四国中央市
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四国中央市(しこくちゅうおうし)は、愛媛県の東端に位置し、四国3県に接している市。
2004年4月1日に愛媛県の東端に位置する川之江市(かわのえし)・伊予三島市(いよみしまし)・宇摩郡土居町(うまぐん どいちょう)・宇摩郡新宮村(うまぐん しんぐうむら)が合併して生まれた。
将来、道州制が導入される場合の道庁所在地乃至州都に成る事を目指して命名。発足時の人口は約9万6000人。
目次 |
[編集] 地理
高速道路が交差する交通の要衝であり、60km 南に高知市、70km 北東に高松市、80km 西に松山市、100km 東に徳島市が位置する。高速道路網の整備により、川之江ジャンクションと川之江東ジャンクションを持ち、四国の「エックスハイウェイ」が交差する中心地となっている。
市の南部に東西に連なる法皇山脈の山々が屏風のようにそそり立っている。平地は山地の北側に細長く展開し、北は燧灘に面している。中央構造線が山すそに沿って、東西に走っている。法皇山脈の南側に吉野川の支流の一つである銅山川が東流し、そのさらに南には高知県との境をなす山々が連なっている。
[編集] 歴史
[編集] 有史以前
- 市域で発見された遺跡から、この地方に人が住みはじめたのは1万2000年以上前と考えられる。最初に人が住んだのは金生川流域の丘陵地帯で、その後縄文時代から弥生時代にかけて海岸の平野部に生活の範囲が広がっていった。
- 古墳時代には前期から中期の古墳は見つかっておらず、古墳時代後期の6世紀になってから丘陵地帯に古墳が作られるようになった。急峻な山地と狭く長い平野のため、大きな権力を持つ社会の形成は遅かったようである。
[編集] 宇摩郡の成立
- 大化の改新後、この地域は宇摩郡と呼ばれるようになり、交通網の整備によって中央から伊予・土佐への交通の分岐点となった。この宇摩郡と四国中央市の市域はほぼ一致する。
[編集] 交通の要衝
- 戦国時代になると、四国でも産業が発展し各国の交流が増加した。それに伴い、交通の要衝として戦略的に重視されるようになった。3つの国境に接する市域の東部では特に防衛のための砦が多く築かれ、現在もいくつかの遺跡が残されている。
- 金生川の河口は川の江と呼ばれ、河口付近の浅瀬を港として利用されるようになった。江戸時代に入ると土佐街道の始点として商業が発達し、港町として発展した。
- 1985年3月に、四国で初めての高速道路が開通した。(土居IC~三島川之江IC)
- 2000年3月に、川之江東ジャンクションの供用開始により、川之江ジャンクションと併せて四国の「エックスハイウェイ」が完成する。
[編集] 明治維新以後
- 明治維新後、交通手段が徒歩から船や鉄道に変わると、川之江の交通の要衝としての重要性は相対的に低下し、地理的に宇摩郡の中心に近い三島が商業地として発展した。三島に当地域を管轄する税務署、簡易裁判所、労働基準監督署、警察署などの国の機関や愛媛県の出先(伊予三島庁舎)が置かれるなど、宇摩地区の行政の中心となっていった。
- 1954年 宇摩郡の各町村が合併し、川之江市、伊予三島市、土居町、新宮村、別子山村が誕生した。
- 2003年 別子山村が隣接する新居浜市に合併された。
[編集] 四国中央市の成立
- 2004年4月 川之江市、伊予三島市、宇摩郡土居町・宇摩郡新宮村が合併し誕生。
[編集] 行政
[編集] 行政組織・行政課題等
- 市長
- 初代 井原巧 (前愛媛県議会議員、石津隆敏前:川之江市長との一騎打ちを制し当選。自称たー君)
- 庁舎
- 旧伊予三島市庁舎を本庁舎としている。合併協議の段階で、庁舎の位置が難関となり、この問題をこじらせると合併そのものが成就しない恐れすらあったため、新市にて改めて検討することとし、事実上決定を「先送り」した経緯がある。(過去、川之江市と伊予三島市との間で何度も合併話が持ち上がったが、庁舎の位置問題が最大の難関で、結局、合併話そのものが流れてしまったこともあった。このため、庁舎の問題については極めてナーバスな問題であった。)
- 行財政改革
- 職員の給与見直しに愛媛県内市町では初めて踏み込んだ。広報紙への広告掲載、自治条例の制定など先進的な施策に愛媛県内では先頭を切って取り組んでいる。
