沖縄戦
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沖縄戦 | |
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戦争: 太平洋戦争(大東亜戦争) | |
年月日: 1945年3月26日-6月23日 | |
場所: 沖縄本島 | |
結果: アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国(沖縄守備軍) | アメリカ合衆国(第10軍) |
指揮官 | |
牛島満中将 | シモン・B・バックナー中将 |
戦力 | |
兵員 116,400人 | 兵員 548,000人 |
損害 | |
死者・行方不明者 188,136人(民間人を含む) | 死者・行方不明者 12,520人 |
沖縄戦(おきなわせん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日の日本陸軍第32軍の壊滅で終了した。
アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦[1]。大規模な戦闘は沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは本土決戦への時間稼ぎ。いわゆる「捨て身作戦」(出血持久作戦)であった[2]。
目次 |
[編集] 概要
沖縄戦は第二次世界大戦における、日本国内(マリアナ諸島および占領地域を除く)で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦である。また、民間人の犠牲者が戦闘員の死者よりも多かったのもこの戦闘の特徴である。
沖縄県生活福祉部援護課が1976年3月に発表したところによると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者12万2228人のうち9万4000人が民間人とされている[3]。負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千。ただし、日本側の死者数は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。現在は死者20万人を超えており、またいまだ数多くの遺骨が見つかっていない。
当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており(沖縄タイムスによる)、少なくとも県民の3人に1人が死亡したことになる。また、激戦地となった南部地域ではいくつもの集落で住民が全滅もしくは住民の半数近くが死亡するなどで人口が激減したため、合併を余儀なくされた村もある。
使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで750万発。このほか、砲弾6万0018発と手榴弾39万2304発、ロケット砲弾2万0359発、機関銃弾約3000万発弱が発射された(数値は、ジョージ・ファイファー『天王山』による)。また,地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため,この戦闘を沖縄では鉄の雨・鉄の暴風などと呼び、また、英語では、the Typhoon of Steelと呼ぶ。[4]
[編集] 沖縄戦の背景
太平洋戦争で日本が劣勢の時期になると、アメリカ軍が日本に侵攻することが予想された。その際、アメリカはまず沖縄を占領し、ここを前線基地とすることが考えられたため、日本はそれに対抗するために1944年(昭和19)2月、沖縄守備軍(第32軍)を編成。軍司令官は渡辺正夫中将が任命された。島全体を航空基地として沖縄からの航空機によって抗戦する予定であったため、当初のこの軍の主な任務は飛行場建設であり、警備程度の兵力であった。
1944年7月のサイパン島玉砕という事態に、司令部人事を一新し、新司令官に牛島満中将を任命した。ようやく沖縄の兵力増強に努め、第9師団、第24師団、第62師団と増強し、第32軍直轄に大砲400門以上を擁する和田孝助中将の第五砲兵司令部を置いた。和田孝助中将は砲兵術の権威と知られ、敵上陸に際して砲兵部隊に援護された精鋭3個師団が水際から米軍を追い落とせると自信を深めた。そのほか、独立混成第44旅団も派遣されたが、旅団主力を運んでいた輸送船富山丸がアメリカ軍潜水艦に撃沈されるなど、先行きを不安視する部分もあった。
しかし、レイテ決戦に台湾から抽出した部隊の穴埋めに、沖縄から最精鋭の第9師団の台湾への転用が大本営で決定され、兵力の三分の一近くを失うことになる。これによって積極作戦から持久作戦に転換を余儀なくされる。のちに第84師団の増援決定とその中止という事態に、現地の第32軍と大本営の間に、不信感と作戦・用兵思想に溝を生む結果となり、その後の作戦に支障をきたす事となった。
ただし、士気を落とさないように、のちに援軍が来るという情報が兵士や沖縄県民らに伝えられていた。しかし、上陸部隊を攻撃すべく出撃した戦艦大和はアメリカ軍により撃沈され、本土から義烈空挺隊による飛行場への強行着陸による攻撃以外に援軍が来ることはなかった。
