サトウハチロー
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サトウ・ハチロー(1903年(明治36年)5月23日-1973年(昭和48年)11月13日)は詩人、童謡作詞家。旧制早稲田中学校(現早稲田中・高等学校)中退。
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作家の佐藤紅緑の長男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区東半部)に生まれる。本名は八郎。やがて父親の佐藤紅緑は舞台女優三笠万里子と同棲するようになり、父への反発から中学を落第、退校、勘当、留置所入りを重ねる(作家の佐藤愛子は三笠万里子の娘で、ハチローの異母妹に当たる)。
感化院のあった小笠原島で佐藤紅緑の弟子であった福士幸次郎と生活を共にし、影響を受ける。1919年(大正8年)福士幸次郎の紹介により西条八十に弟子入りし、童謡を作り始める。1926年(大正15年)処女詩集『爪色の雨』を出版。
1945年(昭和20年)第二次世界大戦後初めてとなる映画『そよかぜ』が公開されると、サトウハチローの作詞による挿入歌『リンゴの唄』は並木路子の歌により大流行し、戦後日本を象徴する歌となった。
1950年(昭和25年)、東京タイムズという雑誌で美空ひばりをゲテモノと批判した。(後に和解。サトウハチローの作詞曲を後に美空ひばりが歌った)
1953年(昭和28年)童謡集『叱られ坊主』を出版し、翌年これにより第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞。以後は童謡の詩作に専念し、1955年(昭和30年)『ちいさい秋みつけた』を作詞、レコード大賞童謡賞を受賞。1966年(昭和41年)紫綬褒章受章。1973年(昭和48年)勲三等瑞宝章受章。日本作詞家協会会長、日本童謡協会会長などを歴任し、同年心臓発作により死去。
母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られる反面、私生活は放蕩、奇行が多かった(佐藤愛子の長編小説『血脈』に詳しい)。一方で「木曜会」を結成し、後進の育成にも努めた。サトウハチローが自分の詞の作曲に、必ず中田喜直を指名したのは有名である。
代表作は童謡に『ちいさい秋みつけた』『かわいいかくれんぼ』『うれしいひなまつり』『わらいかわせみに話すなよ』『とんとんともだち』など。歌謡曲などに『リンゴの歌』『長崎の鐘』『うちの女房にゃ髭がある』など。他にも校歌、CMソングなど多数。また、軍歌『台湾沖の凱歌』や戦時歌謡『敵の炎』など、戦時中とはいえ後年の童謡作品からは想像もできないほど過激で激烈な歌詞の作品も残されている
別名に、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六などがある。
2005年、サトウハチローの生涯をテレビドラマ化した『ハチロー~母の詩、父の詩~』が、NHKの『月曜ドラマシリーズ』で放映され、サトウハチロー役は唐沢寿明が演じた。
[編集] その他の作品
- 二人は若い(「玉川映二」というペンネームで作詞)
- あゝそれなのに(「星野貞志」というペンネームで作詞)
- 悲しくてやりきれない
- 花売り娘
- ホームラン・ブギ
- 目ン無い千鳥
- 誰かさんと誰かさん
- めんこい仔馬
- 勝利の日まで
- リンゴの唄
- 黒いパイプ
- 長崎の鐘
- 東村山市立大岱小学校校歌