東急3000系電車 (初代)
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東急3000系電車(とうきゅう3000けいでんしゃ)は、かつて東京急行電鉄に所属した電車のうち、1920年代後半から1960年代中盤にかけて製造された旧型電車のグループを総称した呼称である。したがって、厳密には個々の形式に関する正式呼称ではない。
2006年現在、既に東急線からは全車撤退している。
[編集] 概要
これらの車両の前歴は、東京急行電鉄成立以前の目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄や池上電気鉄道からの引き継ぎ車、東急成立後の新造車など、非常に多彩である。また木造車の鋼体化車、国鉄や旧大東急時代他線区の戦災復旧車なども含まれる。製造・運用時期が太平洋戦争前後にまたがる車両群であるだけに、戦争の影響で改造・廃車・転用・譲渡などの大きな転変を余儀なくされた車両が少なくないのも、このグループの特徴である。
すべて間接自動加速直並列抵抗制御、吊り掛け駆動方式の自動ブレーキ車で、全長16~18m級の3扉ロングシートであった。多くが半鋼製車であるが、デハ3200形等全鋼製車も存在し、また戦後1950年代末以降のアルミサッシ化や室内更新による近代化、東横車輌碑文谷工場で新造されたいわゆる“東急標準車体”への車体載替更新(単に戦災等による状態不良車体の交換だけでなく、デハ3450形3472のように事故車の代替車体となったものや、サハ3250形のように台車まで含めた完全新造車もあった)によって全金属車体になるものも現れるなど、その構成は非常に複雑である。
1970年代初頭まで東横線運用に充当され、また開業間もない頃の田園都市線では主力車として、何れも最大5~6連で運用された。また、その末期には目蒲線・池上線で下り向きに制御車を連結するか、付随車を中間に挟んだ3両編成で運用された。1989年3月18日の目蒲線を最後に旅客運用からは一斉撤退、事業用車として使用されたものや休車留置されたもの等も1994年までに全て除籍され、形式消滅している。また、この3000系列の引退によって東急の営業用鉄道線車両は全て回生ブレーキ装備車両となった。
東急に最後まで残存していたのは、1931年製目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄モハ510形を前身とするデハ3450形、および1939年製東京横浜電鉄モハ1000形を前身とするデハ3500形を中心とするグループであった。3450形を除いては張り上げ屋根化改造やヘッドライト位置の改造などが施されて、ある程度近代化された形態を備えていた。
1947年以降、比較的古い車輌や運用面で支障のある車輌が地方私鉄に譲渡されるようになったが、1960年代以降は他社譲渡が本格化、一形式の大半が移籍した弘南鉄道や名古屋鉄道をはじめ、全国各地の私鉄に譲渡された。近年まで十和田観光電鉄に少数が残存していたが、同社においてもイベント用のモハ3603を除き現役を退いている。
[編集] 形式各説
1942年に東京横浜電鉄が小田急電鉄・京浜電気鉄道を合併し、東京急行電鉄(いわゆる「大東急」)が発足した際、合併各社毎に異なっていた型式番号を整理するため、改番が実施された。
この結果、旧東京横浜電鉄(目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道、東京横浜電鉄(旧))引継車については3000番台が付番されたものである。以後「大東急」解体後もこの付番原則は踏襲され、1954年に5000系(初代)が登場するまで、東急の鉄道線用の電車はすべて3000番台が与えられていた。
以下、形式ごとに解説する。
[編集] デハ3100形→サハ3100形
元は東京横浜電鉄のデハ100形(101~112)で、12両が藤永田造船所で製造された。
101~105は、東京横浜電鉄開業用として1925年に製造されたものであったが、竣工直後に目黒蒲田電鉄デハ30形と交換で同社に譲渡されており、当初は東京横浜電鉄の車両として使用されなかった。106~112は、目黒蒲田電鉄が1926年に製造した同型の増備車である。
16m級両運転台3扉(定員110名(座席44名、立席66名))、リベット組立の半鋼製車体で、関東地方では前年の京浜電気鉄道デ51形に次いで導入された、最初期の鋼製電車である。この時期の電車としては珍しく、丸屋根を用いた近代的な外観を持つ。
竣功当時は木造ボギー車によく見られるトラス棒を台車間に装着。集電装置はパンタグラフとトロリーポールの2種を装備していたが、ほどなくトラス棒、トロリーポール共に撤去されている。側窓は竣功時一段下降式であったが、こちらも二段上昇式に改良されている。
107~112は1927年に、101~106についても1928年に東横に譲渡されて結局全車が東横に集結、1934年の目蒲への合併時にモハ100形と改められた。1942年には、全車が東急に引き継がれ、デハ3100形(3101~3112)となった。
のち車体延長改造が行われて他形式と全長がほぼ揃えられ、かつ乗務員室も乗務員扉を持つ全室運転台とされた。更に昇圧準備のため1957年に3101~3109が電装解除・付随車化されサハ3100形(同番)となり、電動車で残った3110~3112は翌1958年、上田丸子電鉄に譲渡された。サハ3100形についても1966年から1970年までに全車が廃車され、4両が他社(近江鉄道、熊本電気鉄道、加悦鉄道、日立製作所)に譲渡された。
現在加悦SL広場に1輌が現存している(サハ3104)が、加悦鉄道での現役当時はステップ付加程度の改造で、東急グリーン塗装のまま客車として森製作所製の小型ディーゼル機関車(通称“森ブタ”)に牽引されるという特異な使用実態であった。僅か数年で引退したのち、広場開設時に外板の大半が剥がされて休憩所となり、広場自体が移転した現在はカフェ“蒸気屋”に改造され、原型とは似ても似つかない形態となっている。
他3社ではいずれもデハ3150、デハ3200とあわせて譲渡され、近江では中間サハのまま、熊本では制御車に改造、また日立製作所では蓄電池式電気機関車に牽引されて職員輸送客車として使用されたが、いずれも老朽化が激しく、数年で廃車された。
[編集] デハ3150形(→クハ3220形)
当初は目黒蒲田電鉄のデハ200形(201~206)で、大井町線開業用に1927年、川崎造船所で6両が製造された。デハ100形と同様の両運転台型3扉の半鋼製車であるが、全長が17mに伸び、定員も120名(座席44名、立席76名)に増加した。
本形式は、川崎造船所が昭和初期に製造した「川造形電車」の一つである。川崎造船所は1926年の阪神急行電鉄(阪急。現・阪急電鉄)600形電車以降、リベットの多い車体と深い屋根、魚腹形台枠などの共通した特徴を備える16~17m級の重厚な全鋼製電車を、西武鉄道、長野電鉄などいくつかの私鉄向けに1929年頃まで生産した。これらを指す鉄道ファン間での分類用語が「川造形電車」である。
目蒲の場合は開業時導入されたデハ1形が、阪急の創始者小林一三の進言で当時の箕面有馬電気軌道(阪急宝塚線ほかの前身)に在籍した小型車のコピー的形態を採っていた例があり、院電の中古車が目蒲を経由して阪神急行に転出したこととあわせ、開業まもない頃の目黒蒲田電鉄における、阪急の影響力が伺われる。
1929年に204~206が東横に譲渡され、同年、203は「3」が「惨」に通じるとして忌み番回避のため200に改番された。モハ200形への改形式を経て、全車が東急に引き継がれ、デハ3150形(3151~3156)となった。3152と3154は戦災に遭い、1947年にクハ3220形(3223,3224)として復旧。残った4両は1953~54年にかけて片運、全室運転室化され、窓配置も1段窓を除けば後続のデハ3400以降と同様なd1D4D4D2のいわゆる関東型配置(1930年代~1950年代の関東私鉄で典型的に見られた通勤電車のドア・窓配置レイアウト)となった。