沖縄守備軍の数は86,400人であり、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計して116,400人がいた。なお、戦闘員も、兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員のうち約2万人は、現地で防衛召集された17歳から45歳までのものであった。
沖縄戦に先立ち、1944年(昭和19)10月10日には八重山諸島などを含む沖縄全域に大規模な空襲(十・十空襲)があり、特に那覇市に壊滅的な被害を与えた。この後も断続的に空襲が続いた。そのため、第32軍の司令部は首里城の地下壕におかれた。沖縄本島(特に中南部)は珊瑚礁が隆起してできた島で、地下には自然の鍾乳洞が多くあり(沖縄ではこれらの自然洞窟のことをガマと呼んでいた)、これを改造して軍の陣地壕や民間の防空壕が多く作られた。このガマは、のちの戦闘での重要な要素となった。また、民間人の本土疎開が行われたが、学童疎開船対馬丸の撃沈という悲劇(1,500人死亡)も起こった。
[編集] 日本陸・海軍守備部隊指揮官、参謀一覧
- 陸軍
- 第32軍 司令官 牛島満中将(戦死後、大将に進級)
- 第24師団長 雨宮巽中将
- 第62師団長 藤岡武雄中将
- 賀谷支隊長 賀谷與吉中佐
- 独立混成第44旅団長 鈴木繁二少将
- 第5砲兵司令官 和田孝助中将
- 第28師団長 納見敏郎中将(宮古島駐屯)
- 海軍
- 沖縄方面根拠地隊 司令官 大田実少将
- 先任参謀 前川親一郎大佐
- 南西諸島航空隊司令 棚町整大佐
- 第951航空隊派遣隊司令 羽田次郎大佐
[編集] 戦闘推移
[編集] 米軍の上陸
アメリカ軍は艦艇数1500、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万)の沖縄攻略部隊を組織し沖縄に向かった。3月26日、慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸。4月1日には守備陣の薄い本島中西部で、飛行場のある読谷村と嘉手納町を狙って上陸し、対する日本軍は水際作戦を放棄したため、米軍はその日のうちに北・中飛行場を確保した。4月5日までには中部(現うるま市石川周辺)で東海岸までを占領した。
このため、第32軍は沖縄本島南北に分断されることになる。戦力で劣る日本側はこれに先立ち、島内の戦力を宜野湾以南に結集し、ひきつけて迎撃し流血を強いる持久作戦をとった。しかし、早期の飛行場の失陥は、大本営や海軍中央からは消極的かつ航空作戦軽視と批判の的とされ、度重なる大本営や海軍の飛行場再確保の要請は、守備軍司令部内部を混乱させた。米軍の沖縄上陸前からの守備軍と大本営の対立の弊害が、戦いの最中に露見する結果となる。また海軍との連携も不十分であった。
この後日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した(嘉数の戦い)。アメリカ軍は首里の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で守られており、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退している。ここでは多くの将兵が奮戦し、賀屋支隊をはじめ、松山歩兵第22連隊、独立臼砲大隊、伊東歩兵大隊などが伝説的な活躍が見せている。そして、激しい戦闘が約50日間続いた。この遅滞作戦は一定の成功を収めたが、ここで日本軍は無理な攻勢に転じた。5月4~5日に強行された守備軍の総反撃は大打撃を受けて失敗し、継戦能力を一気に喪失した結果、首里一帯の守備も難しい状態となった。5月31日までにアメリカ軍は首里市(現在の那覇市の一部)を占領したが、これに先んずる5月24日、沖縄守備軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定し、5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して、新たな防御陣をたてた。しかしこの時点で、日本軍は全軍の80パーセントを消耗していた。
中部がアメリカ軍によって分断された時点で、住民の北部(国頭)地域への疎開は不可能となり、取り残された住民は南部・島尻地域に避難していた。そこへ守備軍が撤退したことで軍民混合の状態が生じ、この後逃げ場のない戦場での被害が加速することになった。
アメリカ軍はこの後も南下を続け、住民と守備軍はしだいに島南部へと追い詰められていった。多くの住民と軍人は壕(ガマと呼ばれる自然壕を含む)などに隠れたが、アメリカ軍は、少しずつ前進しながら壕を発見し、銃撃を行ったり、手榴弾や火炎放射器、ガソリン、ガス弾[5]などを使って1つずつ壕を全滅させて南下を続けた(生存者の証言では「馬乗り攻撃」と呼ばれている)。投降もよびかけたが、日本側には「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」「死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ」という戦陣訓があったほか、「鬼畜米英」と教育されたことから捕虜になっても虐待されるという恐怖心があり、敢えて投降せずに「集団死」を選ぶ壕もあった。また、機密や情報の漏洩を恐れた日本軍では「投降する者は軍人・民間人を問わず射殺せよ」という命令が出ていたとされており、投降できずに殺されたケースもあった。
