空手道
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空手道(からてどう)もしくは空手とは、琉球王国時代の沖縄で発祥した日本の武道。徒手空拳で、拳足を用いた打撃技を特徴とし、現在では世界各地で有効な武道、格闘技、スポーツとして親しまれている。現在普及している空手は素手の打撃格闘技だが、沖縄の空手には、棍術(棒術)や、節棍術(ヌンチャクなど)といった武器術も併伝し、両者は本来は同一の体術であった。また、かつては取手(トゥイディー)と呼ばれる関節技や投げ技も併伝していた。最近では、失伝した技を他の武術から取り入れて補う形で、総合的な体術への回帰、あるいは、新たな総合武道へ発展を目指す流派も存在する。
目次 |
[編集] 表記
空手は、もともと琉球王国時代の沖縄本島では、手(ティー)もしくは唐手(トゥーディー)と呼ばれていた。明治38年(1905年)、唐手が沖縄県で学校の体育科に採用された際、糸洲安恒によって唐手表記のまま、読み方が「トゥーディー」から「からて」へ改められた。
沖縄から本土へ伝えられた大正時代から昭和初期かけては、唐手の表記が一般的であったが、昭和4年(1929年)頃から徐々に空手と表記するようになった。1960年代までは唐手表記も珍しくなかったが、現在では空手の表記が一般化し定着している。また、1970年代からは、主にフルコンタクト空手の流派において、カラテやKARATEと表記されることも多い。以下では、原則として、空手表記に統一して叙述する。
15 ~ 18世紀 | 19世紀 | 1905年(明治38年) ~ | 1929年(昭和4年) ~ | 1970年代 ~ | |
手(ティー) | 手(沖縄手) | 唐手(からて) | 空手(道) | カラテ、KARATE | |
唐手(トゥーディー) |
- 表記の変遷は諸説があるが、上記の表は船越義珍説を参考にした。
[編集] 歴史
空手は、琉球王国時代に発祥した武術であるが、空手について書かれた当時の文献は現在まで確認されていない。それゆえ、今日語られている空手の歴史は、主に明治時代の空手の古老たちが伝え聞いた話に基づいている。
[編集] 起源
空手の起源に関しては諸説あるが、主なものは下記の通りである。
- 「田舎の舞方」からの発展説
- 久米三十六姓導入説
- 那覇の久米村(クニンダ)に、1392年、当時の明の福建省から「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。
- 海洋貿易輸入説
- かつて琉球の人々は中国のみならず、広く東南アジアなどの国々とも貿易を行っていた。これらの地域には、空手や琉球の武器術と類似した武術が存在する。貿易を通して、これらの国々の武術が伝来しながら、沖縄固有の武術「手」が独自に発展したとする説[2]。
他にも、シマ(沖縄相撲)からの発展説、日本から柔術が伝来した説などがある。いずれの説も、明治以降の空手家、研究者の唱える説であって、それぞれの説を裏付ける明確な歴史資料が存在するわけではない。
[編集] 琉球王国時代
[編集] 唐手佐久川の以前と以後
琉球の歴史において、唐手の文字が初めて現れるのは、唐手佐久川(トゥーディーさくがわ)とあだ名された、佐久川寛賀(1782年 - 1838年)においてである。佐久川は28歳(1806年)の時、当時の清へ留学し、北京で中国武術を学んだとされる。この佐久川が沖縄本島に持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であったと考えられる。
佐久川以降、「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退していったのであろう。一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」の区別が曖昧である。それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久川に始まるが、「手」も含めた沖縄の格闘技全般の唐手の歴史は、もちろんそれ以前にさかのぼる。以下、広義の意味での唐手(空手)の歴史について叙述する。
[編集] 禁武政策の虚実
琉球の沖縄本島で空手が発展した理由として、従来、言及されてきたのが、二度にわたって実施された禁武政策である。一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施され、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されることになった。二度目は慶長14年(1609年)の、薩摩藩による琉球侵攻後に実施された禁武政策である。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた人々が、薩摩藩に対抗するために空手を発展させたとする説が、歴史的事実であるかのように、繰り返し言及されてきた。
しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。特に薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)は、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明している。