復旧車クハ3220形3224号は、更新でサハ3360形3362号となった際、余剰となった車体がしばらく元住吉構内で台車無しの詰所として使用されていたが、1958年、碑文谷工場で加修の上、上田丸子電鉄に譲渡された。上田では旧伊那電気鉄道の木造車クハ260形261の鋼体化に充てられ、クハ270形271となった。1969年の廃止まで丸子線で使用されていた。
残るデハ3150形4両は、1957年の昇圧を経て主に池上線で運用され、1966年から翌年にかけて近江鉄道及び熊本電気鉄道に譲渡された。
[編集] デハ3200形(→クハ3220形)
当初は目黒蒲田電鉄のデハ300形(301~305)及びクハ1形(1~5)で、デハ200形の増備車として1927年に川崎造船所で製造された。デハ200形の電動機出力が75HPであったのに対し、デハ300形は速度向上と将来の昇圧を見据えて100HPとされ、電動機の大型化により台車の軸距が200mm伸びているが、車体関係は同一である。
1928年にクハ5が電装されデハ306となり、東横に譲渡された。残るクハ1~4も1930年に電装され、モハ311~315(313欠)となった。デハ200形と同様に「3」を忌み番としたため、1929年頃に303を続番の307に改番している。全車が東急に引き継がれ、デハ3200形(3201~3210)となった。3203と3206は戦災に遭い、1947年にクハ3220形(3221,3222)として復旧、主に池上線で使用された。
3222号は更新でサハ3360形3361号となった際、余剰車体が碑文谷工場で詰所として使用されていたが、1958年クハ3224同様再生工事が実施され、上田丸子電鉄に譲渡された。旧伊那電の木造車モハ5260形(5261)の鋼体化改造に充てられ、モハ5270形5271となり、1969年の廃止まで丸子線で使用されていた。
残るデハ3200形は1954~55年、デハ3150形同様の全室片運化改造、1957~58年に昇圧改造がなされた。主にサハ3100、3350形を中間に挟んだ3連を組み、その末期には池上線を最後の運用テリトリーとした。1969年に3204が荷物車デワ3042に改造された。残りは1968年から1970年までに廃車となり、3209と3210が日立製作所に、3202が東急車輛製造に譲渡されている。
[編集] デハ3250形
元は池上電気鉄道のデハ100形(101~105)及びデハ200形(201~203)である。
デハ100形は、1928年に汽車会社で製造された池上初の半鋼製車で、両運転台型17m級の3扉車である。両形式はもともと同形車として計画されたが、前面が非貫通になるなど車体構造に若干の設計変更が行なわれたため、1930年に竣功した3両は別形式(デハ200形)となった。全車が目黒蒲田電鉄に引き継がれ、1934年にそれぞれモハ120形(120~124)、モハ130形(130~132)に改番。さらに全車が東急に引き継がれ、両形式を統合してデハ3250形(3251~3258)となった。
本系列の弱点は制御器にあった。旧東横・目蒲系の電車は、米国GEが開発したPC系制御器の流れを汲む日立MMCや国鉄型CS-5などの制御器を搭載し、比較的自由に連結が可能であったが、池上引き継ぎの本形式のみは英国イングリッシュ・エレクトリック(en:English Electric)系のデッカー式制御器を搭載しているため、互換性を欠いて他車と併結できず、運用面での使い勝手は良くなかった。
このため、規格型やモハ63形の割り当てと引き換えに、終戦後大手私鉄各社に課せられた地方私鉄への車両供出命令に乗じて早々に整理対象となり、1948年から1949年にかけて全車が地方私鉄に譲渡された。3251・3252が静岡鉄道に、3253・3258が庄内交通に、3254~3257が京福電気鉄道(福井)に移っている。いずれの鉄道でも、比較的大型の半鋼製車であったことから主力車として重用されたが、庄内交通は1975年3月の鉄道線廃止とともに、他の2社でも1970年代後半までには廃車されている。静岡鉄道では1969年に大規模な更新修繕が行われ、窓配置はそのままに片運転台、ノーシル・ノーヘッダー、バス窓、鋼板張り上げ屋根となり、前面も300系などと同様になるなど大幅にイメージチェンジしたが、1000系の増備によりわずか6年で廃車となった。
[編集] デハ3300形(→クハ3230形・クハ3300形)
元は目黒蒲田電鉄のモハ150形(150~161。153欠)である。
1937年及び1940年に木造車のモハ20形(21~25)、モハ30形(2代)(30~35)の車体を川崎車輌で鋼体化したもので、いずれも元は旧院電(明治末期から大正中期製造の、初期の国鉄電車)の払い下げ車である。
モハ20形(21~24)は、目蒲が1924年に鉄道省デハ6250形の払い下げを受けたもので、元は1909年製の国有鉄道初のボギー電車1~10号(後のホデ6110形→ナデ)の一部である。25は1925年にデハ6285形の払い下げを受けたもので、当初はデハ41形(42)と称した。目蒲への院電の払い下げは、3形式22両に及んだが、大半は短期間の内(一部は全く使用されずに)に他社(駿豆鉄道、福武電気鉄道、阪神急行電鉄、芝浦電気)に譲渡されてしまっていた。
一方、モハ30形(30~39)は旧池上電気鉄道のデハ20形を引き継いだもので、1926年にデハ6310形の払い下げを受けたものである。なお、36~39は後述のサハ1形(サハ3350形)となっている。
旧台枠を利用したため全長15.9mの小型車で、オーバーハングも木造車そのままに短い。平妻形のシンプルな造形で、扉幅は1mとなった。
全車が東急に引き継がれ、1942年にデハ3300形(3301~3311)となった。3302,3303の2両が戦災に遭い、クハ3230形(3231,3232)として復旧。3311が1953年から1957年の間、一時的に電装解除されクハ3300形(同番)となっていた。クハ3230形は歪みの著しい車体で有名であったが、1958年、それぞれサハ3360形3364・3363となり、旧車体は解体された。
晩年は小出力であることから全電動車3両編成を組み、池上線で運用された。全Mゆえに旧型車の中では加速が抜群に良かったと言われる。中間に入った3305・06・11は前面側も貫通化されたが、前照灯、尾灯、ATS等は設置されず、この前面が東急で先頭に立つことは無かった。
廃車は1975年から始まり、その大半が地方私鉄に譲渡された。3306~3309が京福電気鉄道(福井)に、1976年に3301,3304,3305が福島交通に、1979年に3310が上田交通に移っている(3310は75年からの同社貸出を経て譲渡。両運転台化された)。3311はサハ3366に台車を譲り解体された。3306は京福ではじめて貫通前面が先頭に立つことになった。既に譲渡各社とも廃車され現存しない。
[編集] デハ3400形
元は目黒蒲田電鉄のモハ500形である。1928年に川崎車輛で5両が製作された。後の3450形、3500形に受け継がれるいわゆる東急スタイルの原点となる車両である。東急誕生後デハ3400に改称された。
戦後の一時期神中線(旧・神中鉄道線。現・相模鉄道)の応援車両に充てられ、狭軌化と自動連結器装備が行われた湘南線デハ5230形(後の京浜急行電鉄デハ230形)と共に運用された時期がある。
のち、全車に対し全室運転台・前面貫通化、デハ3405を除き片運転台化された。3405のみ両運で残り、白地に黄色と赤のカラフルな塗装を施されこどもの国線で使用された。また本車の下り向き運転室のみ戦前以来の片隅式のままであった。3450形以降のような大規模な更新修繕は結局行われず、3401~3404は池上線、3405はこどもの国線での運用を最後に、1975年に東急での営業運転を退いた。その後は、3403・3404が弘南鉄道へ譲渡、3405が単行可能な両運転台構造を活かして東急車輛の業務用となったが、いずれも現存しない。
[編集] デハ3450形
元は目黒蒲田電鉄および東横電鉄のモハ510形である。(旧車番510~565。但し末尾3は欠番)