[編集] 守備軍の壊滅
海軍部隊は主に飛行場設営隊などから構成されており、戦闘部隊は少なく、装備は非常に劣悪だった。陸軍守備隊と別行動をとり、武器不足から航空機用機銃を改造するなどして抗戦したが6月中旬に壊滅。海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に海軍次官宛に有名な「…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日ごろに自決した。
6月18日、アメリカ軍側の司令官サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア(Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将は、最前線視察中に砲撃(米軍資料による。日本側の証言では狙撃との説もあり)され死亡したが、アメリカ軍有利の状況には変化がなかった。むしろ、このあと数日はバックナー司令官が殺された地域を中心にアメリカ軍が徹底的な掃討作戦を行ったため、日本側の被害は一気に増大した。
守備軍と住民が最終的に追い詰められた沖縄本島南部では、特に多数の一般住民の死者が出た。これは主に、安全な自然壕が軍により占拠されており、住民が安全な避難場所を確保できなかったことや(先に避難していた住民が追い出された例も多数伝わっている)、戦闘員が一般住民と同じ壕に避難していたため、アメリカ軍の攻撃により両者ともに全滅したことなどによる。戦闘末期、日本兵が一般住民に偽装して特攻することがしばしばあり、アメリカ軍は民間人か戦闘員かにかかわらず動くものをすべて銃撃するようになったことも原因の1つに挙げられる。
6月23日に沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。しかし牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの(「……爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ」)であったことに加え、指揮系統の崩壊によって自決の事実や大本営発表がはっきりと伝わらなかったため、このあとも残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。
組織が瓦解して統制を失い、補給も途絶えた日本軍は、各々が食糧を強制的に徴発するなどして住民と多くの軋轢を生じながら、終戦直後まで散発的抵抗を続けた。そのような部隊の代表例としては、第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、ならびに、同連隊指揮下の2個大隊などが知られている(北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである)。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また、航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている。[6]
アメリカ軍は、上陸地点附近にて、上陸部隊のあとにやってきた工兵隊などによって、来るべき日本本土攻撃に備えた基地整備を進めていった[7]。戦後、沖縄はアメリカ軍の支配下に入り、日本に返還されるのは1972年(昭和47)のことであった。それに先立つ1965年4月9日に琉球立法院は6月23日を「慰霊の日」と定め(返還後の1974年10月には県議会で制定)、現在は毎年その日に摩文仁の平和祈念公園において追悼式典が行われる。
[編集] 民間人保護の失敗
[編集] 沖縄戦初期の状況
1944年7月7日にサイパンが陥落すると東条内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の五島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることを決定、沖縄県に通達し、それまで戦争をまだ身近に感じていなかった42万沖縄県民に大きな衝撃を与えた。 また、軍は「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の考えから県民の疎開を希望し、また沖縄では県内消費米の2/3を県外からの移入に頼っているという事情もあった。