この通達は「一、鉄砲の所持禁止。二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行う事。四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であり、武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった[3]。実際、薩摩侵攻後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られている。また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もある。それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいる[4]。
[編集] 手(ティー)の時代
さて、古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が空手(くうしゅ)にて相手の股間を蹴り上げたとの記述が正史『球陽』にあるが、この空手が何らかの格闘技であったのか、それとも単に素手の意味に過ぎないかについては、賛否両説がある。
17世紀の武術家としては、池城安頼、また湖城流の流祖とされる蔡肇功などが知られているが、彼らがいかなる武術を使っていたかについて、詳しい話は伝わっていない。このように、17世紀までの琉球の格闘技については、実態がはっきりしないというのが実情である。明確に、手(ティー)の使い手として、多くの武人の名が挙がるのは18世紀に入ってからである。西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌、真壁朝顕などの名が知られている。
また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1776年)の中に、先年来琉した公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られている。この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もあるが、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり[5]、推測の域を出ていない。
[編集] 唐手(トゥーディー)の時代
19世紀になると、唐手の使い手の名が多く挙がってくる。首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。
また、この頃から、薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼした。琉球王国末期になると、琉球士族の一部には、薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する者もあり、松村宗棍のように、実際に薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという。
さて、空手に流派が登場するのは、昭和に入ってからである。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手、泊手、那覇手の3つに大まかな分類がなされていたにすぎない。
[編集] 廃藩置県後
[編集] 唐手(からて)の公開(明治時代)
元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治12年(1879年)、琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えた。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。不平士族の中には清国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいた。開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺した。
このような危機的状況から唐手を救ったのが、糸洲安恒である。糸洲の尽力によって、唐手は明治38年(1905年)、沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校の体育科に採用された。その際、読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められた。唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びたのである。糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及んだ。生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれた。
このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいた。湖城以正、東恩納寛量、上地完文などがそうである。
[編集] 本土へ(大正時代)
最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちであったことが判明している[6]。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流や起倒流などの町道場に出向いて、突きや蹴りの使い方を教授していたとされる。
しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。大正11年(1922年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の演武を行った。これが本土における、公の場での初めての唐手の披露であった。この時の演武は、柔道の嘉納治五郎など、本土の武道家の注目を大いに引いた。翌6月にも、富名腰は講道館に招かれて、嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。
同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事は新聞や雑誌で大いに取り上げられ、それまで本土では一部の武道家のみに知られていた唐手は、一躍全国に知られるようになったと言われている。本部は翌年から関西方面で唐手の指導を始めた。船越や本部の活動に刺激されて、大学では唐手部の創設が相次いだ。
沖縄では、大正13年(1924年)、「唐手研究倶楽部」が設立され、大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。参加者は花城長茂、本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、宮城長順、許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。
[編集] 空手道の誕生(昭和初期)
昭和に入ると、摩文仁賢和、宮城長順、遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。昭和8年(1933年)、唐手は大日本武徳会から、日本の武道として承認された。これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だったが、一方でこの時、唐手は「柔道・柔術」の一部門とされ、唐手の称号審査も柔道家が行うという屈辱的な条件を含んでいた。
昭和4年(1929年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発表し、昭和9年(1934年)には大日本武徳会において、空手という名称が正式に承認された。さらに、日本の他の武道と同じように「道」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。
本土の空手は、大日本武徳会において柔道の分類下におかれていたこともあり、差別化のために取手(トゥイディー)と呼ばれた柔術的な技法を取り除き、打撃技法に特化した。また、併伝の棒術や節棍術(ヌンチャクなど)などの武器術も取り除かれた。型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の名称に改める流派もあった。さらに、沖縄から組手が十分に伝承されなかったため、本土で新たな組手を付加し、こうして現在の空手道が誕生した。これらの改変については、本土での空手の普及を後押ししたとの評価がある一方で、空手の伝統的なあり方から逸脱したとの批判もある。
[編集] 戦後
[編集] 武道禁止令と活動再開
連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手の活動は一時、停滞した。しかし、この通達には「空手」の文字が含まれていなかったため、空手は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手は他武道よりも、早期に活動を再開することができた。
[編集] 全国組織と競技空手の誕生
その後、昭和25年(1950年)には、全日本学生空手道連盟が結成された。昭和32年(1957年)には、全日本学生空手道連盟主催の「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催された。昭和39年(1964年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。昭和44年(1969年)には、全空連主催の「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。翌年には、第1回世界空手道選手権大会も開催された。
[編集] 流派の乱立と空手の多様化
このように、空手の全国化・組織化は着実に進んでいった。しかし、その一方で、空手界には多くの流派が乱立していった。昭和23年(1948年)、東京では船越義珍の門弟たちによって日本空手協会(松濤館流)が結成され、昭和32年(1957年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。しかし昭和33年(1958年)には早くも廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢のように、無流派主義を標榜する空手家もいたが、多数にはなり得なかった。 また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止めルール」に対する不満などから、大山倍達の極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイルを採用する流派もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。また、大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手に関節技や投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す流派などもあらわれた。