1931年より36年にかけて川崎車輛(44両)及び日本車輌製造(6両)にて計50両製造されたが、双方車体の一部や台車などが異なり、晩年の改装後もすぐ見分けがついた。戦前の私鉄高速電車としては、単一形式の最多量産記録である。東急成立後、デハ3450形(3450~3499)へと改称されている。初期の10輌は、パンタグラフ2台搭載を考慮して、非パンタ側にもパンタ台が存在した。登場時パンタグラフの信頼性がまだ不十分であり、パンタ故障時も運用継続を可能とすることが理由といわれている。
本形式に採用された日立HS267系主電動機はその後登場した戦前型各形式に採用され、部品標準化に大いに寄与した。長寿で知られる本形式だが、モーターの互換性はその一因であろう。端子電圧750V時の定格出力94kWは、当時の関東私鉄電車用としては平均的でさして高出力ではないが、回転数が1000rpmと釣掛電動機としては比較的高く、これが小型化にも寄与している。
当初両運転台車であったが、のちに3450、3498、3499の3両を除き、片運転台化されている。その後大半の車輌に対し正面貫通化、更に室内更新にて窓の拡大・アルミサッシュ化及び室内壁面のアルミデコラ化、床のリノリウム張り化が行われた。但し床面の鋼板化はなされておらず、木製の床板にリノリウムが張られていたため、扱い上は半鋼製のままである。なおデハ3472のみは、二子橋の併用軌道上でダンプカーと接触事故を起こし、急遽東横車輌碑文谷工場で製造されていたデハ3600形用(3601説と3607説がある)ノーシルノーヘッダー全金属新製車体を転用して車体載せ替えが行なわれている。両運車3輌は、事業用として継続使用する計画であったことから、80年代初頭に室内更新時未改修であった屋根鋼板の張替え、床板の木製→鋼板リノリウム張り化等が行われた。但し3500形のような張り上げ屋根、シールドビーム化等は行われていない。デハ3498は引き続き荷物電車に改造され、デワ3043となった。
運用範囲は(旧)新玉川線を除く鉄道全線に及び(但し、軌道検測車牽引のため夜間の新玉川線入線は存在した)、東横線では1972年まで使用された他、開業当時の田園都市線では事実上の主力として、鷺沼以遠の分割2連運用にも重用された。田園都市線・大井町線分割後も1981年まで大井町線で、全電動車ないし4M1Tの5両編成で使用された。晩年は目蒲・池上両線で使用され、下り方にクハ3670・3770・3850形を連結したMMTないし、中間にサハ3360・3370を挟んだMTMの3連となった。中間にサハを連結した合計8両については、電源集中化等後述のデハ3500・3650と同様の改造が行われて3両ユニット化された(張り上げ屋根化や前尾灯改造はされていない)。またこれらに限って、後年黒地白抜きの電照式方向幕が装備されている。その他についてもある程度固定編成化されており、中間に入るものは、下り向き車を中心に前照灯、尾灯、ATS等が無いものも少なくなかった。
本形式は車番とはほとんど関係なく、両運転台・片運転台、貫通・非貫通、貫通扉、客扉、尾灯、床下機器配置、向き等、様々な形状的差異が存在し、細かく見ていけば同じ形態のものはふたつと無いと言われる。実際1985年の「鉄道ピクトリアル」の増刊をはじめ、複数の愛好者がそれぞれ独自の視点で50両全車の形態分類を実施している。このような無秩序な形態の差異は、かつて元住吉検車区構内に転車台が存在し、車輪の片減り防止のためしばしば方向転換を行っていたこと、更新改造の順序が車番と順不同で行われ、50輌全車を8年程度の長期に渡って更新したうえ、年を追って更新内容が変化したことがあげられる。
登場から50周年を迎えた1981年から廃車が本格化し、1989年3月18日、デハ3500・3650形と共に旅客営業の第一線から一斉に退いた。東急引退後は、地方私鉄等へ営業車として譲渡されることはなかったものの、次のように保存、利用された例がある。
- デハ3456:車体切断のうえ、電車とバスの博物館へ保存。前部が晩年の姿のまま駆動装置の構造理解の教材として、後部はモハ517へと復元されシミュレーターとなっている。特に後者は実際に自動空気ブレーキの操作が体感できるという点で極めて珍しいものである。
- デハ3455、3469:千葉県の自閉症・知的障害者援護施設“いすみ学園”で保存、利用。デハ3455は休憩室及び入所者の自立支援プログラムのひとつとして、電車の乗車方法についての訓練に用いられている。デハ3469は倉庫となっていた模様であるが、現存しない。
- デハ3464:VVVFインバータ制御等の試験車となっていたデハ3552の伴車として、日立製作所へ譲渡。デハ3552走行不能時等の牽引用として使用された。後年は試作シングルアームパンタグラフを搭載していた。現存しない模様。
- デハ3466:1985年の東京国際映画祭の折、サハ3372と共に当時のニューヨーク地下鉄ばりのグラフィティが施され、渋谷東急本店駐車場に展示(店舗として使用されたとも言われる)された後、そのまま国土計画(現・プリンスホテル)の手に渡って軽井沢に移送されていたが、ほどなく解体処分されている。
- デハ3460、3480:東急車輛へ。牽引車等としての使用実績はなく譲渡理由不明。ほどなく解体処分された模様。
- デハ3499:構内入替と新車搬出時の牽引車としてデヤ3001と共に東急車輛へ。後継として7000系導入後は使用停止となり、2006年現在同社横浜工場敷地内で保管されている。
- デワ3043(旧デハ3498):長津田車輌工場入換用として使用されている(無車籍)。2006年現在は山側に大扉が設けられ、レモンイエローにブルーのツートンカラーとなっている。詳細はデワ3040形の項を参照のこと。
2006年現在、入換車デワ3043、電車とバスの博物館のモハ510(デハ3450)、デハ3456の他、いすみ学園のデハ3455、東急車輛のデハ3499の現存が確認されている。
50年以上に渡り他社譲渡を生じることなく、ほぼ全車が1980年代まで運用された希有な存在であった。日本に限らず先進国の大都市近郊路線で、1980年代に至るまで戦前製の電車が大量に使用された事自体が珍しい。他にはアメリカのシカゴサウスショアラインやドイツのベルリンSバーン等といった例があるが、いずれも何らかの事情を抱えた比較的特殊な例である。
要因としては以下のような点が挙げられるであろう。
- もともと頑丈な構造であった(ただし末期には一部車両で経年劣化による台枠垂下も生じていた)。
- 主電動機・主制御器はじめ主要機器が戦前における優秀品で揃えられており、かつ互換性・信頼性が高く、安定した装備であった。
- 田園都市線の開業と、その後の開発に伴う爆発的な旅客需要増に対する車輌増備に追われ、旧型車の置き換えが後回しにされる傾向があった。
- 本線運用を退いた後も、目蒲・池上線などの、運用に適切な路線が存在した。
- 当初3450形→3500・3650形の順に淘汰し、これらの中から地方私鉄譲渡は積極的に行い、5000系はその後淘汰するという計画であったが、1977年の長野電鉄以降、地方私鉄からは一部を除いて5000系に譲渡希望が集中し、結局5000系と戦前型の淘汰時期を差し替える事態となっていた。
このように寿命を長らえ、その後登場した5000系等の“前衛的”高性能車群、更には7600系インバータ車に伍して運用された本形式であったが、さすがに末期ともなると(同時期に運用された3500形等も含め)経年劣化や接客設備の陳腐化は否めなかった。加えて、もとより起動時のショックが大きく、吊り掛け駆動の騒音が他社吊り掛け車よりも激しいうえ、旧型台車は特に高速走行時のピッチングが酷く、乗客からは乗り心地の悪い旧型車と不評を買った。現役末期にはコミックソング「目蒲線物語」(作詞/作曲/歌・おおくぼ良太、 1983年発表。俗に『目蒲線の歌』とも呼ばれる)が作られ、冷房もない緑色の旧型車3両編成を貧乏くさく揶揄する歌詞が世間から受けたほどであった。
[編集] デハ3500形
元は東横電鉄のモハ1000形である。1939年より川崎車輛にて22両が製造された。東急成立後、デハ3500形へと改称されている。
