日蓮正宗
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基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
経典 |
聖地 |
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ウィキポータル |
日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派のひとつ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、勝劣派などを教義とする富士門流(日興門流)に属し、「興門八本山」のうち、大石寺(総本山)、下条妙蓮寺(本山)の二本山が所属する、富士門流中の有力宗派である。
目次 |
概要
宗祖の入滅後、六弟子の一人であった日興が総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけたが日興は七ヵ年留まると石川氏の招きにより大石寺を退出、晩年は重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を譲ったのち、晩年は師弟の教育・指導にあたり、ここで没した。
日蓮正宗と正式に名乗るのは明治最初の頃で、それまでは日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)、一時は富士門流各山と連合し日蓮宗興門派・日蓮本門宗という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。日蓮本門宗時代は管長は八本山からの輪番制となったが、大石寺本末・中末が政府に独立が公許されこれから独立し、1900年(明治33年)に日蓮宗富士派と公称し、1912年(明治45年)に日蓮正宗と改称し現在に至るが、法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を正宗と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。
教義
1279年(弘安二年)の10月12日の宗祖日蓮所顕と伝えられる本門戒壇之大御本尊(総本山大石寺奉安堂に安置)を帰命依止の本尊と定め、宗祖の出世の本懐(ほんがい)であり、宗祖所顕の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅として位置づけている。
この他に宗派独自の主張として目立つものは、
- 宗祖は、外用としては法華経に予証された末法の世を救う上行菩薩であり、その内証は久遠元初の自受用報身(すなわち御本仏)である。なお、宗祖を日蓮大聖人と称している。大聖人の称号を用いているのは富士門流だけだとの誤解があるが、日蓮宗(一致派、等)でも用いられている。
- 宗祖は、1253年(建長五年)の3月28日に立宗を内示され、4月28日に立宗を宣した。
- 日興は、1282年(弘安五年)の二箇相承にもとづき、宗祖から「唯授一人の血脈相承(ゆいじゅいちにんのけちみゃくそうじょう)」を受けたとされている。以後、第三祖日目、第4世日道、第5世日行と順次に伝えて現法主第68世日如に至っている。
等々の教義があげられる。
現在、所依の経典としては、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・第二祖日興遺文・第9世日有遺文・第26世日寛遺文を正依としているが、天台宗系統の摩詞止観十巻および弘決・法華玄義十巻および釈籤・法華文句十巻および疏記をも傍依としては認めている。
仏教の基礎である三宝は、宗祖を久遠元初の仏宝とし、南無妙法蓮華経の妙法大曼荼羅を法宝とし、「血脈付法の人」である第二祖日興を随一として歴代の法主を僧宝であるとしている。宗祖こそが「本因妙の教主釈尊」であって、インドの釈迦(釈尊)は、法華経を説いて当時の衆生を救済するかたわら、末法における本仏(=宗祖)の出現を予証するために現れた仮の姿の「釈尊」(=迹仏)とされてされており、多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は現在では一切禁止されている。