- 2006年2月、庁内公募制の導入
[編集] 合併の経緯
- 1965年 8月 市町村議会議員を中心に「宇摩市町村合併促進調査研究協議会」が設立されるも自然消滅。
- 1969年 8月 川之江市・伊予三島市で「合併研究連絡協議会」が発足。新市名、事務所の位置など未決定ながらも、翌年3月に報告書を提出し、解散。
- 1986年 3月 篠永伊予三島市長が議会で宇摩合併を提唱。
- 1986年10月 伊予三島市役所の庁内組織として宇摩地域合併協議会を設置、検討開始。
- 1988年 この頃から青年会議所の広域的活動が活発化。
- 1988年 3月 宇摩地域合併協議会「大同団結への提言」報告書を提出。
- 1995年 5月 青年会議所を中心とした青年7団体からなる「宇摩合併研究会」が発足。
- 1997年11月 川之江・伊予三島青年会議所が統合し「法皇青年会議所」に。
- 1998年10月 宇摩合併研究会が西田自治大臣及び自治省鈴木行政局長を招き合併シンポジウムを開催。
- 1999年 5月 宇摩合併研究会が「新宇摩合併研究会」となる。
- 2000年 6月 新宇摩合併研究会が宇摩全域の市町村長、県議会議員、市町村議会議員総勢92名に記名式公開アンケ-トを実施、結果を8月20日頃に新聞折り込みで全戸配付(回答数40)
- 2000年 9月 宇摩5市町村首長会談。「合併は避けられない問題」との共通認識のもと、助役級による「合併検討委員会」の設置を決定。
- 2000年11月 宇摩5市町村議会からなる行政研究懇談会が、各議会において早期の特別委員会設置に努力する旨を申し合わせ。
- 2000年12月 合併検討委員会が5回の会議を経て、任意の合併協議会設置を求めた報告書を提出
- 2001年 1月 宇摩5市町村首長会談。任意の合併協議会及び設立準備会の立ち上げに基本的合意がなされる。
- 同 行政研究懇談会。各議会において合併に関する特別委員会の結成を申し合わせる。
- 2001年 2月 5市町村のうち、別子山村議会が全会一致で合併先を新居浜市と決定。宇摩合併から離脱、2市1町1村の枠組みが事実上決定。
- 2001年 3月 宇摩4市町村首長会談。4月中旬の合併協議会設立が決定される。
- 同年3月議会 各議会の合併関連特別委員会並びに全員協議会において、合併協議会設立に関して説明、了承を経て協議会の発足に至る。
- 2001年 4月 第1回宇摩合併協議会(任意協議会)開催
- 2002年 5月 任意協議会「勝ち抜く宇摩を目指す手段として一日も早い法定協議会の設置が望まれる」旨の報告書。任意協議会としての協議を終える。
- 2002年 7月1日 法定合併協議会第一回会合(以降全17回の協議会を経る)。2004年4月1日合併を目指す。
- 2002年 9月1日 新市名称案を全国公募(同年10月15日まで)
- 2002年12月2日 新庁舎問題、候補地を国道11号沿いなど3ヵ所に絞り、新庁舎建設まで現在の伊予三島市役所を仮庁舎とする」ことで最終的に合意
- 2003年2月14日 第7回協議会において投票により、5候補中、過半数を得て、新市の名称を「四国中央市」と決定。
- 同 在任特例期間を1年11ヶ月と決定。
- 2003年7月~8月 新市名の再考を求める活動活発(12,460名の署名集まる)
- 2003年 8月22日 第14回協議会。新市名称の再検討を求める要望書について、再検討を行わないことを決議。合併協議書案を承認。
- 2003年 8月28日 合併協定書の調印式
- 2003年 9月22日 各市町村の議会で、廃置分合(合併)関連の議案可決
- 2003年10月3日 4市町村長が愛媛県知事に合併申請書を提出
- 2003年12月18日 愛媛県議会において、廃置分合(合併)に係る議案可決、県知事の決定
- 2004年 1月15日 官報告示(総務省告示第9号)
- 合併協議会のホームページその他資料を参考に作成
[編集] 経済
[編集] 工業
製紙、紙加工業において日本屈指の生産量を誇り、その他を含めた工業製品出荷額は約6000億円に達する。製紙工業の出荷額は全国一を誇る。工業出荷額は四国では西条市に次ぐ2位である。 大王製紙やユニチャームの上場企業をはじめ、複数の企業が本社や本部を置いている。また中堅の製紙メーカーも複数所在している。