[編集] 型と組手
型(形とも)と組手は、空手の基本構成であり、昔からこの二つを練習することが基本となっている。しかし、いずれが主であるは、時代と共に変化してきている。かつては型の修行に最も価値がおかれていたが、近年では試合制の導入などにより組手重視の傾向にあり、またそれゆえ、両者の乖離(かいり)が問題ともなっている。
[編集] 型
型とは、一人で演武する空手の練習形式である。各種の技を決まった順序で演武し、演武時間は、型によって数十秒から数分間続く。修行者は型の練習を通じて、空手の基本的な技や姿勢を身につけるだけでなく、絶えずこれを練習することで「ガマク」、「ムチミ」、「チンクチ」といった、より高度な空手独自の身体動作をも身につけることができるとされる。
空手の型の数はすべて数えれば数十にもなり、すでに失伝した型もあれば、明治以降新たに創作された型(ピンアン等)もある。首里手、泊手、那覇手の各系統によって、習う型の種類には相違があり、また流派によっても相違がある。同じ型でも流派によって、また沖縄と本土によっても、相違が存在する。
首里手の型には、ナイファンチ、パッサイ、クーサンクーなどがある。泊手の型には、ナイファンチ(古式)、ワンシュー、ローハイなどがある。那覇手の型には、サンチン、セイサン、スーパーリンペイなどがある。
今日では、型の試合も実施され、型の演武それ自体が一つの競技とされるに至っている。試合化によって、型の完成度が高まると期待される一方、勝敗を意識して、難易度の高い型を選ぶ、同じ型でもより見栄えのするように演武する弊害、いわゆる「華手(ハナディー)」の問題なども指摘されている。
[編集] 組手
組手は、主に二人で相対しておこなう練習形式である。決められた手順に従って技を掛け合う「約束組手」、自由に技を掛け合う「自由組手」、さらには勝敗を目的とした「組手試合」が存在する。古くは変手(ヒンディー)と呼ばれていた。
約束組手以外は、本来沖縄ではあまり行なわれておらず、実際に技を試すには掛け試し(一種の野試合)を行う必要があった。また、自由組手や組手試合が整備されたのは、空手が本土に伝えられた以降である。組手試合の形式には、下に示す三形式が主流であり、ルールの細かい点は流派・会派毎に特色が見られる。
- 打撃による怪我を防ぐため、原則相手に当てない「寸止め」と呼ばれる試合形式。主に全空連加盟の各流派において行われている。
- フルコンタクトと呼ばれる直接打撃を認める試合形式。ただし、顔面への拳による攻め、金的への蹴り、膝への関節蹴りなど急所攻撃は禁じている。狭義のフルコンタクト空手。極真会館など。
- 防具着用の上での直接打撃を行う試合形式。防具空手、硬式空手の各流派で行われている。広義のフルコンタクト空手。
[編集] 空手の流派
[編集] 歴史
講道館に統一されている柔道とは異なり、空手には多数の流派が存在し、流派によって教える型や訓練法、試合規則も大きく異なる。大別すると、空手の流派は伝統派空手とフルコンタクト空手の二つに分類することができる。
糸洲安恒によれば、空手はもと昭林流と昭霊流の二派が中国から伝来したものが起源とされる[7]。前者は首里手となり、後者は那覇手となったとするのが一般的な解釈であるが、上記二派は中国でもその存在が確認されておらず、どの程度歴史的事実であったのかは、疑問の残るところである。
今日の空手流派は本土に伝来して以降のものである。最古の空手流派は、本部朝基が大正時代に命名した日本傳流兵法本部拳法(本部流)が、文献上確認できるものとしては最も古い[8]。船越義珍の松濤館流も実質的には同程度古いが、この流派名は戦後の通称であり、船越自身は生涯流派名を名乗らなかった[9]。昭和に入ってからは、宮城長順が昭和6年(1931年)に剛柔流を名乗っている[10]。その後は、知花朝信(小林流・1933年)、摩文仁賢和(糸東流・1934年)、小西良助(神道自然流・1937年)、大塚博紀(神州和道流空手術・1938年)と、流派の命名が続いた。
[編集] 伝統派空手
広義には、文字通り伝統的な空手の流派、すなわち、古流空手、全空連加盟等の本土空手、沖縄空手を含む。狭義には、「寸止め」ルールを採用する全空連の空手およびその参加流派を指す場合が多い。下記の分類はあくまで概略的なものであり、それぞれにまたがる流派も多い。
- 古流空手(古伝空手)
伝統派空手のうち、競技化、スポーツ化を志向せず、古流の空手スタイルを重視する。特徴としては、伝統的な型稽古や沖縄古来からの鍛錬法の重視、武器術の併伝などを挙げることができる。古流空手の流派には、湖城流、本部流、心道流、金硬流などがある。
- 狭義の伝統派空手
一般には本土空手を指す場合が多い。全空連に加盟し、空手の競技化、スポーツ化に力点をおいている。全空連が寸止めルールを採用していることから、寸止め空手と呼ばれることも多い。競技空手、スポーツ空手とも呼ばれる。本土空手は、剛柔流、松濤館流、和道流、糸東流が規模の上から一般に四大流派と呼ばれ、よく知られている。
- 沖縄空手