大正末期に出現し、昭和に入るや急激に成長を遂げた鋼製車体の製造技術が、10数年を経て一応の円熟期を迎えた頃の電車である。それだけに一部にリベットが残るものの、全体的には非常に均整の取れたスタイルとなっていた。
製造当初、将来路線を標準軌に改軌して横浜から京浜電鉄(現京急)へ乗り入れることを想定していたことから、台車は標準軌用への改造が可能な長軸台車が使用されている。また、日本の電車としてはいち早く、加速を滑らかにする効果のある多段制御器(日立MMC形電動カム軸式)を搭載したことも画期的であった。
戦後は片隅両運から全室片運とされ、更には中間にサハを挟む為に偶数車の方向転換が行われた。また、前面の貫通化は後述のデハ3508を除き行われていない。このため、デハ3450形のように車輌によって向きがまちまちであったり、貫通・非貫通の差異などの著しいバリエーションは無く、更新後に前面中央窓が1段ないし2段であったり、側ドア窓の大小がある程度で形態的な個体差は少ない。
その中にあってデハ3508は、戦時中に発生した火災からクハとして応急復旧され(クハ3657)、1950年に後世のステンレス車を彷彿させる試験塗装編成(銀バス塗装)へ組み込まれ、1959年には唯一の前面貫通・ノーシルノーヘッダー車体への更新改修が行なわれるという大きな転変をたどった。また、デハ3513も元住吉工場での改修中に全焼し、1951年東急横浜製作所で復旧している。復旧後は3500型中で全室片運のトップを切り、リベットレス車体となったほか、蛍光灯照明導入でひときわ目を引いたが、晩年はベンチレータ配置に微妙な差異があるほかは他車と大きな違いは無かった。
窓のアルミサッシュ化などの車体改装を経て、サハ3250・3360・3370形を中間に挟んだMTM3連固定編成化に伴うサハへの電源集中化(MG撤去)が行われた。末期にはさらに屋根張上げ化、前尾灯のユニット化(腰部両側へ)、行先表示板の電照方向幕(黒地白抜き)化などの改造が行なわれ、原型から著しく隔たった外観となった。前照灯を失った前面上部には、当初方向幕を取り付ける計画もあったが結局実現せず、屋根の深さが目立ってしまういささか異様な形態から、「海坊主」などという渾名がついた。80年代初頭までは全て目蒲線所属であり、晩年に2~3編成が池上線に転属したが、引退まで目蒲線の主力として使用された。
本系列については、1989年の廃車後、他社への転出は生じなかった。デハ3501はしばらく長津田検車区に留置された後除籍、私立サレジオ学園に譲渡され、売店として使用されたが、のち解体されて現存しない。なお、本形式の標準軌に改軌可能な長軸台車に着目した高松琴平電気鉄道から譲渡の打診があったものの、使用を目論んでいた長尾・志度線の重量制限を超過していることから実現には至らなかった。
[編集] デハ3550形
本来デハ3550形は別項クハ3650形とペアとなる電動車として企画されたものだが、こちらは当時東急に合併されていた旧帝都電鉄線の井の頭線への戦災応援車として充当されて1700形となり、東横線系統では「幻の車両」に終わった。 実際に東横線に投入されたデハ3550形はこれとは直接的には無関係であり、かつ全4輌中デハ3551・3552とデハ3553・3554とでは経緯も車体形状も大きく異なる。
デハ3551・3552は1953~1954年、応急復旧車クハ3221・3223を種車に東急車輛で車体新造し、電動車として復帰したもの。車体形状はクハ3850形と同様とされたが、当時最新鋭の台車を装備したクハに比べ、こちらの台車は流用品のイコライザー式・川車3150型であり、主電動機等も3150型のものであるなど、足回りは若干貧弱な印象がある。終始両者が同方向に連結した状態で使用され、クハ3850型が連結されると同形態での編成美を見せた。なお旧車から流用されたのは台車と電装品の一部のみで、台枠等の車体関係部材の流用は無い模様である。
一方デハ3553・3554は共に終戦直後の井の頭線からの転属車で、前者が1959年に旧帝都電鉄のデハ1401を、後者は1964年に旧小田急のデハ1366を種車として、共に東横車輌の手により更新された。車体形状は後のデハ3600型全金属車体車などと同様のノーシル、ノーヘッダー構造だが、3553は取付式前照灯で連結面切妻、3554は埋込式前照灯で連結面平妻丸屋根という差異がある。なおデハ1366の旧車体は、改造のうえデワ3041の木造車体と交換され、1981年まで使用された。
2輌共台車は川崎K-3という一体鋳造の独特なもので、主電動機も東芝SE139Bという、いずれも旧帝都電鉄に由来する東急では唯一のものを使用していた。この予備品確保が困難な超少数派の台車・主電動機が、更新車体を持つにも関わらず早々に営業運転から外されるに至った一因と見られる。3551・3552も台車・電機品が古く、標準から外れることもあり、4輌共池上線の運用を最後に1975年旅客営業から撤退した。
デハ3551は、1977年に民鉄初と言われた架線検測車デヤ3001に改造され、1993年まで在籍、その後東急車輛へ譲渡されている。デハ3552は日立製作所へ譲渡され、黄色と青という東急旧塗装を思わせるいでたちで、VVVFインバータ制御の試験車両としてその技術の先鞭をつけたほか、ミニ地下鉄用リニアモーター駆動の基礎試験等にも活用された。デハ3553・3554は揃って豊橋鉄道へ譲渡され、降圧改造及び3554は方向転換、電装解除のうえ、それぞれモ1731+ク2731として渥美線昇圧の1997年まで使用された。なお、モ1731は末期において、旧型国電からの流用であるDT12台車を装備していた。
[編集] デハ3600形・クハ3670形・クハ3770形
1948年より、戦災焼失等で損傷した省線電車(モハ30・50形などの17m車)の車体等を譲受け、再生復旧工事を施す形で製作された車両である。
デハ3600、クハ3670、クハ3770の3形式、計37両が投入されている。クハが2形式に分かれるのは、昇圧を控えた時期ゆえ、クハ3670が600V/1500Vの複電圧であるのに対し、クハ3770が600V専用仕様であることによる。全線が昇圧した後は機能的差異は皆無であった。
3形式共、元の焼け鋼体を“叩き出し”で復旧した、いわゆる応急復旧車と、台枠のみを流用して車体を新造したグループに大別される。いずれも国鉄定規の2800mm幅であったため、特認のうえ限界拡張を行った東横線・目蒲線のみで運用された。
応急復旧車グループは種車がまちまちのうえ、焼損度合いも異なっており、中にはデハ3601(種車は系列中唯一の旧モハ31形)のように事故復旧車ではあっても「焼け車体」ではないものもあった。このため、比較的“見られる”状態のものから、素人目にも傷みや外板の凹凸が判別できるものまで、各車毎に相当に状態が異なったという。また、クハは屋根の厚みが省電時代のままのものと、東急の車両定規に合わせた薄いものが混在しており、薄いタイプは電装化に備えてパンタ台を装備していた。
台枠流用グループは、鉄道省モハ50形の流れを汲みながら、屋根が若干薄い形状を基本としている。これは種車が更にまちまちで、17m省電はもとより、20m級のモハ40系等から、ホハ12000系等の中型木造客車、メーカーのストック品を流用した事実上の車体新製車まであった。20m車は台枠の切り詰めがなされ、客車を種車とするものは台枠裾からその素性が伺えた。クハにパンタ台があるのは応急復旧車グループ同様である。
更にメーカーによっても、新日国工業、汽車会社、日本車輌のそれぞれでディテールや仕上がりに差異があった。
1961年に開業した伊豆急行線は車両不足のため、親会社である東急から車両貸出措置が行われた。本系列からも4輌が貸し出され、中でも鉄道省モハ30系応急復旧車であるデハ3608は両運転台化改造も併せて実施され、開業前の試運転にも使用された。当初は紺と山吹色の東急色で、その後ハワイアンブルーとペールブルーに塗り替えられ、予備車の他3608は貨物牽引等も充当された。当時の伊豆は首都圏からの新婚旅行スポットでもあり、新車を期待した観光客には不評を買ったが、東急入線前の新車7000系等と共にしばらくの間運用され、伊豆急自社持ちの車両増備が進んだ1965年までに返却された。