その後の通達で疎開目標は「本土へ8万、台湾へ2万の計10万」と決定されたが、県民が疎開に応じるか不安視した県は、国の至上命題を県下の隅々にまで徹底し短期間で遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。 理由としては、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開するという不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には沖縄への増援部隊である独立混成第四十四旅団の主力を乗せた輸送船「富士丸」が潜水艦による魚雷攻撃によって鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロで沈没、将兵4,600名中約3,700人が犠牲になり、軍はこの事を「軍極秘」として箝口令を敷いたが県民の間に口伝てで伝わって、ますます県民の疎開に対する不安を煽る結果となった。さらには、在沖第三十二軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言により、県民は日本軍が勝つという希望的観測にすがる結果となり、疎開申し込みに来るのは本土出身者が大半だったという。
荒井退造警察部長を始め県の必死の努力により疎開第一船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752名を乗せて那覇港を出港し、7月末の疎開第2船は220名、8月初めの第3船では1566名が疎開したがほとんどが本土に縁故のある人々であった。 しかし、その後も続けられた県の努力により8月10日に出航した第4次の約9000名は縁故のない県民が中心で、ようやく県の努力が実りつつあった。 県民は日本軍の勝利を信じており、「友軍」と呼ぶなど親近感を持っていたこともあって、軍部の要請に対しても人員物資などあらゆる面で積極的に協力したが、皮肉なことに県民の疎開をより促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(10・10空襲)であった。
その後の沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から米軍により交通が途絶する翌年3月まで延べ187隻の疎開船により学童疎開5586名を含む6万2千名(疎開者数を8万とする史料もある)、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万と推定されている。 県内疎開の正確な犠牲者は不明だが、県外疎開の疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは対馬丸一隻のみであるとされている。 また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。
アメリカ軍側でも民間人の損害を最小限にするため、本部半島以北を攻撃対象地域から除外し、そのビラを上陸前から市街地に散布していた。 アメリカ側では、沖縄住民は琉球王朝の名残から日本軍に非協力的であろうと推測していたが、この点は誤算であり、フィリピン戦などで見られた住民の反日ゲリラ化にも失敗している。
この軍民一体となった沖縄防衛は、沖縄戦末期には軍人と区別ができなくなってしまったために民間人も殺戮の対象となってしまい、多くの悲劇を生んでいる。 また、持久戦術によって遅滞行動を繰り返す日本軍兵士は、攻撃任務の遂行と民間人の保護という対極的な選択を迫られることになり、徹底した持久戦の遂行を命じられていたため、民間人を犠牲にすることもやむをえないとされた。
[編集] 沖縄戦末期の状況
沖縄戦末期になると、現場の日本兵は沖縄住民を戦闘の邪魔になると見なすようになっており、民間人の保護は現実的に受け入れられない状況であった。逆に、日本兵自身が安全な壕内に避難するために、「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって、先に避難していた住民を追い出すこともあった(ひめゆりの塔で知られる陸軍病院伊原第三外科壕や他の第一・第二外科壕、本部壕なども「追い出し壕」とされている)。ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されている。また、民間人に対する米軍の人道的扱いを期待した日本兵が意図的に民間人の避難先に潜り込んでゲリラ活動を展開したという話も残っており、それが米軍を「馬乗り攻撃」に踏みきらせたとも言われている。その一方で日本軍は、沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑したこともあったという(実際にアメリカ軍は沖縄2世日系人を使って住民撹乱工作を実施しており、日本軍はその対処に苦慮していた)。また米軍から住民に配給された食糧を狙って飢えた敗残兵が襲撃を行うなど、軍民の信頼関係は著しく損なわれた。
[編集] 真栄里の住民虐殺
旧高嶺村(現糸満市内)真栄里でアメリカ陸軍第10軍司令官サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将が日本軍の攻撃で戦死すると、報復戦が行なわれた。明らかに民間人とわかっていて米軍が集落の全員を虐殺した場合もあるという。また、一帯には追い詰められた日本軍や避難してきた住民が集中しており、両軍が繰り広げた最後の戦闘に巻き込まれ、1,063世帯(2千名)という多くの一家全滅を出したほか、いくつもの集落が全滅したという。特に島の南端に位置する旧真壁村・旧喜屋武村・旧摩文仁村は3村の合計で4千人余りにまで人口が激減(戦没者は3,773人)して村の機能を維持できなくなり、戦後すぐの1946年4月4日に合併して三和村となった(村名の由来は元が3つの村からなることと「永遠の平和への願い」からだという)。しかし、それでも財政基盤が安定しなかったため、同様の事情を抱えていた旧糸満町・旧兼城村・旧高嶺村と合併して1961年10月1日に新糸満町(現糸満市)となった。現在も真栄里・国吉(旧高嶺村)、新垣(旧真壁村)附近には一家全滅のため無人の屋敷や空き地だけが残る家が数多くある。