従来「法華経では、女人は成仏できない五障の身である」と宗派として公式に主張していたが、昭和20年の敗戦後GHQによる封建的風潮除去の動きに従い、「女人成仏を説いたのは法華経のみ」と解釈を180度転換した。(実際には女人成仏を説いたのは勝鬘経)
ただし、この方針転換は「泣く子も黙る進駐軍」の威光を前に宗派の未来への存続を賭けて止むを得ず行われたもので、戦時中国家神道の圧力で神札を祭ったのと同じく、決して日和見主義やあさましさに由来するものではないとする見方も存在する。
また日蓮遺文には
殊更(ことさら)女人成仏の事は此の経より外は更にゆるされず(女人成仏抄)
法華経には女人成仏之(これ)有り。(星名五郎太郎殿御返事)
但法華経計(ばか)りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へ(千日尼御前御返事)
とあるように、宗祖日蓮の思想の中に既に「女人成仏」の思想がたくさんあるのであるから、この批判は事実相違であるとも思われる。
歴史
日興は、宗祖の本弟子六老僧の一人として積極的な折伏に目覚しい成果をあげ、特に駿河において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉幕府内権力者の警戒心を招き、1279年(弘安二年)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。宗祖日蓮滅後廟所の六弟子による輪番制が敷かれたが戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。本弟子六老僧の一人の日向の示唆によって地頭波木井坊六郎実長が謗法行為をして、身延山久遠寺別当職の日興はやむなく身延離山したと、日蓮正宗や日蓮本宗などの日興門流でいわれる。日興は 1289年(正応2年)に多宝富士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。翌1290年(正応3年)、日興は南条時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。その後長きにわたって、通称として富士門流または日興門流と呼ばれた「日興の日蓮宗」の流れを汲む諸派は、勝劣派・一致派48本山が戦前の宗教政策により連合した日蓮宗とは教義的にも宗教行為の交流はないが、学術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺に訪れることがある。とりわけ日蓮正宗では現在でも、日蓮の正しい教えが日興-日目-日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系などの全ての他門流、さらには他の富士門流諸派(後世になって日蓮宗と妥協的な態度を取るようになり、大石寺に従わなくなった)までも、すべて謗法としている。江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられている他、皇室や公家・将軍家や大名家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続け、加賀藩・仙台藩・伊那・尾張藩・八戸藩などの各地では法難が続発した。尚、金沢法難は身延山久遠寺を総本山とする一致派日蓮宗の石川県羽咋市・金栄山妙成寺(後に本山)が、加賀藩に虚偽の答申をしたために日蓮正宗が被った法難で、後に一致派日蓮宗妙成寺は虚偽答申の犯罪行為が露見し閉門蟄居の刑を受けている。このように日蓮正宗が被った法難の殆どは身延山久遠寺を本山とする一致派日蓮宗の讒言によって被るに至った例が多い。なお、この金沢法難については郷土史家の向敏子の著による『金沢法難を尋ねて』に詳しく書かれている。