1960年より応急復旧車を対象に更新工事が行なわれ、ノーシルノーヘッダーの全金属製車体に乗せ替えた。これは従来の国鉄定規ではなく、地方鉄道定規の2744mm幅とされたため、大井町・池上等鉄道全線で運用が可能になった。主電動機は当初鉄道省払い下げのMT7・9・10やMT30・40等を使用していたが、晩年は142kWの日立HS269モーターを装備しており、おとなしい見かけに反して、出力的には3450形の1.5倍にもなる強力電車であった。晩年は主に田園都市線と目蒲線で使用された他、1975年よりクハ3662+デハ3405に代わりデハ3608+クハ3772がこどもの国線専用車となり、白黄赤の専用色に装われて80年の7200系アルミ車に交替するまで使用された。
1971年、半鋼製グループより廃車が始まり、1982年全廃された。一部は1958年の定山渓鉄道向け以降、弘南鉄道、上田交通、名古屋鉄道へ譲渡された。特に大量譲渡された弘南鉄道では、弘南線の主力車となり、大出力を生かして1M2T編成を標準として使用されていた。これらも既に廃車されている。
なお、弘南鉄道で最後まで運用されていた一群のうち、クハ3773が青森県弘前市の“高長根レクリエーションの森スキー場”で休憩室として使用されている。外装はイラストが描かれ、内部もシートが木製に、また台車や床下機器は失われているが、形態は原型を良く留めている。2006年現在本車は現存唯一の東急3600系であり、かつ東横車輌碑文谷工場の手になる、一連の“東急標準車体”としても唯一のものである。
[編集] クハ3650形→デハ3650形
デハ3500形の設計をベースに、大東急成立後の1942年クハ3650形として川崎車輛にて6両製作された。
本来、これに対応する電動車としてデハ3550形も製作されていたが、こちらは井の頭線に投入された。井の頭線では戦争末期に車輌基地に空襲を受け、大半の車輌を焼失したことから、車両補充を要していた事による。後にこれらは、大東急の再分割に伴い、京王帝都電鉄に編入された(同社のデハ1700形)。
両者はトムリンソン密連で連結する予定であったといわれ、末期までデハ3500形と見分けるポイントであった前面裾の切り欠きは、その名残りであったようである。
このデハ3550+クハ3650の2輛固定は、当初デハ3450形に匹敵する大量増備を図る計画があり、そのための電装品は既に元住吉工場に確保してあった。戦時下にあって車両増備計画自体は結局頓挫したが、終戦後の疲弊状態の中ではこれらの部品が稼働車の確保に大きく役立つことになる。3450・3500・3650の各形式の、異例ともいえる長寿の一因として、この豊富な予備品の存在(特に主電動機など)が挙げられる。
戦時中に火災焼失したデハ3500形3508が応急復旧した際、制御車として本形式に編入され、クハ3657となったが、1958年車体更新と共に再電装され、原番号であるデハ3508へと復帰した。
当初より片運転台であり、広幅の貫通路を有している。戦後は前寄りが駐留軍専用として、仕切りを設けたうえで窓下に白帯を巻いたこともある。1952年より電装され、デハ3650形となった。連結相手の無い広幅貫通路は長らく塞がれたまま、デハ3450形等に連結されていたが、1958年、戦災復旧車の車体載せ替え車サハ3360型3361~3363が、デハ3650に合わせた広幅貫通路となったことで以後3輌固定編成となり、これは1989年の引退まで変わらなかった。
後年、デハ3500形同様に、固定編成化に伴う電源集中化と車体改修が実施されている。この際、サハの早期廃車を見込んで偶数車の前面が貫通化された点が特筆される。3653、3654が一旦普通屋根・取付前照灯で登場したのに対し、他4輌は張上げ屋根化改造、前尾灯の窓下ユニット化が同時に実施され、前述の2輌も追って同形態へ改造されている。また83年には前面の行先表示板が電照式方向幕化された。
晩年は殆ど池上線を離れることがなく、目蒲線の「ヌシ」的存在であったデハ3500と好対照をなしていたが、営業運転終了前の2週間程の間、置き換えの段取りの都合から目蒲線で運用され、ファンの注目を集めた。
東急での廃車後、デハ3655が両運転台に改造のうえ十和田観光電鉄へ譲渡された(モハ3603)。十和田観光電鉄での本車は、のちに東急7700系等の譲受による置換直前に東急グリーンに塗り戻され、2005年現在も花見電車等のイベント用として走行可能な状態である。
[編集] デハ3700形・クハ3750形
いわゆる「運輸省規格型」の車両。1947年川崎車輛にて20両(デハ3700:15両、クハ3750:5両)が製造された。
本系列には運輸省規格型の指定モーターである東洋電機製造TDK528系110kwが搭載されたが、当時の東急としては大出力の電動機であり、さらに弱め界磁接触器、小さめのギヤ比を持つ高速車であったことから、5000系登場までは、東横線の急行運行の主体となった。
規格型を導入した各社に共通する事だが、本形式の場合も登場当時は天地の低い窓にガラス不足から桟が入り、時代を反映した惨めさは否めなかった。とりわけ使用鋼材の不良から鋼体の傷みが激しかった(一説にはメーカーの在庫鋼材が空襲で火を被っていたことが原因ともいう)。
このため改善措置が早くから進められ、更新工事はデハ3450形等に先立って行われた。この際窓高さがデハ3500形並みの950mmと拡大された他、アルミサッシにデコラ張りの内装等で面目を一新した。また、KS33L台車の枕バネは板バネから、オイルダンパ付きのコイルバネに改造されている(一部を除く)。但し、デハが全車前面貫通化されたのに対しクハは非貫通のままであり、また東急旧型車では数少ない木製キャンバス張り屋根は、最後までそのままとされた。なお、台車改造の際の予備台車として、デハ3700用として住友金属製の新製揺れ枕式コイルバネ台車FS15を、クハ3750にはTR14を各1輌分使用していた時期があった。前者は現在に至るまで東急唯一の住友FS台車であり、KS台車改造終了後はサハ3251に転用された。
東横線を撤退した後、一部田園都市線で運用されたのち目蒲線に移り、ここで東急での最後を迎えている。1975年から1980年までに、全車がラッシュ時対応の3ドア車を求めていた名古屋鉄道へ譲渡されている。
当時のオイルショックの影響で自動車通勤者が電車利用にシフトし、名古屋鉄道は輸送力不足になっていたが、ラッシュ対策の新車増備が間に合わず、ピンチヒッターとして東急中古車を譲り受けたものである。もともと名鉄は「運輸省規格型」車の3800系を戦後大量製造して保有していたほか、TDK528型モーターなど近似した装備を持つ旧型電車を多数保有しており、規格や機器類に共通性が強い東急3700形は、譲渡車ながら運用上都合の良い存在だった。
名鉄では3880系となり、東急時代に弱め界磁を撤去されていたことなどから、名鉄の旧型自動加速車(通称“AL車”)との併結改造は行われず、高速性能確保のため東急時代そのままの2M1Tの強力3両編成を組んで、他系列とは独立した運用が為された。東急時代では考えられなかった、優等を含む本線高速運転や、2編成併結の6連などでの運用を見せ、ことにラッシュ時運用に充当されて3扉車の威力を発揮したが、代替車増備の進行で1985年までに廃車された。所詮はショートリリーフとして位置づけられていたからか、全7編成が出揃った期間は1年に満たないものであった。しかし2扉車が多数を占めていた名鉄で、本車の導入に続いて3扉通勤車6000系が出現し、その後特急車に至るまで3扉車が主流となったことからも、本形式が名鉄車両に与えた影響は小さくないと考えられる。なお、名鉄6000系初期車のドア窓が小さいことに3880系の影響を指摘する見方もある。
廃車後、発生品のKS33L台車はコイルバネ化・オイルダンパ取付がされていることもあって、名鉄で3780系ク2780形、3800系ク2800形に転用された。特に車体更新車のク2780はもともと台車形式が雑多であり、その統一にも寄与している。更に3780系廃車後は一部の台車が大井川鉄道に譲渡され、ナロ80、スイテ82等に流用されて現役である。