[編集] 集団自決の悲劇
久米島では、米軍の上陸はなかったが、日本軍軍属の鹿山正部隊長(兵曹長)の疑心暗鬼によって沖縄の住民がスパイ容疑その他で虐殺される事件(鹿山事件)がおこっている。苦戦を強いられた日本軍が住民らに自決することを勧め、実際に手榴弾により集団で自殺したり、家族同士がカマなどで殺しあったりする悲劇も生じた(チビチリガマでの惨劇がよく知られている)。ただし、軍の命令及び強制があったかどうかは不明瞭であるとして、日本国内では前述の「証言」を疑問視する者もいる。
たとえば座間味島の集団自決で生き残った女性・宮城初枝によれば、そこでの「集団自決」は島民の申し出であったという。また、渡嘉敷島では、陸軍海上挺進隊第三戦隊長で指揮官だった赤松嘉次大尉が3月28日、西山にて住民に自決を命じたために329人が死亡したと言われていた。これは1950年に出版された『鉄の暴風』(沖縄タイムス)によってはじめて紹介され、大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店)にも同様の記述がなされている。だが、この逸話に疑問を持った曽野綾子は自ら行った取材を元に『ある神話の背景』を1973年に刊行した。それによると、戦後の国民に対する補償を定めた「戦傷病者戦没者遺族等援護法」では民間人は年金や弔慰金の適用外であったため(救済対象を「軍協力者」に限定している)、軍命令により自決したとすることで「準軍属」扱いになり、遺族や負傷者に年金・弔慰金が受け取れるようにしたということであった。その後、赤松大尉の遺族は大江と岩波書店に損害賠償を請求している。2006年には、戦後の琉球政府の旧軍人軍属資格審査委員会委員(軍人・軍属や遺族の援護業務)であった人物が、遺族・年金を受給するために赤松大尉が自決を命令したことに書類等を偽装したと認めた(産経新聞 2006年8月27日付)。一方で、2006年10月3日に日本兵が住民に対する「集団自決」を命令した事を示す発生直後の住民証言を記録した1945年4月3日付の「慶良間列島作戦報告」がアメリカで見つかったと沖縄タイムスで報じられた。なお、『ある神話の背景』の内容については、『鉄の暴風』の著者である太田良博と曽野との間で論争となっている。
しかし、具体的な命令があったか否かに関わらず、軍の行為やそれまでの教育が間接的な原因となっていたとの指摘もある。戦陣訓は国民の間にも浸透していたと言われ、さらに「鬼畜米英」と教育されていたことから、絶望のあまり集団自決に走ったとされるものもある。
慶良間では元々乏しかった食糧を軍に独占されたため住民や末端の兵士が飢餓に陥り、追い詰められて集団自殺を決行したとの指摘もある(守備隊長の赤松大尉は8月末に降伏して捕虜となったが、米軍の取り調べに対し「(食糧は)あと3年はもった」と豪語していたという)。
またガマに避難した住民や兵士の中には中国やフィリピンから引き上げてきたものがあり、その際の現地人や兵士に対する虐待や虐殺の様子を聞いていた他の住民が「米兵に捕まれば自分達もそうされる」と思って集団自決に踏みきった、という証言もある。チビチリガマでは中国での現地人や敵兵に対する虐待や虐殺経験を持つ元兵士の住民自身が「決死の覚悟」で自決を主張し、それがきっかけで集団自決に至ったという。
ひめゆり学徒の証言の中には「兵士に手榴弾を渡されたが死にきれなかった」「青酸カリを飲むよう言われたが量が足りなかったため飲まずにすんだ」「攻撃に行って反撃を受けた兵士が民間人の避難していた場所に逃げ込んできたため猛攻を受けてほぼ全滅した」「『おまえたちが沖縄を守るのだ』と初年兵らを集めて囮に使い、兵隊たちはその隙に逃げた」というものもある。しかし同じひめゆり学徒の証言の中には「『まだ若いのだから無駄死にすることはない』と逃がしてくれた」「突然『出ていけ、叩っ切るぞ!』と軍刀を振り回して追い出されたが、その直後に兵隊だけが手榴弾で自決した」というものもある。
[編集] 戦陣訓教育の波紋
戦陣訓や「鬼畜米英」などとの教育は、集団自決に限らず別の悲劇も産み出している。多くの軍人・学徒・民間人らが追い詰められた本島南端の荒崎海岸では、ひめゆり学徒2名が現われた米兵に「我々は皇国女性だ! 殺せ!」と詰め寄り、撃とうとしない米兵にさらに「なぜ殺さないのか!」などと言い募ったため、ついに射殺されたという証言が残っている。
前述の慶良間では、死屍累々たる状況から保護された住民に米兵が治療を行なったり食糧を与えると、「米兵に辱しめを受けるくらいなら」と自分の娘を殺したという老父が自責の念にかられて泣き伏してしまった、という証言もある。また、学徒の一人が「早まってはいけない」と言ったところ、ほかの同級生が「今までの教育を忘れたのか」「生き恥をさらすつもりか」などと責め立て、逆に近くにいた下士官兵に「君たちが死んだらこれからの沖縄はどうなるのだ」ととりなされて投降した、という証言もある。
[編集] 「友軍」による住民虐殺
