東恩納寛量
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東恩納 寛量(ひがおんな かんりょう、1853年(1852年説も) - 1915年)は、那覇手中興の祖といわれる、明治期を代表する唐手(現・空手)の大家である。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
東恩納寛量は、1853年、那覇西村の薪売り商人、東恩納寛用の四男として生まれた。唐名は慎善煕、童名は真牛。父・寛用は慶良間から山原船という小舟で薪を運搬して、那覇で薪を売ることを生業としていた。東恩納家は当時は平民であったが、寛量の後裔によれば、元々は士族・慎氏の支流(分家)であり、父・寛用はその九世にあたるという。
[編集] 那覇手修行時代
東恩納は家計を助けるため10歳頃から家業を手伝っていたが、明治6年(1873年)、20歳(17歳とも)の頃、那覇手の新垣世璋(1840年 - 1920年)に唐手を師事することになった。新垣が久米士族以外は門外不出であるはずの那覇手を東恩納に伝授した理由は不明だが、一説には新垣家が東恩納家の得意先であり、薪を売りに家に出入りする東恩納を見て、並々ならぬ素質を感じたからともいわれている。東恩納は新垣のもとで3年間ほど那覇手を師事した。また、新垣に師事した後、新垣が通事(通訳)として中国へ渡航することになったため、湖城流の湖城大禎に一時期預けられ、そこでも修行したとの説もある。こうして、東恩納は那覇手の大家に師事する幸運に恵まれ、その天分を直ちに開花させたといわれる。
[編集] 中国武術修行時代
東恩納は、明治10年(1877年)頃(他に明治5年説あり)、中国への渡航を果たした。東恩納が中国へ渡航した理由は、拳法修行説、出稼ぎ説、頑固党(中国派)の琉球王族、義村御殿の義村朝明の密使説など諸説がある。いずれにしろ、東恩納は渡航した直後は、当地で薪売りをしていたとも、薬売りをしていたとも言われるが、やがて中国武術の大家ルールーコウ(トゥルーコウとも)に師事することになった(ワイシンザンに師事したとの説もあり)。
最初、言葉が不自由だったこともあり、また当時の武術修行の常として、東恩納はなかなか本格的な武術の教授をしてもらえなかった。歩法と呼吸法の稽古ばかりを4、5時間もさせられ、他は師の雑用ばかりだったという。しかし、あるとき起こった大洪水のおり、東恩納は命がけで師匠の家族を救ったことでルールーコウの信頼を得、師から本格的な武術教授を受けることになったといわれる。その後、東恩納はルールーコウの中師匠(師範代)にまでなるほど、その技量を認められるようになった。
東恩納が中国に滞在していた期間については、複数説があり結論が出ていない。15年説(長嶺将真など)、3年説(宮城長順、比嘉佑直、知花朝信、東恩納寛量の孫など)、さらには往復の渡航期間を除くと1年4ヶ月が実質の滞在期間だったとする研究者もいる(渡嘉敷唯賢)。ほかに8年説、10年説、16年説、30年以上説などもある。また、渡航も複数回説があるが、当時、中国への渡航は厳しい管理下にあり「脱清」は容易でなかったことから、これには否定的な見解があり結論は出ていない。それゆえ、東恩納寛量が帰国した歳も、24歳説から41歳説まで様々である。
[編集] 帰国以降
帰国後、東恩納は那覇で道場を開いたが当初は思うように弟子が集まらなかったという。しかし、明治35年(1902年)頃には、許田重発、宮城長順ら、のちの高弟となる若者たちが相次いで入門した。東恩納の弟子には、他に摩文仁賢和、比嘉世幸、遠山寛賢などがいる。大正4年(1915年)、東恩納は持病の気管支喘息が悪化して弟子達が見守る中、死去した。
[編集] 参考文献
- 岩井作夫『古伝琉球唐手術』愛隆堂 ISBN 4750202037
- 金城昭夫『空手伝真録』チャンプ ISBN 4902481359
- 長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社 ISBN 4404013493
- 『月刊空手道』2005年9月号 福昌堂