1868年の明治維新によって、大石寺教団と国家権力との間には新たな緊張関係が生まれた。すなわち、神道の国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によって分割支配をはかる方針を採った。この背景として、日蓮宗管長・新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」を目指す画策もあった。大石寺第54世日胤は、1873年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」を提出し、以降も数度にわたって諌暁を繰り返したが遂に容れられず、結果的に1876年より、富士門流の系列に属する大石寺・妙蓮寺・北山本門寺・京都要法寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺の八本山は行政上、日蓮宗興門派(後に日蓮本門宗と改称)として分類され、行政上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、八本山が交代で務めるという形を余儀なくされ、1881年-1882年にかけては第55世法主日布は1881年-1882年が第4代の、1891年-1892年にかけては第56世法主日応が第5代の管長に就任している。大石寺派僧俗にとってみれば、大石寺の住職は依然変わりなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もある、などという、信仰上極めて耐え難い異常事態が続き、教団の存立そのものも危ぶまれる事態となった。しかしその後、第55世日布・第56世日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の七本山に対する破折活動が続けられた結果、ようやく1900年、本門宗からの分離独立が認可されて日蓮宗富士派と公称するようになった。そして1912年6月7日、第57世日正の決定により、現在の「日蓮正宗」へと宗派名の変更が行われた。
なお、1930年(昭和5年)に、牧口常三郎、戸田城聖らにより、日蓮正宗の教義と牧口の「価値論」を合体させた教義を奉ずる教育団体として創価教育学会が設立され、初代会長には牧口が就任したが、日蓮正宗では信徒団体として認めなかった(牧口は調書に「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、自分の価値論を実践する一個の独立した団体」と供述している)。太平洋戦争終結後、第2代会長に就任した戸田は、創価教育学会の名称を創価学会と改称し、以後、日蓮正宗も格段に発展することとなった。とりわけ、1960年(昭和35年)の第3代会長池田大作(現・名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、従来の法華講(旧来の檀家)と創価学会員の寄進により大客殿や正本堂などが建立されるなど、長らく双方の間には蜜月状態が続いた。しかし、次第に創価学会側からの教義の変更が相次ぐようになり、1970年代後期の昭和52年路線問題を経て、1991年11月28日に、日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主日顕の名前で創価学会を破門処分にした。
しかし宗務院録事にも創価学会の組織結成を許可した事実が記載されていないため、日蓮正宗と創価学会は一致派日蓮宗と立正佼成会の関係と同じで、正規の信徒団体とは言えないとも指摘されている。日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院で審議の得て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ指導教師も初めから存在しておらず、宗内ではゲスト的に扱われていた。
現在の宗門の体制
法主の地位と権限
唯授一人の血脈相承を受けた法主(ほっす)が、日蓮正宗の宗門における僧侶の最高位であり、僧侶の階級は大僧正(だいそうじょう)である。近年の宗規では、法主のみが管長推戴会議の選定を経て宗務行政の長である管長の職に必ず就くことになっている。また法主は総本山大石寺の貫首(住職)をも兼ねている。現在の法主は、第68世早瀬日如である。
次期法主候補者があらかじめ公表されている場合、次期法主候補者は学頭に任じられる。学頭の僧侶としての階級は権大僧正(ごんだいそうじょう)となる。ただし公表されない場合は、学頭は空席のままである。法主の下には若干名の能化(のうけ)が、法主に次ぐ高僧衆として存在し、現在は前法主の日顕を除く10名の僧侶が能化の位にある。