生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「『捕まったら強姦されるか殺される』と聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと証言する者が多くいる。南部に現存する「轟の壕」では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口附近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。そのため、投降した住民が米軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという。読谷村では、山中に潜んでいた日本軍が米軍保護下の住民を連れ出して虐殺するという事件があったという。
しかし、米軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。また、終戦後の米軍も日本人を軽く扱い米兵による強姦や殺人などの事件が日本へ沖縄領土が返還されるまで多数起きており、沖縄領土が返還されてからは米兵による事件が少なくはなるものの、後を絶たないのが現状である。このように、結果として沖縄戦は民間人に甚大な被害をもたらす悲惨きわまりないものとなり、また「友軍」と呼んで期待していた日本軍に捨て石にされたという想いもあって、この遺恨は今日も続いている。
[編集] 沖縄本島以外の沖縄戦
沖縄本島以外でも戦闘は行われた。代表的なものは1945年3月26日から29日にかけて行われた慶良間諸島での戦闘と、4月16日から21日の伊江島の戦闘である。慶良間に米軍が上陸を開始した当日、夜間強行偵察により沖縄方面に飛来した岩本徹三中尉は、上陸部隊に徹底的な銃撃を浴びせ、大損害を与えた。この状況はいまでも慶良間に語り継がれている。しかしその一方、地上部隊は米軍の上陸を予期しておらず、そのため徴発して備蓄していた食糧を米軍上陸後早々にほとんど失い、これが島民の飢餓を招いて集団自殺に走らせた、との指摘もある。
これ以外の諸島では大規模な戦闘は行われなかったが、空爆は恒常的に行われた。島によって異なるが、大規模な空爆はおよそ3月から6月いっぱいまで続いた。宮古島、八重山諸島(石垣島、西表島)には、日本軍によって沖縄本島などから集団疎開がおこなわれたが、衛生面での不備によって多数の住民がマラリアにより死亡している。
[編集] 沖縄戦における日本軍に対するアメリカ軍の評価の一端
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これらは主に八原博通大佐の作戦立案によるものであるが、大本営および沖縄守備隊首脳部は、投機的な攻撃による奇跡的な勝利を妄想しており、前線部隊に対したびたび無謀な銃剣突撃を命令していた。
八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地戦法と野戦重砲兵の長距離援護砲撃を前提としており、寝技戦法とも呼ばれた。これは、長身のボクサーを柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチをよく防いで超接近戦に持ち込み、相手の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍部隊を、大部隊の展開が困難で地形が複雑な日本軍陣地前方に誘導する。そして小銃、軽機関銃で掃射し、戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。戦車部隊は、速射砲、地雷または破甲爆雷によって破壊、そして重砲兵の支援砲撃により駆けつけてきた敵の応援部隊を叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は、満州から転出してきた重砲兵という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。
侵攻してくる米軍に対して日本軍が善戦した例として、ペリリューの戦い、硫黄島の戦いも有名であり、沖縄戦での日本軍は戦訓の研究成果をもって戦いに臨んだ。これらの戦いは情報参謀堀栄三中佐などの『敵軍戦法早わかり』をもとにして、現場指揮官が独自の防御方策をもって臨んだ防衛戦であった一方で、「米軍が沖縄戦における日本軍の防衛を高く評価するのは、敵を強大に見せることで自らの戦果を強調するためである」とする意見もある。
[編集] 史跡
特に戦闘が激しかった島南部は、沖縄戦跡国定公園に指定されている。日本国内の国立公園や国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのはここだけである。なお、海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている(塔の手前の展望台の下に壕があり、入口までは階段で降りることができる。内部は立入禁止)。平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。
ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(くがにむい)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されているほか、近い将来一部の壕内の見学も可能になる予定。
読谷村と北谷町には「米軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔があるほか、トーチカの跡が残っている。
米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「シモン・B・バクナー中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから、白梅の塔など多くの慰霊塔が建てられている。
これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として、慰霊塔や慰霊碑が島内全域に無数に存在している。
[編集] 注釈
- ↑ Operation Iceberg : 氷山作戦
- ↑ 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた
- ↑ この人数は、民間人の犠牲者を9万4千人と推計し、これに軍人・軍属の犠牲者28,228人を加えたものである。なお、民間人の犠牲者には戦闘に協力した民間人5万7044人を含む。
- ↑ 日本語の呼称鉄の暴風は、太田良博・牧港篤三の共著『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)は、ベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
- ↑ 日本側では、しばしば「沖縄戦でガス弾が使われた」という記述がされ、沖縄県の公文書にも記載されているものがある(『沖縄県の歴史と文化』44ページ)。実際に使われたのはほとんどが黄燐手榴弾であった。この武器は、煙を出して燃焼し、地下壕などでは相手に致死的な損害を与えるが、通常は化学兵器や毒ガス兵器には分類されない。ただし、黄燐手榴弾(黄燐弾と表記されることもある)のほかに、神経性のガス弾が使用された、その患者を見た、という記述も複数ある(仲宗根政善編『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』など)。
- ↑ 八原博通は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも沖縄の地を再び踏む事はしなかった。
- ↑ このときの基地が、現在の沖縄駐留米軍基地の元になっている(米軍基地が上陸地点に程近い読谷村から南側の平地に集中しているのは、このため)。
[編集] 沖縄戦全体を描いた映画作品
[編集] 関連項目
[編集] 関連文献
- 安里要江、大城将保(共著)『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』高文研、1995年2月、ISBN 4874981550
- 安仁屋政昭『沖縄戦学習のために』平和文化、1997年8月、ISBN 4938585723
- 安仁屋政昭、徳武敏夫(共著)『沖縄戦と教科書』草の根出版会、2000年8月、ISBN 4876481539
- 石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社、2002年3月、ISBN 4784514201
- 上原正稔『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年3月
- 大城将保『沖縄戦 民衆の眼でとらえる〈戦争〉』(改訂版)、高文研、1988年10月、ISBN 487498097X
- 大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店〈岩波新書 青版 762〉、1970年9月、ISBN 4004150280 [1]
- 大田昌秀『これが沖縄戦だ 写真記録』琉球新報社、1979年/改訂版: 1985年/改訂版: 那覇出版社、2002年1月、ISBN 4930706009
- 大田昌秀編著『総史沖縄戦 写真記録』岩波書店、1982年8月 [2]/増刷版: 1994年3月、ISBN 4000012223
- 大田昌秀監修『沖縄戦 写真集』那覇出版社、1990年3月 [3]
- 大田昌秀『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』那覇出版社、2000年7月、ISBN 4890951296
- 大田昌秀『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』琉球新報社、2002年12月、ISBN 4897420482
- 大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店、2004年12月、ISBN 400022381X
- 沖縄タイムス社編『鉄の暴風 沖縄戦記』(第10版)、沖縄タイムス社、1993年7月 - 『鉄の暴風 −現地人による沖縄戦記』(朝日新聞社、1950年8月)を改題
- 親里千津子『ちーちゃんの沖縄戦』ニライ社、1994年6月、ISBN 4931314104