沖縄に本拠をおく空手流派である。スポーツ化の傾向にある本土空手と距離をおく意味で、近年は「沖縄空手」が一つのブランドとして用いられる場合も多い。しかし、全空連に加盟している流派もあり、特徴を一律に語ることは難しい。一般的には古流空手と同じく、伝統的な型稽古や鍛錬法の重視、また武器術や取手術の併伝を特徴として挙げることができる。沖縄空手の流派には、沖縄剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、松林流、本部御殿手、沖縄松源流、劉衛流などがある。
[編集] フルコンタクト空手
直接打撃制ルールを採用する流派のことである。極真会館などが有名である。フルコンタクト空手の流派については、同記事を参照されたい。
[編集] 段級位・色帯・称号
空手の段級位制や色帯制は、柔道を参考にして導入された。段位は大正13年(1924年)に船越義珍が発行したのが、空手史上、初めてと言われている。
帯はまず黒帯、白帯が導入された。黒帯は有段者、白帯は入門者の帯である。黒帯と白帯の中間(1~3級)には、多くの流派で茶帯を設けている。さらに、茶帯の下に、当初子供用に緑・黄・青等の色帯が導入され、今日では一般化している。段級位や色帯の詳細は流派ごとに異なるが、段位については、全日本空手道連盟が「公認段位」を設けている。
称号は、大日本武徳会が授与するものであったが、無条件降伏後、占領していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の命令によって解散させられると、その後は流派、会派ごとによって、独自に授与するようになった。称号には、範士、教士(達士)、錬士がある。称号を授与しない流派もある。
段級位 | 帯の色 | 称号 |
---|---|---|
10段 | 黒 | 範士 |
9段 | 黒 | 範士 |
8段 | 黒 | 教士(達士) |
7段 | 黒 | 教士(達士) |
6段 | 黒 | 錬士 |
5段 | 黒 | 錬士 |
4段 | 黒 | |
3段 | 黒 | |
2段 | 黒 | |
初段 | 黒 | |
1級 | 茶 | |
2級 | 茶 | |
3級 | 茶 | |
4級以下 | 緑・黄・青等 | |
入門者 | 白 |
- 上記はあくまで一例であり、流派、会派によって詳細は異なる。
[編集] 空手衣
かつては、空手の稽古は上半身裸で行われた。これは、戦前の空手写真などを見れば明らかである。『拳法概説』(昭和4年)に紹介されている喜屋武朝徳の説明によれば、裸で稽古する理由は「皮膚を強靱に鍛へると共に 力の配合を明確に意識せん」がためであるとされる[11]。喜屋武は、これは幼少の頃からの習慣であると述べているので、少なくとも明治初期から、おそらくは琉球王国時代からの習慣であったと考えられる。
この習慣は首里手に限らず、上掲の写真で宮城長順と許田重発が上半身裸で稽古していることからも、那覇手も含めた沖縄一般の習慣であったのだろう。
今日の空手衣は、本土で空手を教える際に、柔道衣を借用したことがその起源である。船越義珍が最初にこれを採用した。柔道衣と空手衣がいつ分かれたかは明確ではないが、昭和31年(1956年)の『月刊空手道』創刊号に、すでに空手衣の広告が掲載されているので、戦後しばらくしてか、あるいはすでに戦前から空手衣は誕生していた可能性がある。
空手衣の構造は今日、伝統派空手とフルコンタクト空手において、おおむね次のような相違が見られる。(詳細は流派・会派により異なる)
- 伝統派空手
- 上衣の袖は、手首までの長さ。夏の猛暑であっても、「袖まくり」は認められない。但し、道場師範の裁量で、稽古に限り黙認される場合もある。
- 裾に紐が縫い付けられており、襟を合わせた後これを結ぶことで、裾の乱れを防ぐ。
- 下穿き(ズボン)の長さは、くるぶしの位置に合わせる。
- 所属流派・会派をあらわすワッペン等を後から空手衣に縫い付けるスタイルが多く、道場を通さなくても独自に空手衣の購入が可能である。
- フルコンタクト空手
- 上衣の袖は、肘が出るか隠れる程度の長さが多く、さらにノースリーブに近いものもある。
- 下穿き(ズボン)の長さは、床に付く程度にゆったりしている。
- 空手衣には、団体名をあらわすオリジナルのロゴマークがプリントされており、道場を通じて購入する。
[編集] 教授法の変遷
琉球王国時代には、空手の教授は秘密裏に行われた。人目につかないよう夜に教えたり、場所も人里離れた墓地などで教えた。こういった秘密主義は、薩摩の在番役人を警戒する必要があったためであり、また「掛け試し」などの挑戦を避けるためでもあった。当時は道場などはなく、師匠がとる弟子の数も少数であった。
日本武術とは異なり、空手には伝書はなく、口伝と実技のみで技が伝授された。稽古は型の稽古が中心で、一つの型の習得に3年を費やしたと言われる。組手は一種の約束組手が存在したが、制度化された自由組手や試合などはなく、覚えた技を試したい者は、掛け試しなどの実戦を行う必要があった。
明治以降、空手の教授法も急速な変化を遂げた。沖縄の中学校や師範学校の体育に採用されるなどして、空手ははじめて一般に公開された。師弟との一対一の練習から、師範の号令と共に、多数の生徒が同じ動作や型の練習をするようになった。糸洲安恒が学校で子供達が学びやすいようにと、ピンアン(平安)の型を創作したのも、この時期である。
大正時代に入ると、那覇に「沖縄唐手倶楽部」などが結成され、当時の沖縄の大家たちがこれに参加して、はじめての共同研究や共同修練の試みもなされた。また船越義珍や本部朝基によって、空手史上、初めて空手書が出版されたのも大正時代であった。昭和に入ると、技に名称をつけたり、伝書の作成、組手の研究、さらには試合の導入などが試みられた。段級位制や色帯制が導入されると同時に、練習体系の合理化も進んだ。自前で道場をもつ空手家も現れ、多人数を相手に教えるようになった。