法主の尊称として「御法主日○上人猊下」「日○上人」が用いられる。生前に退座して隠居した前法主は御隠尊猊下または御隠尊上人と敬称される。 なお「上人猊下」という尊称については二重敬語・二重敬称で日本語としては甚だ不自然なため「~先生」を「~先生様(ソンセンニム、선생님、seonsaengnim)」と表現する朝鮮文化の影響が一部で指摘されている。
これは「会長」を「会長先生」と呼称する「実践倫理宏正会(朝起き会)」とも発想としては共通しており両者の思想の類似性を示しているともいわれるが、いずれも敗戦直後の特権的な「三国人」たる朝鮮人の横暴と重ねることで宗派としてのイメージダウンを図る反対勢力の妄言とする見方も存在する。
なお、上人の称号は、法主の許可により、能化をはじめ、法主経験者以外の者にも贈与または追贈されることがある。また、日の字がつく法名を日号(にちごう)と言い、僧侶には存命中に与えられる。ただし能化(権僧正)以上の高僧しか存命中に公称することは許されない。ただし死後は、やはり法主の許可により、一般僧侶も、また在家信徒にも戒名中に日号がつけられる場合がある。上人号・日号等の授与権は、本尊書写権や教義裁定権と並んで「法主のみの権能」とされている。こういった重要権限の「ブラックボックス」化は総本山の指揮統制を離れる「単立本山」の成立を許さない姿勢の表れであり、地元の住職が独自に文字曼荼羅本尊を書写し親しい信徒に下賜することもある身延系の日蓮宗とは好対照をなす。
宗務行政
宗務院の事務を総理する長として、管長の職を置く。管長は法主・大石寺住職が兼任する。宗務院は、総本山大石寺境内に置かれている。 管長を補佐する宗務総監の指揮監督の下、庶務部・教学部・海外部・渉外部・財務部の五部門によって宗務行政が分担される近代的事務機構が構築されている。なお、管長・総監に次ぐ役職として重役も設けられており、顧問的役割を持つ。各部には部長、副部長(現在、海外部と財務部は空席)、主任が置かれており、特に庶務部長は実質的に総監を補佐する立場にある。 この他に、僧侶の中から選挙によって議員が選ばれる宗会、綱紀粛正機関である監正会、管長が任命した権大僧都以上の者5名による参議会などの合議システムも導入されている。
宗務院は全国に大布教区と大布教区に統轄される布教区を敷いている。総本山塔中には特別布教区を敷いている。特別布教区の事務は、大石寺内事部において取り扱われている。内事部では法主のもと塔中坊の住職の中から主任理事が1名、執事が1名ないし2名、理事が若干名任命され総本山の寺務の責任者となる。法的に、大石寺の代表役員は法主が務め、主任理事、理事、総代が責任役員となる。
また、主任理事、執事は法主の大石寺住職としての法務を補佐する立場にあり、法主不在の場合代理で法要の導師を務めるなどする。
出家制度
日蓮正宗寺院の住職・主管、副住職・副主管は明治維新以降の伝統仏教でよく見られるような世襲制、家族経営ではなく、管長の辞令により総本山から派遣される極めて中央集権的なシステムとなっている。そのため、短期間で住職が交代したり、2つの寺院の間で住職が入れ替わるということもある。
副住職・副主管に関しては、宗規で、住職・主管が教師の中から選び、法主の承認を得て着任する決まりとなっている。
僧侶となる場合、かつては宗内の僧侶が弟子をとることもあったが、現在は得度審査に合格して法主上人の弟子となる。大半の僧侶は少年得度で12歳、小学校卒業と同時に出家する。それ以外の一般得度者も随時募集される。出家得度し総本山大石寺で修業した後、地方寺院(主に本山格寺院や大都市周辺の寺院)で在勤し、総本山で1年在勤したのち教師に補任され、管長の辞令があれば地方寺院の住職(副住職の場合もあり)として派遣される。一部の僧侶は得度以来総本山で一生を過ごす者もいる。法衣は全階級とも白五条袈裟に薄墨色の衣(僧階が上がると模様が入るなどの違いはある)であるが、袈裟・衣は管長の免許がなければ着用することはできないことになっている。