- 影山昇『男たちの「ひめゆりの塔」 沖縄戦―知られざる悲劇の学徒たち』大空社出版部、1997年7月、ISBN 4756804373
- 小橋川千鶴子『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』耕文社、2002年2月、ISBN 4906456286
- 神直道『沖縄かくて潰滅す』原書房、1967年
- 創価学会青年平和会議編『命(ぬち)どぅ宝 沖縄戦・痛恨の記憶』第三文明社〈レグルス文庫〉、2003年6月、ISBN 4476012442
- 曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』ワック、2006年5月、ISBN 4898315453 [4] - 『ある神話の背景』(文藝春秋、1973年)の改訂版
- 武田英子『いくさ世(ゆー)にいのち支えて 沖縄戦を生きた助産婦の記録』ドメス出版、1992年9月、ISBN 4810703436
- 富村順一『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』柘植書房、1995年1月、ISBN 4806803588
- 仲田精昌『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』晩声社、1999年9月、ISBN 4891882891
- 野村正起『船工26の沖縄戦』亜細亜書房、1998年6月、ISBN 4947727098
- 野村正起『沖縄戦遺族の声』叢文社、2002年8月、ISBN 4794704151
- 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年12月、ISBN 4272520679
- ひめゆり平和祈念資料館『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年8月
- 藤原彰編著『沖縄戦 国土が戦場になったとき』青木書店、2001年10月、ISBN 4250201392
- 船越義彰『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』ニライ社、1998年6月、ISBN 4931314287
- 防衛研究所戦史室『戦史叢書(11) 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年
- 防衛研究所戦史室『戦史叢書(17) 沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、1968年
- 真鍋和子『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』講談社、2004年5月、ISBN 4062123584
- 宮城晴美『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年12月、ISBN 4874982492
- 宮城巳知子『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』ニライ社、2002年6月、ISBN 4931314538
- 宮良作『日本軍と戦争マラリア 沖縄戦の記録』新日本出版社、2004年2月、ISBN 4406030417
- 八原博通『沖縄決戦−高級参謀の手記』読売新聞社、1972年
- 山城高常『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』ニライ社、1995年6月、ISBN 4931314163
- 吉田健正『沖縄戦米兵は何を見たか 50年後の証言』彩流社、1996年8月、ISBN 4882024071
- 吉田久一『八重山戦日記』ニライ社、1999年3月、ISBN 4931314325
- 歴史を拓く女の会編『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』ドメス出版、2004年11月、ISBN 4810706273
[編集] 外部リンク
- 沖縄戦史
- 沖縄戦関係資料閲覧室
- 沖縄情報センター: 沖縄戦
- 沖縄県平和祈念資料館: 沖縄戦について
- 沖縄戦の記憶・本館、沖縄戦の記憶・分館
- 読谷村史 第五巻資料編4『戦時記録』
- 松山大学法学部教授・田村譲のホームページ: 沖縄戦
- 沖縄戦の経過について
- 子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会(通称「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」、代表・福地曠昭)
- 沖縄戦と住民・沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑
- 沖縄戦の経過について:アメリカの『GlobalSecurity.org』というサイトの中にある、沖縄戦についての記述である、『Battle of Okinawa』を日本語に訳したもの
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