山端庸介
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山端庸介(やまはた ようすけ、1917年8月6日-1966年4月8日)は日本の写真家、従軍カメラマン。法政大学中退。英領シンガポール生まれ、被爆直後の長崎を訪れ、被爆の実像を残した写真家として知られている。
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[編集] 略歴
- 1917年 写真スタジオを経営する家に生まれる。
- 1935年 父親からライカを譲り受け、本格的に写真を撮り始める。
- 1940年 海軍省従軍写真班員として中国大陸に赴任、以後、台湾、シンガポールなどに従軍。
- 1945年8月10日 陸軍省西部報道部の指令で、被爆直後の長崎市に入り、悲惨な状況をカメラに収める。
- 1946年 前年撮影した天皇一家の写真を、『LIFE』に掲載。
- 1947年 名取洋之助らの『週刊サンニュース』に参加。
- 1952年 GHQが原爆に関するプレスコードを解き、『LIFE』に写真が掲載される。また彼の写真が掲載された『記録写真 原爆の長崎』が刊行。
- 1966年4月18日 十二指腸癌で死去。
- 1995年 原爆記録写真の修復作業が開始。アメリカで展覧会「ナガサキ・ジャーニィー」が開催される。
[編集] 長崎での撮影
1945年7月、福岡市にある陸軍西部軍報道部に徴用され、8月6日に赴任したばかりだった。8月9日、長崎への新型爆弾投下の一報を受け、軍の命令により同じ報道部員である作家の東潤、画家の山田栄二ら5人で長崎市に向う(彼に下された命は「対敵宣伝に役立つ、悲惨な状況を撮影する」ことだったという)。8月10日午前3時ごろ、長崎市郊外の道ノ尾駅に到着、その地点で列車は不通になっていたため、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で爆心地周辺など100コマを越える写真を撮影した。8月12日、フィルムを現像。当時、従軍作家だった同僚の火野葦平の勧めで写真の内容を上司に報告しなかったという。
終戦後、写真の一部が『毎日新聞』など掲載されるが、9月以降はGHQによるプレスコードにより、原爆に関するすべての報道が規制された。
山端の写真は単に原爆の直後の惨状を記録したという点だけでなく、呆然とした表情の母子、幼子に乳を含ませる母親、かいがいしく働く看護婦の姿など、苛酷な状況に直面した人々の息づかいが伝わるような「人間の温もり」を感じさせる写真が多く含まれていることが高く評価されている。
[編集] 写真集・関連書籍
- Rupert Jenkins(ed),Nagasaki Journey: The Photographs of Yosuke Yamahata August 10, 1945(長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集),Pomegranate,1995 ISBN 0876543603
- アメリカで山端の記録写真のネガを修復し展覧会を開催したジャーナリストの編集による写真集。
- NHK取材班 『NHKスペシャル:長崎 よみがえる原爆写真』日本放送出版協会、1995年 ISBN 4140802316
- 上記写真集をもとに制作されたNHKスペシャルのプログラム(94年8月放送)を書籍にまとめたもの。
- 『日本の写真家 第23巻:山端庸介』岩波書店、1998年 ISBN 4000083635
- 原爆写真を含め、写真家として戦前から戦後に至るまでの仕事の全貌を紹介したもの。
- 徳山喜雄 『原爆と写真』御茶の水書房、2005年 ISBN 4275003810
- 『長崎の美術1 写真/長崎』長崎県美術館、2005年
- 2005年4月 - 5月に開催された、同館所蔵コレクションの展覧会の図録。山端以外に上野彦馬などの作品が収録されている。
[編集] 関連項目
- 松重美人 - 8月6日当日の広島の被害写真を撮影した報道カメラマン。
[編集] 外部リンク
- 長崎ジャーニィー:Remembering Nagasaki - 山端の記録写真を公開(25枚)しているサイト。英文。