労働力も集まった。主力産業であった造船、鉱業は三菱財閥により支えられており、企業城下町でもあった。
信仰の自由を得た浦上の信徒らは、1914年、約30年の歳月を費やし、東洋一のロマネスク様式の名建築とも評された浦上天主堂を建立する。1920年に浦上が長崎市に編入されたあとも、長崎電気軌道の延伸などもあり、三菱製鋼所や三菱兵器工場などの工場施設、長崎医科大学や長崎商業学校、鎮西学院などの文教施設、競馬場、刑務所などの公的施設が整備、拡充されていった。
[編集] 長崎原爆の被害
原爆は浦上地区の中央で爆発しこの地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であった[9]。また、特異例として広島で被爆し長崎に疎開していた人物が再び長崎で被爆・あるいは出張先の広島で被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されている[10]。
浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上天主堂でミサを行っていた牧師・信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。また長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士の死傷者も大勢出た(主にイギリス・オランダ人兵士)と云われている[11]。
[編集] 被爆後の救援
薬品や器材が不足する中、生き残った医師や看護師たちによって救護活動が開始されたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。こうした混乱の中、4本の救護列車が、炎がまだ燃え盛る中を爆心地近くに向かい、多数の負傷者を沿線の病院などへ運んだ。夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。
[編集] 長崎原爆の遺跡・祈念碑・場所等
[編集] 長崎原爆をテーマとした作品
[編集] 小説
- 井上光晴『地の群れ』1963
- 後藤みな子『刻を曳く』1971
- 佐多稲子『樹影』1972
- 林京子『祭りの場』1975
- 林京子『ギヤマンビードロ』1977
- カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』1982
- 井上光晴『明日 一九四五年八月八日・長崎』1982
- 林京子『やすらかに今はねむり給え』1990
- 林京子『長い時間をかけた人間の経験』1999
- 青来有一『聖水』2000
- 鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』2005
- 田口ランディ『被爆のマリア』2006
[編集] 戯曲
[編集] 詩集
- 山田かん『山田かん詩集』など
- 詩・福田須磨子、下田秀枝、筒井茅乃、香月クニ子、朗読 吉永小百合『第二楽章 長崎から』1999
[編集] 歌集・句集
- 松尾あつゆき「原爆句抄」など
[編集] 随筆・手記
- 永井隆『長崎の鐘』1949
- 永井隆『この子を残して』
- 秋月辰一郎『長崎原爆記』1966
- 福田須磨子『われなお生きてあり』1967
- 美輪明宏『紫の履歴書』1868
- 秋月辰一郎『死の同心円』1972
- 調来助『長崎原爆体験 医師の証言』1982
[編集] 映画
- 木下恵介『この子を残して』1983
- 大澤豊『せんせい』1983
- 黒木和雄『TOMORROW 明日』1988
- 黒澤明『八月の狂詩曲』1991
- 有原誠治『NAGASAKI1945 アンゼラスの鐘』2005
- 青木亮『二重被爆』2006
[編集] 音楽
- 作詞 永井隆、作曲 木野普見雄 『あの子』1949
- 作詞 サトウハチロー、作曲 古関裕而、歌 藤山一郎『長崎の鐘』1949
- 作詞 島内八郎、作曲 木野普見雄 『子らの魂よ』1951
- 作詞・作曲・歌 丸山明宏『ふるさとの空の下で』1965
- 作詞・作曲・歌 さだまさし『祈り』 1983
- 作詞・作曲・歌 さだまさし『広島の空』 1993
- それぞれ、1番が長崎、2番が広島の被爆者に関して歌っている
- 作詞 横山鼎、作曲 大島ミチル『千羽鶴』 1995
- 作詞・作曲・歌 槙健一『リボン~Ribbon』 2003
[編集] 絵本
- 葉祥明『あの夏の日』2000
[編集] 写真集
- 土門拳、東松照明『hiroshima-nagasaki document』1961
- 東松照明『<11時02分>NAGASAKI 』1966
- 山端庸介『長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集』1995
- 写真 山端庸介、林重男、松本栄一、H・Jピーターソンほか、長崎市編『被爆記録写真集』1996
[編集] TVドラマ
- NHK総合 『約束の地』 原作 林京子 出演 香川京子 南田洋子 久我美子 佐々木すみ江 高橋昌也 主題歌 さだまさし(1983年)
- 日本テレビ 『明日-1945年8月8日・長崎』 脚本・市川森一 出演、大竹しのぶほか(1988年)
[編集] 創作能
- 多田富雄『長崎の聖母』2005
[編集] 関連記事
[編集] 脚注
- ↑ アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分
- ↑ アメリカは長崎に投下した原子爆弾のコードネームをファットマン (Fat Man) と名付けていた。制式名称はMk-3核爆弾。
- ↑ 現時点では実戦で使われた核兵器は広島・長崎の二発である
- ↑ 原爆死没者名簿の人数は2006年8月9日現在で14万144人。
- ↑ 去る8月6日に広島市へ原子爆弾リトルボーイを投下したエノラ・ゲイ
- ↑ 原爆は目視による投下が厳命されていたが、前日小倉よりおよそ7km離れた八幡市空襲の残煙と靄に目標が覆い隠されていたためといわれる
- ↑ 当初の投下目標は市街地の中心を流れる中島川にかかる常盤橋だった。実際の爆心地一帯は、予定通り当初の目標上空で爆発した場合、被害地域の最北端と試算された場所であった。
- ↑ 1945年7月16日にアメリカ合衆国ニューメキシコ州アラモゴードのホワイトサンズ射爆場で行われた世界史上初の核実験『トリニティ』及び1946年にマーシャル諸島のビキニ環礁で行われた核実験『クロスロード・エイブル』(クロスロード作戦を参照せよ)の実験結果から、仮に東京都心上空で爆発させたと仮定した場合、山手線の内側を壊滅させるだけの強大な破壊力を有していた。したがって、現在の東京都心に対してファットマンによる昼間攻撃を行ったと仮定した場合、死者100万人を超す被害が想定される。 -- この想定には異論あり(ノート参照)
- ↑ 長崎市全体の家屋被害比率が広島市のそれより小さくみえるのはそのためである。このため香焼町など一部地域ではきのこ雲を見ているが直接的な被害を受けていない人間なども存在している。最終的に爆心地から3.4キロ離れた県庁付近まで延焼しているが、このあたりが火災発生地域のほぼ南端にあたる。貴重な建築物であったグラバー邸や大浦天主堂等は被害を免れた。国宝であった広島城等、貴重な文化財の殆どが破壊・消失した広島市とは対照的である。また、キリスト教徒が多い浦上が被災し、長崎の中心街に爆発による直接被害がなかったことが宗教的、地理的な感情にもむすびつき、地域間の温度差を助長する結果となったとの指摘もある。
- ↑ 1950年の被爆生存者資料によれば10名。
- ↑ 幸運にも生還したオランダ人捕虜レネ・シェーファー氏は、後に『長崎被爆記』と題した手記を出版している
[編集] 外部リンク
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