概ね創宗蜜月時代といわれていた昭和40年代辺りの得度の世代だと、創価学会からの多大な寄進で新寺院が急増し僧侶の「粗製濫造」が進んだことが一部で指摘されているが、他の伝統仏教に比べ在家出身の修行僧が多いため、現在では僧侶としての厳格な素養教育には定評がある。
僧侶の階級
日蓮正宗では僧侶の階級(僧階)は次のようになっている。
- 教師
-
- 大僧正(法主及び法主経験者)
- 権大僧正(学頭)
- 僧正
- 権僧正
- (これより上が能化となる)
- 大僧都
- 権大僧都
- 僧都
- 権僧都
- 大講師
- 講師
- 少講師
- 訓導
- 権訓導
- 非教師
-
- 一等学衆
- 二等学衆
- 三等学衆
- 沙弥
それぞれの階位の授与等は内部規定による。
宗門役僧
- 管長 早瀬日如(総本山大石寺住職)大僧正
- 前管長 阿部日顕(前・総本山大石寺住職)大僧正
- 総監 八木日照(東京・法道院主管、法華講本部指導教師、前・大石寺主任理事)権僧正
- 重役 藤本日潤(東京・常泉寺住職、元・総監)僧正
- 宗会議長 細井珪道(東京・常在寺住職)
- 教学部長 水島公正(所沢・能安寺住職、法華講本部指導教師)
- 庶務部長 阿部信彰(東京・妙国寺住職、法華講本部指導教師)
- 海外部長 漆畑行雄(富士宮・本山妙蓮寺住職)
- 財務部長 長倉教明(札幌・日正寺住職)
- 渉外部長 秋元広学(東京・宣徳寺住職)
- 副教学部長 宮野審道(埼玉・啓信寺住職、(株)大日蓮出版代表者)
- 副庶務部長 斎藤栄順
- 副渉外部長 梅屋誠岳
日蓮正宗に信徒団体
- 法華講
法華講は日蓮正宗唯一の信徒団体である。各末寺に檀家グループの○○講(講中)が存在し、この○○講の総称を法華講という。法華講は日常の唱題行や総本山への団参登山を行うものとして、宗史上古来より存在していたが、1962年にこれらの○○講の連合体として日蓮正宗法華講全国連合会(略称全連)が結成されて加盟するようになった。この全連は1967年に日蓮正宗法華講連合会(略称連合会)に改称され、現在に至っている。
日蓮正宗の信徒団体を作るには、末寺の住職が信徒団体の指導教師となって信徒団体を作ろうとする代表者と連名で組織結成許可願を宗務院に提出し、宗務院での審議を得て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印して組織結成許可書が交付されて指導教師から○○講に手渡される。これは明治時代からのシステムであるが、第2祖日興の「この法門は師弟子をたゞして仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)の伝統と慣習を踏襲したものであり、組織結成許可書に類する江戸期の古文書も残っている。こうして結成された○○講は、日蓮正宗法華講全国連合会に加盟申請書を提出し、総本山内の日蓮正宗法華講全国連合会事務所(通称法華講事務所)で加盟手続きが行われる。
よって組織結成許可願と指導教師のない団体は日蓮正宗の正規の信徒団体とは言えないことになっている。
- 法華講の役員
各末寺の法華講の役員には講中の代表者の講頭、副講頭、幹事、会計がいるが、法華講の役員はすべて組世話役と定義され、講員に対して指導することは法主や指導教師に対する越権行為とみなされるのでしないことになっている。
日蓮正宗法華講連合会には事務機構上、委員長、副委員長、理事、地方部長などの役職があるが、これも組世話役と定義され、連合会に加盟する各法華講に対して指導・監督することはない。
また名誉職として総講頭、大講頭の称号があるが、信徒を指導することはない。
なお法華講では、日蓮正宗法華講連合会発行の大白法(だいびゃくほう)が唯一の機関紙となっている。定価は100円である。
- 海外の法華講
海外では50か国弱で法華講が存在し、寺院や布教所などが建立されている。特にインドネシアでは60万人(インドネシア政府による公称)の信徒がいるとされ、また台湾では5か寺が建立され信徒は増加傾向にある。
日蓮正宗の機関誌(教誌)
- 大日蓮