しかし、空手の近代化が進むにつれて、西洋の身体動作や運動理論の導入に対する反省も起こっている。古伝空手や沖縄空手の見直し・再評価も、近年活発である。
[編集] 韓国における空手の影響
かつて韓国では、空手道を「コンスドー」(空手道)「タンスドー」(唐手道)と呼んでいたが、韓国流に変化・発展させ、新たな格闘技とし、蹴り技に特化をし、名称もテコンドーとなった。しかし、テコンドーの起源を朝鮮半島古来の文化に求める説が流布するに従い、空手はテコンドーの亜流であるとする説まで現われるにいたっているが、実際のところその根拠はまったくなく、むしろ近代に空手や他武術を取り入れ合理的に発展してきたのがテコンドーである。
14オンスのグローブ着用で顔面有りルールの新空手もK-1人気で最近急激に競技人口が増えてきている。
青涛館創立者の李元国(イ・ウォングク)翁など1940年代中後半にテコンドーを広めるのに先頭に立った多くの元老たちが日本でカラテを修練した人々である。いまは故人になった青涛館出身のウ・ジョンニム将軍は記者との対話で、「私は空手道(コンスド)をしていて、のちに崔泓煕(チェ・ホンヒ)将軍などが主軸になって名前を変えただけだ」とも言った。 米国テコンドー発展に大きな貢献をしたATAの故イ・ヘンウン会長も、自身がはじめて米国に行ったとき「コリアン カラテ」として自身の武術を紹介して教え、実際テコンドーとカラテの差はなかったと証言した。 これらはすべて、テコンドーという武術がもともと存在せず、カラテを学んだ人々が解放後に道場を開いてカラテの韓国式発音である「空手道(コンスド)」を教え、後になって「テコンドー」という名前を使うようになったことを物語っている。
[編集] 脚注
- ↑ 安里安恒談・富名腰義珍筆「沖縄の武技」(『琉球新報』1913年1月17-19日記事)。
- ↑ 外間哲弘編著『空手道歴史年表』10頁参照。
- ↑ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』43頁参照。
- ↑ 同上、42頁。
- ↑ 藤原稜三『格闘技の歴史』640頁参照。
- ↑ 藤原稜三『格闘技の歴史』657頁参照。
- ↑ 「糸洲十訓」参照。
- ↑ 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』199頁参照。
- ↑ 船越義珍『愛蔵版・空手道一路』105頁参照。
- ↑ 外間哲弘編著『空手道歴史年表』42頁参照。
- ↑ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』184頁参照。
[編集] 参考文献
- 富名腰義珍『琉球拳法 唐手』武侠社 1922年。(復刻版・普及版)榕樹書林 2006年 ISBN 4898051170
- 富名腰義珍『錬胆護身 唐手術』広文堂 1925年。(復刻版)榕樹社 1997年 ISBN 4947667346
- 船越義珍『空手道一路』産業経済新聞社 1956年。『愛蔵版・空手道一路』(復刻版) 榕樹書林 2004年 ISBN 4947667702
- 本部朝基『日本傳流兵法本部拳法』壮神社(復刻版)1994年
- 岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』(復刻版収録)愛隆堂 2000年 ISBN 4750202479
- 小沼保『本部朝基正伝 琉球拳法空手術達人(増補)』壮神社 2000年 ISBN 4915906426
- 摩文仁賢和・仲宗根源和『空手道入門―攻防拳法』(復刻版・普及版)榕樹社 2006年 ISBN 4898051189
- 仲宗根源和編『空手道大観』東京図書 1938年。(復刻版)緑林堂書店 1991年 ISBN 94030989
- 仲宗根源和編『空手研究』興武館 1934年。(復刻版)榕樹書林 2003年 ISBN 4947667923
- 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』東京帝国大学唐手研究会 1930年。(復刻版)榕樹書林 2002年 ISBN 4947667710
- 金城裕編『月刊空手道』(合本復刻版)榕樹書林 1997年 ISBN 4947667400
- 『空手道 保存版』創造 1977年
- 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 1986年 ISBN 4404013493
- 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社 1986年 ISBN 4583026064
- 藤原稜三『格闘技の歴史』ベースボール・マガジン社 1990年 ISBN 4583028148
- 外間哲弘『空手道歴史年表』沖縄図書センター 2001年 ISBN 4896148894
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 世界空手道連盟
- 財団法人全日本空手道連盟
- 全日本学生空手道連盟
- 社団法人日本空手協会
- 全日本空手道連盟糸東会
- 全日本空手道連盟剛柔会
- 全日本空手道連盟和道会
- 日本空手道連合会
- 全日本空手道連盟錬武会
- 沖縄の伝統 空手・古武術(沖縄デジタルアーカイブ「Wonder沖縄」)