ノート:武家の身延に公家の富士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[編集] 統合の是非、統合先の妥当性
一項立てるような内容なのか? --忠太 2005年5月18日 (水) 12:16 (UTC)
- 記事の統合を考えた方が適切かもしれません。Ribbon 2005年5月18日 (水) 13:09 (UTC)
- 整理依頼に議論が引き継がれています。項目統合提案中。--Kstigarbha 2005年8月12日 (金) 21:45 (UTC)
項目統合提案中には反対です。
- 理由その1
- 実際の富士派で例えば大石寺のその建立から現在まで勅使門が一度も開いたことがない。山例えば日蓮宗各山では紫衣や御朱印を恩賜され、勅使が来山し勅使門は開いている。
- 理由その1への反論
- 本文には「総門が黒木の御所造で、三門は朱塗りであり、二天門には菊紋が施されており」とあるが、これについての論議が無いと思われる。本来「黒木の御所造の門」は勅を頂かねば建てられないのは常識である。すなわち一度は勅許が出た証拠では無いだろうか。なお、御所造りの門は身延には存在しない。また、大石寺は日蓮門下で唯一、京都御所の造りを擬している。(UTC)
- 理由その2
- 大石寺はこれをよく強調するが、天皇陛下のご近親の誰それが御本尊をお受け取りになり、富士派の信仰を受け入れたとの話がよく流布されるが、日蓮系各派は天皇陛下、およびそのご近親に御本尊を奏上することは歴史上よくあり、特別な話ではない。
- 理由その2への反論
- 貞明皇后御存命の頃、御用邸には10畳敷きの仏間があり、毎日の朝夕、題目の声が響き渡り、女官はそのまえを平伏して、とおる習わしがあった。当時の女官文書にはっきりと大石寺信仰のお勤めとあるので、単に本尊を奏しただけでは無い。
- 理由その3
- 実際、日蓮正宗に皇族およびその御親近、はたまた旧皇族、霞会等々に日蓮正宗帰依者がいるかといえばさにあらず。
- 理由その3への反論
- また、霞会については、霞会には富士嫌いが多い事は事実であろうが、その霞会の中にも、日蓮正宗檀徒(旧大臣家・羽林家・半家の一部は、表塔中西側坊に所属している。摂家の分家にもいる。)はいる。
- 日蓮正宗妙縁寺には日野大納言が帰依していた記録がある。日野家は公家の名門である。
- 理由その4
- 日蓮宗および日蓮正宗の現実の実態と会わない。
- 例:身延山の大旦那波木井六郎実長公のお父上は南部公であり、この南部氏族は旧華族となり関東軍陸軍参謀石原莞爾の才能を見抜き、育てた。南部氏族は一部の人が富士派に属すると主張するが、富士派に帰依した形跡はない。
--波木井坊竜尊@日蓮宗
- 理由その4への反論
- 波木井坊竜尊氏は勘違いされている。
- そもそも、波木井六郎実長は南部家の嫡男では無い。三男又は六男の説があるが、どちらとは特定できない。
- 南部家嫡男の系統を受け継いだのが、江戸時代の南部盛岡藩主であるが、この南部家は明治期に伯爵に列している。
- なお、日蓮正宗(富士派)感恩寺の開基は相馬大作の子息であり、開基檀那は南部伯爵である。
- 南部家は氏族である波木井家の系列は日蓮宗にいるであろうが、本家である南部伯爵は富士に帰依しているのである。
- もっとも南部家は、武家であって公家では無いので、本項目には直接関係無いであろうが、波木井坊竜尊氏が持ち出されたのであえて返答した。kaneichi
- 波木井分家の芳賀氏は、大石寺に墓が存するので、帰依した事は事実である。(UTC)
余談ですが、多少誤りがありますので、訂正します。
- 波木井本家は北條氏に最後まで仕えたので、“建武の中興”で取りつぶしになった。
- その後、傍系が葉賀氏を名乗り、京都要法寺の信徒となったが、御一新の砌、士族に列して、東京に移り、池上本門寺の檀徒となり再び「波木井姓」に復した。池上の信徒に列する時に、大聖人様の真筆の御書を差し出して、大本願人に列した。
- その墓所は、池上本門寺内「お萬さま」墓地の近傍に存する。
- なお、波木井姓に復すことを良しとしなかった、一族の一部は葉賀氏として別に子爵を賜った。当主、葉賀正道は岩倉具視に随従したため、波木井氏よりも別格待遇となり、後に大石寺に帰伏した。そのため、大石寺大名墓の一角に、葉賀氏の墓がある。貴族院の役職も勤めた名家である。現在も葉賀旧子爵家は大石寺塔中の一部に所属している。
- かつて、日蓮正宗の記事内には、2005年3月4日 (金) 12:48の版より、2005年7月31日 (日) 14:06の版までの諸般に「なお、古来より「武家の身延に公家の富士、石山禁裏の御用達」とうたわれており、禁裏(天皇家)及び公家との関連性が多いとされている。」という一文があった。
以上の経緯より、
- この記事の統合先として妥当なのは、日蓮正宗である。
- この記事や、日連正宗で関連文章を投稿したIP氏と、2005年8月3日 (水) 21:40の版で関連文章を削除した利用者:波木井坊竜尊@日蓮宗氏は、この文章を独立した記事や、記事中の1文面として存在させる意味と意義について合意を形成すべきである。
- 日蓮宗への統合は問題とならない。
と考える。--Dalaibaatur 2005年8月16日 (火) 13:32 (UTC)
[編集] 削除、消去の妥当性
日蓮正宗の記事中において、富士門流が、中世から近世にかけて公家や禁裏と深い関係をもっていたと主張したいのであるならば、「武家の身延に公家の富士、石山禁裏の御用達」という歌1句によってではなく、個別的、具体的な史実の提示によっておこなうべきである。
ただしこの歌が、IP氏の主張するごとく「古来より・・・とうたわれ」ていることが事実であるならば、たとえ波木井坊竜尊氏の主張するごとく、歌の文言そのものが史実に反していたとしても、富士門流内の自己認識を反映した史料として、記事中で取り上げたり、言及したりすることそのものを否定すべきではない(逆に、昭和とか、平成になってから言い出されたにすぎないのなら、記事で取り上げる価値はないと考える)。
よってIP氏には「武家の身延に公家の富士、石山禁裏の御用達」という歌の初出史料や流布状況について紹介、提示されるよう希望する。--Dalaibaatur 2005年8月16日 (火) 13:32 (UTC)
- 上記「歌の初出史料」に関する返答。
慶長年間の歌集「美楊君歌集」に"うたよみ知らず"で「武家の身延に公家の冨士石山禁裏の御用達」とある。 これが、歌の初出であろう。
[編集] 総括
上記、各項目からも、反対派の見解はほとんど反論され尽くしており、それに対する反対派からの再反論は存在しない。 以上の経緯から、そろそろ「統合」しても言いように思いますが如何でしょうか?古今無双