日蓮正宗唯一の機関紙誌(教誌)は大日蓮(だいにちれん)である。時局に応じて号外も発行されている。宗務院録事、総本山録事、宗務広報、法主の説法、布教講演及び論文、総本山の動き、末寺の動き、海外の動き、住職普山の挨拶などが載せられていて、定価は300円である。宗務院録事には、総本山での法要などの達示、住職などの辞令、講中組織結成許可、檀徒団体の法華講の役員の承認、末寺の檀家総代の承認などが掲載されている。総本山録事には、総本山における人事が載せられている。総本山の動きには総本山で奉修された法要など、末寺の動きには末寺で奉修された法要などが掲載されている。1916年創刊。 この他、各末寺で寺報が発行されており、大日蓮と末寺の寺報のみが機関誌紙とされている。
日蓮正宗信徒の活動
信徒の修行としては、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経を読誦すること(自行の題目)と並び、それを他の人に伝える折伏の修行(化他の題目)が基本となる。自行としての日常の勤行は、妙法蓮華経方便品・如来寿量品(長行、自我偈)の読誦、唱題(「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること)を基本構成とし、古来からの朝五座・夕三座の格式を守って行われている。
末寺や総本山への「登山参詣」(総本山大石寺に参詣すること)なども修行の一環として、成仏への功徳を積むことができる行為と考えられている。
日蓮正宗の檀信徒名簿へ登録を受けるためには、末寺において授戒を受け、さらに大曼荼羅本尊を下付されなければならない。授戒のみ受けて本尊未下付の者は内得信仰と呼ばれ公式の信徒数には数えない。いずれにせよ、日蓮正宗の信仰をする者は必ず存命中に授戒を受けていることとなる。
日蓮正宗に対する教学上の批判
日蓮宗の諸派は伝統的に、「本門戒壇の大御本尊=偽作」説と「二箇相承=偽書」説、さらに「三大秘宝抄=偽書説」等でこの宗派を批判してきた。しかし、本門戒壇の大御本尊は秘仏のため放射線を使用した製作年代の科学的な鑑定は一度も行われておらず、二箇相承および三大秘宝抄の原本も現在存在しないため、700年にわたる論争に未だ決着はついていないとされる。
- 本門戒壇の大御本尊については鎌倉時代の工具の痕跡があるが、日蓮が生きていた時代の日蓮宗の財力では製作不能と言った状況証拠や花押が日蓮の物と違う、禅師授与漫荼羅との酷似等の理由で、後世の偽作では無いかと言われている。
- 三大秘宝抄については日蓮宗僧侶の伊藤瑞叡らの研究グループによってコンピュータ解析がなされて、真跡だと確定しつつ有る。
- 二箇相承についても日蓮宗の中で特に富士門流の流れを汲む僧侶の中では真書説が取られている。
一方、正信会、創価学会との対立のなかから、法主個人への絶対帰依や権力の集中を指摘する主張が生まれてきた。しかし日蓮正宗側ではこうした主張は成り立たない主張している。根拠としては、日興遺戒置文などにおいて法主と他の僧侶の関係が示されることで法主として判断の客観性が担保されていることなどがある。この背景には、日本仏教における伝統宗派の多くは、1970年代以降「下からの近代化」を目指す動きの中で試行錯誤しながら教団体質の民主化を進めてきたのと対照的に、日蓮正宗は管長一人に権力をより集中させており、中央集権制を進めているという指摘もある。
独特の罰論、死相観に対しては以前より賛否両論あり、折伏の際の入信しないと自然災害に遭う、伝染病になる。入信しないで死んだ人は死後死体が真っ黒になり重くなるといった勧誘や、自派に関わる科学的、歴史的矛盾による批判は受け入れないが他宗派を激しく攻撃する際には武器として扱う等、言動は明らかに伝統宗教と一線を画し、カルト宗教的とも言われる。
現在の日蓮正宗と他教団との紛争
過去においては他宗教は全て謗法・邪宗であると定義し、これらに対する折伏を行ってきている。その意味であらゆる宗教と対立関係にあると言える。ただし、折伏はあくまで常識と礼儀をもって行われるべきものと宗祖自身が規定しており、あくまで教義的な対立に限られる。このため、現状で「紛争」と言えるような対立関係(教義以外についての対立関係)があるのは創価学会くらいしかない。