3700形の東急時代は、“ギヤ比が低いので高速性能には優れているが起動~低速域の加速がいま一つ”と言われていたものが、3880系となった名鉄では逆に“SR車(名鉄の社内用語。5000系など、昭和30年代前半に製造された全電動車方式の初期カルダン駆動車が該当)並みに加速するが、弱め界磁が無いのでスピードが出ない”という評価だったようである。実際、電動車比率が他のAL車と比べ高いとはいえ、本形式の全界磁運転では優等列車使用時に起動から100km/hに達するまで相当時分を要したとされる。大都市近郊において、平均駅間距離が1km前後と非常に短い路線の各停を主体とし、運用当時最高速度85km/h程度であった東急と、優等列車優先で、100km/h超の連続高速運転による都市間連絡を主旨とする名鉄との性格の差異を反映しているといえ、興味深いところではある。
[編集] デハ3800形
東急横浜製作所(現・東急車輛)1953年製で、付随車(サハ)を除けば、3000系列最後の新造車である。窓上下の補強帯を廃止した「ノーシル・ノーヘッダー」スタイルに、二段窓の上段をH断面ゴム支持とした「バス窓」、張り上げ屋根といった、当時のデザイントレンドを踏まえた近代的な外観で製造された。また、東急横浜製作所自製のYS-M1というコイルバネ台車を使用していた。モハ1型等古い時代の小型車を別にすれば、東急本線釣掛電動車ではイコライザーのない台車はこれとデハ3700形の改造予備台車FS15のみである。当初は東横線で運用された。
主電動機はTDK528系の110kW電動機で、性能的には3700形と同等である。このため、4連時にはデハ3700形を増結することが多かったという。
しかし、1954年には斬新な後継形式の新型車5000系が開発されたため、製造は2両で終了。さらにその後の更新改造により、窓の通常型サッシ化やライトの窓下2燈化などで、他の一般車とあまり変わらない形態になった。
もともと編成先頭に連結される機会が皆無であった3802号車は、3000系列唯一の中間電動車に改造され、3801号、およびクハ3855と3両編成を組んだが、1981年には3両とも十和田観光電鉄に譲渡された。この際3800形は2両とも両運転台に改造されている。増設された運転台は切妻、半室構造であり、戦前型原型を思わせる最前部までシートが延びる構造とされた。
十和田ではデハ3801号がモハ3809号に、デハ3802号モハ3811号と改番され、同線の主力として運用されたものの、2002年に東急からの新型車と交代で営業運転を終了した。2両とも保存の対象とならず、一部のワンマン機器が流用されたのみで解体されてしまった。
[編集] デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形
戦災による車両損失の応援車として井の頭線に転出してしまった幻のデハ3550形の代替として、1947年に入線したもので、この際、いずれも3000番台への改番はなされず、井の頭線時代のままの車番で使用された。神中線(現相模鉄道)などからの一時的な応援車を別にすれば、東急鉄道線きっての異端車である。
デハ1350形は1366の1輌のみ。1930年川崎車輌製の小田原急行クハ564がその出自で、その後電動車化されてモハ251となった。大東急合併後にデハ1366となって、デハ1367と共に井の頭線に転属した。デハ1367は永福町車庫の空襲で焼失し、残ったデハ1366が東横線に転属したものである。本車は曰く付きの車両で、2度に渡って無人暴走事故を起こし、2回とも渋谷駅の車止めを突破して床下機器を大破している。本車が転属対象となったのは、2度目の事故復旧の際、元住吉工場から東横線用の電装品(前述した幻のデハ3550の増備車のためのストックといわれる)を流用していたことが理由とされる。一方、台車・主電動機は帝都モハ100型用の川崎K-3・東芝SE139Bに交換されていた。なお小田急に残った同型車はデハ1400形となり、小田急社内通称「HB車」の一部として1960年代後半まで運用され、主電動機が4000形に流用された後、車体は新潟交通、越後交通等で再用された。
デハ1400形も1401の1輌のみ。1933年、同じく川崎車輌製の帝都電鉄モハ101として製造された。当時の電車としては斬新な大窓を持ち、運転席前面窓上に取り付けられた庇や半開放型の運転台とあわせて当時の鉄道ファンの人気を博した。大東急合併後にデハ1401となったが、1945年の永福町車庫空襲で焼失してしまった。復旧に際してデハ1366同様東横線用の電装品を装備したことが転属の理由と見られる。台車はデハ1366同様川崎K-3、主電動機は東芝SE139Bで、いずれも帝都モハ100形のオリジナル装備である。
クハ1550形は1553・1554の2輌で、それぞれ1938年日本車輌製の帝都クハ253・254が出自。やはり永福町車庫で被災し、前記2輌と共に東横線入りした。台車は日車D18である。
いずれの車輌も片運転台化が行われたが、当初はいずれも片隅式運転台のままで、連結面には元の乗務員扉が残されていた。これらは時代が落ち着くにつれて全室運転台化などとあわせ、徐々に整備されていった。特にデハ1366は1950年3扉化されたが、これによって小田急時代の面影はかなり薄くなった。また、デハ1400、クハ1550の前面庇も後に撤去された。
当初はそれぞれでデハ+クハの2連を組んでいたが、デハは桜木町事故を契機にデハ1366の両側とデハ1401の連結面側に貫通路と幌が整備され、最後尾に国電復旧車クハ3671を連ねる「余所者の異端車」のみの3連を組んで東横線で使用された。一方、クハは最後まで連結面非貫通のままで、上り向きクハとしても希少な存在であった。デハ3450形等に連結されて主に大井町・池上線で使用された。いずれも昇圧改造が行われている。
デハ1366は1964年デハ3550型3554に、デハ1401は1959年同じくデハ3553に、クハ1553は1963年サハ3360型3366に、クハ1554は1959年同じくサハ3365に更新された。旧車体のうちデハ1366のものは、改造のうえ木造荷電デワ3041の鋼体化に流用されたが、焼け車体の応急復旧であった帝都型3輌のものは、いずれも状態不良のため解体されている。
[編集] クハ3660形
元々は大東急時代末期の1947年、小田原線(現・小田急)の焼失車デハ1158の復旧用車体として川崎車輌で製造されたものである。ところが、デハ1158は元車体を利用し、扉拡張などの改造を行ったうえでそのまま復旧してしまい、加えて“復旧用車体”は何故か2輌分が落成する混乱ぶりであった。更に当時は駐留軍によって、運輸省規格型や国鉄モハ63系などを除く車輌の新造は禁止されていた。行き場を失った車体は京浜線の木造車クハ5213・5222の改造名義で、戦災省電サハ25のTR10台車を履いて東横線系統の制御車として竣工した。京浜木造車からの改造はあくまで名目上のみで部品等も流用されず、省型台車以外は事実上の新車である。
車体は本来の種車である小田原線デハ1150形に合わせたためか15m級と短く、半室片運転台で前面は平妻である。デハ3300型と共通する印象の車体だが、窓高さは950mmとデハ3500型並みに大きい。屋根上にはパンタ台を持つが、クハ3670・3770などと異なり、実際に電装されるはずであった名残であろう。
昇圧時に前面・連結面貫通化、全室運転台化、室内蛍光灯取付などが行われ印象が変わったが、アルミサッシ化などは行われていない。
当初は東横線でも使用され、やがて活躍範囲は全線に及んだ。数少ない上り向き制御車であることから後年は特にデハ3450形下り向き車の相棒として重用された。田園都市線ではクハ3661が開業時から長く使用された他、クハ3662はクハ3850型3866に代わってこどもの国線用となり、専用カラーに塗り替えられて転用された。こどもの国線は開業当初、閑散時に両運車デハ3405による単行運転が行われたが、当時の所属区であった鷺沼検車区が上り方向に留置線が広がる構造であるため、開業当初使用された下り向き車クハ3866では、解放時に入換を行う必要があることから交替となったものである。
1975年引退。クハ3661はデハ3310と共に上田交通へ貸し出され、79年正式譲渡された後、クハ3772と入れ替わりに82年廃車された。車齢のより古いデハ3310より先に廃車となったのは、3600・3700系などと共に戦後すぐの作で、これらと同様材質不良がその一因であったと思われる。終始東急グリーン塗装のままで、改番もされずにラッシュ専用車として使用された。
クハ3662は府中市の斎藤病院に寄贈され、敷地内で売店として使用されたが、病院の新築工事の影響で解体された。末期は赤一色であったようである。
[編集] クハ3850形・サハ3370形
1953年より川崎車輌で3850~54の5輌、東急横浜製作所(現:東急車輌製造)で3855~66の12輌、計17輌が製造された。運輸省規格型の束縛も無くなった時期であり、戦後初の東急独自による新車といえる。デハ3800形とは形状・経緯など似て非なる部分も多く、事実上制御車のみのグループである。
制御車のみが大量製造された経緯として、元来電動車比率が高い状況のもとで、効果的に長編成化を図ったことがあげられる。戦前からの車輌はサハ1形→サハ3350形や戦災復旧車などを別にすれば単行使用が前提の両運転台電動車ばかりであり、戦後の増備車を加えても、本形式の登場直前の段階で電動車147輌に対し制御車・付随車は42輌に過ぎなかった。
こうした中、鉄道全線の1500V昇圧により主電動機出力が向上(ex:デハ3450型等のHS267系で600V時に75kw が、昇圧後は94kwに)すると、電動車のみの編成では当時としては出力過剰気味であり、昇圧を控えた段階で、まとまった車輌増備が片運転台の制御車のみとなったのは、充分な必然性があったと考えられよう。 車体形状や寸法などはデハ3700形を基本としつつも、製造当初より前面が貫通式であるほか、乗務員室の奥行きが拡張され、客室窓割りが後ろに若干寄っており、連結面側は平妻になっている。
戦後の混乱から一段落した時代でもあり、3700系譲りの天地の小さい窓を持ちつつも、鋼体、室内木工など各部造作仕上は丁寧なものになった。前照灯は湘南電車等を思わせる埋め込み式となった他、特筆すべき点として当時熾烈な開発競争がなされた新型台車の採用が挙げられる。川崎製は軸梁式OK-6が、東急製はペデスタル式のYS-T1が採用された。いずれもイコライザーや板バネを廃したもので、飛躍的な乗り心地の向上をもたらした。
また、川崎製は3854を除き幌枠が無く貫通扉上部にウィンドゥヘッダーが巻かれている一方、東急製は全車幌枠を装備していた。その他、曲面や窓周りの仕上げにも両者に差異がある。また、何故か車番が3850~3866と1ではなく0から始まっているのも特徴だが、50輌分を収めるためというデハ3450型と異なり、明確な理由が見当たらず、未だ謎のままとなっている。
登場後は3400型以降の電動車各形式と組み、(新玉川線を除く)鉄道全線で使用された。特にクハ3866は白黄赤に車内ピンクの専用色となって開業時のこどもの国線に転属し、1967年4月28日開通式のおり、テープカットをつとめた常陸宮正仁親王や政府関係者、五島昇東急社長(当時)ら要人の乗用となった経歴を持つ。その後相棒のデハ3405による単行運転を行う際、当時所属していた鷺沼検車区で入換作業を必要とすることからクハ3662と交替して本線に復帰した。
1973年から更新修繕が開始されたが、従来の窓寸法の拡大とアルミサッシ化、室内デコラ張り化などに加えて張り上げ屋根化と前・尾灯のユニット化も行われ、追ってデハ3500・3650・3800も同仕様となった。またこの際、デハ3500型等の中間に組み込まれていたものについては5輌が運転室撤去のうえ付随車化され、サハ3370型となった。これらは旧前面側が丸妻のままであり、窓配置も中心から若干偏った中間車となった。デハ3450・3500形の中間に連結され3連で使用されたが、MTM3連は補助電源の集中化が行われたことから、サハ3360全車とサハ3251と共に、本形式についても●KVAの東芝CLG319形電動発電機が搭載された。これは大阪万博モノレールの発生品といわれるもので、万博開催当時に同モノレールの運行管理を東急が担当したことと関連があると思われる。
晩年は両形式とも目蒲・池上線で使用され、1981年より廃車開始。89年3月の3000系列一斉廃止の折に引退した。
大半がそのまま廃車解体された中、クハ3855・3861は十和田観光電鉄に譲渡され、それぞれ3810・3802となり2002年まで使用された他、クハ3856、サハ3375は引退後もしばらく長津田検車区に留置されていたが、94年頃までに解体されている。またサハ3372は85年の東京国際映画祭の折りにデハ3466同様に渋谷で展示され、終了後軽井沢に移送ののち解体されている。
[編集] サハ3250形
サハ3350・サハ3100形の置き換えのため、1965年~1966年にかけて東横車輛碑文谷工場で7輌新造された、初代3000系最後の新造車である。旧池上のデハ3250形とは車歴上全く無関係である。
形態はデハ3553以来の全金属製東急標準車体で、丸屋根を持つサハ3366と細部を除き同様である。 サハ3251はサハ3351の改造名義という扱いで、デハ3700形の改造予備台車であった住友FS15台車を装備し、他車は純粋な新造車として東急車輛製TS322新造台車を使用した。
全車デハ3500形の中間車として使用され、電源集中化も行われたが、サハ3251が東芝CLG319電動発電機であったのに対し、他6輌は旧性能車としては全国的にも珍しい東芝製静止型インバータ(SIV)が搭載された。
サハ3251のFS15台車は、予備品共用化のため1984年、クハ3850形廃車発生品のYS-T1に換装されている。
目蒲・池上線で使用されたが、1989年の初代3000系引退に伴い廃車。サハ3256のみその後も車籍を有したまま長津田検車区に留置されたが、1994年除籍・解体されている。
[編集] サハ3350形
1936年、鉄道省から譲り受けた木造車(いわゆる院電)を日本車輌で鋼体化し、東京横浜電鉄サハ1形としたもので、東急初のサハ(付随車)である。台枠・台車(省形TR10)は木造車のものを流用しているが、車体そのものはモハ510形(→デハ3450形)をベースにしていた。 周辺私鉄はもとより、鉄道省であっても付随車はサハ19・サハ25等の木造車が多数使用され、そもそも私鉄での3輌編成自体が異例という時代にあって、鋼製車体の付随車は異彩を放ったといわれる。本形式登場に続いて同様の手法でモハ150形(→デハ3300形)が製造されたが、こちらは川崎車輌製で、電動車であるほかに車体幅や細部寸法に差異がある。大東急成立後、サハ1形はサハ3350形と改称された。
1951年に発生した桜木町事故の教訓を受け、デハ3450形と共に東急初の貫通3輌編成を組むことになり、全車両妻面が貫通化された。
全長が短いことに加え、車体幅が狭いことから早期に整理対象となり、供出車や戦災応急復旧車を別にすれば初代3000系列初の消滅形式として1965年4輌全車が上田丸子電鉄に譲渡された。2輌はサハ60形(61・62)と改番し、1986年の昇圧まで使用されていた。残る2輌は1967年一旦廃車となった後、スクラップ扱いで西武建設が購入、西武所沢工場で外板張替えや金属サッシ窓化が行われ、伊予鉄道に新製扱いで売却され、サハ500形となった。こうした経緯のため、伊予鉄道譲渡後と東急時代との旧番対比は不明である。モハ300形と3輌固定編成で使用された。
京王5000系導入に伴いサハ501は廃車されたが、サハ502はモハ303・304と共に行われた高性能化改造により、新造の空気ばね台車に全電気式ブレーキ装置を装備するなどの大改造が行われており、2006年現在も在籍している。但し、検査期限切れから古町車庫に留置され、本線走行は不能である。とはいえ、在籍する東急3000系(初代)は本車と十和田観光電鉄モハ3603のみであり、かつ近代的な足回りの一方で院電時代の台枠を現在も保っており、車籍を有する鉄道車輌としては事実上国内最古と思われる。