創価学会は、1990年(平成2年。正式な破門は翌1991年)に日蓮正宗に破門されて以来、日蓮正宗への攻撃に多くの時間と労力を費やしており、「仏敵を責めること」が重要であるという立場から、聖教新聞などの機関誌では連日のように日蓮正宗への誹謗中傷や人権侵害を繰り返しており、特に前法主日顕を含む高僧に対しては、とりわけ激しい中傷が繰り返されている。また、日蓮正宗を人的・経済的に消耗させる目的で、敗訴を前提に大量の訴訟を行うという活動も行われている。これは末端の組織でも徹底しており、前法主である日顕の死亡を祈念する唱題会が行われたケースもある。このため末端の創価学会員には、日蓮正宗の檀徒に対して暴力による攻撃に走る者も多くいる。日蓮正宗寺院の多くは創価学会員による法要の妨害を経験しており、横須賀法照寺では創価学会員が二度にわたって放火で現行犯逮捕されるなど、刑事事件も頻発した。ただし、こうした暴力攻撃も現在では比較的収まってきているが、寺院への盗撮や参詣者への尾行は執拗に続けられているという主張もある。
日蓮正宗に対する外国政府による評価
- 台湾では、阿部日顕管長が外省人主体のマスコミにより新聞、TVなど各種媒体で「花和尚」(好色僧)と紹介された。
- マレーシアでは仏教団体でこの宗派のみが僧侶の常駐を許可されている。
- フランスでは、1980年代に「日蓮正宗(創価学会)」の名称でセクトとする報告が国民議会へ提出されたこともあるが、1996年の新しい報告書において該当部分はSGIフランスと書き改められており、日蓮正宗と創価学会を分離した上で判断を下しているが、一部の民間団体では創価学会と同様のカルトと主張する団体も存在する。
- アルゼンチンではマザー・テレサ への日蓮正宗のみが正しい宗教で他の宗教は邪教とする基準での評価が誹謗中傷と判断された事と、政府の許可を得ずに布教所の開所式を行った事によって、現地の法人格を抹消されて僧侶も国外退去処分を受けたと創価学会機関紙「創価新報」では報じられているが、現在は布教所は儀式を奉修して、寺院活動は継続されている。この背景にあるものはアルゼンチン創価学会の工作により誤解の生じたもので、大統領令によって1年に亘って公式に活動はできなかったが、「法人取り消し及び活動禁止処分の停止の仮処分」が現地裁判所で認められた。
- ヨーロッパでは伝統が重んじられ、仏教は三宝(仏・法・僧)を帰依するものと捉えられ、日蓮正宗は一般的な仏教という評価である。逆に、創価学会や日系宗教団体は、「俗物的」と捉えられ、異端視される感がある。
主要寺院
- 本山格寺院
行事
年中行事・恒例行事(総本山の行事は大石寺の項目を参照)
- 1月1日 元朝勤行
- 正月三ヶ日 新年勤行会
- 1月成人の日 成人式(各寺院で檀信徒に新成人がいない年は行わない)
- 2月3日 節分会
- 2月7日 興師会(開祖・日興の祥月命日)
- 2月16日 宗祖御誕生会
- 3月春分の日 春季彼岸会
- 4月28日 立宗会
- 虫払い法要(宝物がある一部の古刹寺院のみ、大石寺では毎年4月6日、4月7日に営まれる)
- 8月15日 盂蘭盆会
- 9月12日 竜口法難会
- 9月18日,9月19日 寛師会(第26世日寛上人祥月命日)
- 9月秋分の日 秋季彼岸会
- 10月~11月前半 宗祖日蓮大聖人御大会(大石寺では11月20日から11月21日にかけて営まれる)
- 11月15日 目師会(三祖・日目の祥月命日。七五三を兼ねる)
- 11月20~21日 宗祖日蓮大聖人御大会(日程は末寺によって違う場合有り)
- 毎月1日 御経日(信徒精霊、先祖供養)
- 毎月第1日曜 広布唱題会(大石寺と全ての末寺で一斉に午前9時からの1時間唱題会)
- 毎月第2日曜 日蓮大聖人御報恩御講(大石寺大坊では13日のみ、一部の寺院では命日にあたる13日にも行われる)
- 御経回(春秋の彼岸やお盆に僧侶による檀家回りが行われる)
冠婚葬祭
日蓮正宗の冠婚葬祭は化儀に則って行われるが、地域の風習などで多少の違いがある。
- 結婚式
- 葬儀
- 起工式
- 上棟式
- 初参り
- 七五三
- 成人式
その他
- 一部の寺院では電話帳広告や墓地の折り込みチラシなどに「日蓮宗○○寺」と表記している場合もある。
- キリスト教福音派と教義の類似が多いため「日蓮宗福音派」という俗称が自然発生的に考案された。
- 伝統的に女系家族を男系より極めて劣った家系と見做し、女性信徒を含め男尊女卑の気風が強いため、細木数子の思想との関連性が度々噂されているが宗派としてはキリスト教やユダヤ教同様占術、呪術等を邪法として排除しているため両者は全く無関係である。