尚、サハ3250形3251はサハ3351の改造名義となっているが、書類上のみで部材、部品等の流用は無く、実態は無関係である。
[編集] サハ3360形
東横線系統及び帝都線(現・京王電鉄井の頭線)の戦災復旧車を1954年~1963年にかけて付随車として車体更新したもので、6両が在籍していたが種車は3グループに分けられていた。
- サハ3361・3362号:デハ3150・3200形の戦災復旧車クハ3220形の3222・3224号の更新車。車体製造は東急横浜製作所で、台車は弓形イコライザーの川車3150・3200型。同様の復旧車3221・3223はデハ3550形の3551・3552号として更新している。
- サハ3363・3364号:デハ3300形の戦災復旧車クハ3230形(3231・3232)の更新車で、車体製造は東横車輌碑文谷工場。台車は省型TR10であった。
- サハ3365・3366号:帝都線からの転入車クハ1550形(1554・1553)の更新車。車体製造は東横車輌碑文谷工場。台車は日車D18であった。
車体形状は3361~3363がデハ3650型に合わせたウィンドウシル・ヘッダー付き切妻・広幅貫通路・半鋼製の車体で、本車の登場によって、漸くデハ3650形の広幅貫通路が活用され、以後1989年の廃車まで編成は全く変わらなかった。
3364~3366は狭幅貫通路を持ち、ノーシル・ノーヘッダー・アルミサッシのいわゆる全金属製東急標準車体であるが、更新車体の製造時期が各車離れており、3364は切妻でベンチレータが2列、ランボード付き。3365は切妻だがガーランドベンチレータ6個でランボード無し。3366は丸屋根平妻でベンチレータ5個である。デハ3450形、デハ3500形と組んで使用された。
固定編成車の電源集中化に伴い、サハ3370形・サハ3251と共に東芝CLG319形電動発電機が搭載された。
D18台車はサハ3365・3366が東急唯一であり、予備品捻出のため1975年、廃車解体されたデハ3300形3311の台車がサハ3366に転用された。とはいえ形式全体での雑多さは解消されず、平軸受でもあったことから、1981年デハ3450形の廃車開始に伴い、全車発生品の川車3450形台車に交換された。ドアはそれ以前に全て小窓のステンレス製のものに取り替えられている。
サハ3361~3363の各車は一度更新が行われたことを理由に、当初早期廃車が予定され、このためデハ3650形偶数車は制御車連結を前提に、更新時と共に前面貫通化が行われた。しかし、その後の計画変更で廃車が撤回、初代3000系列としては最後に室内更新が行われた。この際、これまで行われた張り上げ屋根化が実施されず、かわりに窓が上段下降・下段固定で中桟が窓中央にあるなど、デハ3650形とは形状が異なるものとなった。壁面のアルミデコラ化、床のリノリウム化などは他車同様である。
サハ3364が1984年、サハ3362が1988年、他4輌が1989年の3000系列全廃時に廃車、全車解体されている。
[編集] デヤ3000形
私鉄初といわれた本格的な初代電気検測車。
1977年、休車になっていたデハ3550形3551号から改造されたもので、3001号のみが存在した。改造内容は両運転台化のうえ、検測用パンタの新設、中扉と車端寄り一箇所の扉の閉鎖、及び屋根中央部を低屋根化したうえ検測ドーム、及びサーチライトの新設等となっている。
ドーム部の車内にはヤグラが組まれ、架線を目視する為のイス(当時のスポーツカーばりの革張りのもの)と工業用テレビカメラが取付けられた他、測定機器等が積み込まれている。
前面形状は、既設側がデハ3550時代のままの半流貫通型で、増設側はデハ3300形を思わせる平妻非貫通型となった。最後までアルミサッシ化などは行われず、デハ3550形のベースとなり、戦後の名車として人気の高かったクハ3850形原型の面影を留めていた。
登場当時はデワ3040形などと同じダークグリーンで、その後営業車同様のライトグリーンに前面黄帯となっている。
台車・主電動機は当初、種車のものを引き継いだデハ3150形由来のものであったが、デハ3450形の廃車開始に伴い、部品共通化からデハ3488の発生品と交換している。
通常は奥沢検車区の目黒寄りに留置され、検測時以外は稼動しなかったが、動力車として使用されていたデハ3450形デハ3450が、モハ510に復元されて一線を離れるのに伴い長津田検車区に転属し、デハ3499と共に動力車としても使用されるようになった。
1992年、デヤ7200形の登場により廃車になったが、後継となったデヤ7290号の改造内容は、基本的にデヤ3001のものを踏襲している。
その後は東急車輛製造で入換車として使用され、新3000系の搬出の際、同番号の3001号と連結したこともある。7000系転入後は事実上引退し、デハ3499と共に工場敷地内に留置されている。
[編集] デワ3040形
かつて東急の荷物電車、旅客車の転用や、旅客電車の一部を荷物室に仕切ることでまかなわれていた。戦災国電の転入と前後して入線した木造荷電の事故車モニ13012をデワ3041とすることで、専用車を確保することになった。ところがダブルルーフの屋根は東急の車輌定規を突破しており、特認をもって使用された。モーターはイギリスのメトロポリタン製MT12なる珍品であったが、他の電装部品は新品とされている。
デニではなくデワとされたのは、二軸の有蓋電動貨車デワ3000形が既に在籍しており、本車もこれと同様に登録上は有蓋電動貨車とされたことによる。
1964年、デハ1366の更新に伴い、この小田急タイプの旧車体を改造して鋼体化が図られた。改造内容は両運化と、中扉の拡張、客室設備の撤去、及び一部の窓埋め等である。台車は後にTR14からTR22(DT11)に、主電動機も142kwのHS269Crに交換され、単行使用が前提の車輌にしては異例の高出力車となった。
田園都市線開業の頃には、旅客輸送量の増大から荷電検査時に旅客車による代走を行うことも困難になってきたこと、手小荷物取扱量が一時的に増加したことから、1967年には増備車としてデハ3204改造車のデワ3042が登場し、2輌体制となった。種車の老朽化が激しいため、改造に際して外板が全面的に張り替えられ、ノーリベットになっている。
運用は新玉川線を除く鉄道全線の大部分に及んだ。大岡山、田園調布は専用の荷物ホームを使用(以前は渋谷・菊名にも存在し、渋谷の痕跡は現存している)し、その他の駅では旅客ホームから荷扱いする光景が見られた。お中元、お歳暮シーズン等には重連でも使用され、両者でパンタグラフの向きが異なることから接近パンタ、離れパンタで走行していた。
当初は戦前以来のダークグリーン塗装であったが、1979年からライトグリーンに前面黄帯とされた。
1981年、デハ3450型3498を改造してデワ3043とし、前者2輌を置き換えた。これにより、デワ3041は解体、デワ3042は東急車輛の入換・動力車となった。
デワ3043の出現当時、既にトラック化の流れから荷物取り扱い量は減少しており、改造内容はドアエンジン及び座席の撤去、及び窓保護棒の取付程度で殆ど原型のままであった。本車検査時はデハ3450などが代車で使用されたが、改造と時期を同じくして宅急便などの宅配サービスが急速な進展を見せたことから、鉄道荷物輸送の存在意義が失われ、改造翌年に荷電の運行は廃止されてしまった。
デワ3043もこれにともない除籍されたものの、老朽化著しかった長津田車輌工場の入換車旧デハ3604の代替車となった。現在では山側に両開きの大扉が設けられたうえで青と黄色のツートーンカラーとなり、コンプレッサーも8000系用の大容量のものが載せられるなどの変化もあるが、稼動状態にある唯一の旧デハ3450形として極めて貴重な存在である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
田奈写真館:本系列各車の豊富な写真を掲載。