[編集] 商業
大型商業施設にはジャスコやフジグランなどがある。 また、地元スーパーチェーン店のママイをはじめ、食品スーパー、ドラッグストアー、ホームセンター、家電量販店、本屋など県内外の企業が出店している。 栄町商店街、伊予三島駅前商店街、土居町商店街などの商店街もある。
[編集] 金融業
- 支店を置く銀行・信用金庫等
- 本店を置く信用金庫
[編集] マスコミ
- 新聞社
- 受信可能なテレビ局
[編集] 産業人口
[編集] 本社を置く企業
[編集] 工場を置く企業
- リンテック
[編集] 姉妹都市・提携都市
[編集] 国内
[編集] 海外
中国・宣城市
[編集] 地域
[編集] 教育
- 高等学校
- 愛媛県立川之江高等学校
- 愛媛県立三島高等学校
- 愛媛県立土居高等学校
- 専門学校
- 愛媛県立看護専門学校
- 中学校
- 四国中央市立川之江北中学校
- 四国中央市立川之江南中学校
- 四国中央市立三島東中学校
- 四国中央市立三島西中学校
- 四国中央市立三島南中学校
- 四国中央市立土居中学校
- 四国中央市立新宮中学校
- 小学校
- 四国中央市立川之江小学校
- 四国中央市立金生第一小学校
- 四国中央市立金生第二小学校
- 四国中央市立上分小学校
- 四国中央市立南小学校
- 四国中央市立川滝小学校
- 四国中央市立妻鳥小学校
- 四国中央市立松柏小学校
- 四国中央市立三島小学校
- 四国中央市立中曽根小学校
- 四国中央市立中之庄小学校
- 四国中央市立寒川小学校
- 四国中央市立寺内小学校
- 四国中央市立新宮小学校
- 四国中央市立長津小学校
- 四国中央市立小富士小学校
- 四国中央市立北小学校
- 四国中央市立土居小学校
- 四国中央市立関川小学校
[編集] 交通
[編集] 鉄道路線
[編集] 道路
[編集] 高速道路
[編集] 一般国道
[編集] 都道府県道
- 愛媛県道5号川之江大豊線
- 愛媛県道6号高知伊予三島線
- 愛媛県道9号大野原川之江線
- 愛媛県道13号壬生川新居浜野田線
- 愛媛県道121号川之江停車場線
- 愛媛県道122号川之江港線
- 愛媛県道123号金生三島線
- 愛媛県道124号上分三島線
- 愛媛県道125号伊予三島停車場線
- 愛媛県道126号上猿田三島線
- 愛媛県道127号伊予寒川停車場線
- 愛媛県道128号蕪崎土居線
- 愛媛県道129号伊予土居停車場線
- 愛媛県道131号別子山土居線
- 愛媛県道138号新居浜土居線
- 愛媛県道333号三島川之江港線
[編集] 港湾
- 東神戸−川之江−新居浜東港間に「バンパックフェリー」が一日2往復運航していたが、1998年に廃止された。 - 川之江港参照のこと。
- 現在大阪・神戸港と三島川之江港の間にコンテナ貨物航路が定期運航されている。
[編集] 名勝・旧跡・観光スポット・祭事・催事・名産
- 川之江城
- 神社仏閣
- 旧跡
- 東宮山古墳
- 向山古墳
- 真鍋家住宅
- 椿堂(常福寺:四国別格二十霊場14番霊場)
- 名所
- イベント・祭事
- 川之江秋祭り
- 土居太鼓祭り
- 伊予三島秋祭り
- 四国中央紙まつり(合併前は四国かわのえ紙まつり)
- あじさいまつり
- 土居夏まつり
- 天神祭花火大会
- かわのえ夏まつり
- 菜の花まつり
- コスモスまつり
- 金砂湖湖水まつり
- 名産
- 梅錦
- 柴田のモナカ
[編集] 有名人
[編集] 四国中央市出身者
()内は合併前の市町村
- 森信雄(棋士)(伊予三島市)
- 尾藤二洲(儒学者)
- 深川正一郎(俳人)
- 矢代まさこ(漫画家)(伊予三島市)
- 鎌倉健(プロ野球選手 北海道日本ハム)(川之江市)
- 角川政志(競艇選手)
- 白川義員(写真家)
- YU-KI(ユウキ)(歌手 TRFのメインヴォーカル担当)(伊予三島市)
[編集] 歴史上の人物
- 大西元武 阿波国三好郡大西郷の戦国武将。長宗我部氏に阿波国を追われてからは友好的であった石川氏の地元、川之江へ。上分の轟城を再建して居城した。長宗我部氏に着いた三島・松尾城の真鍋氏や野田氏と戦って敗れた。市内の大西神社や鉦踊りは大西氏ゆかりのものである。
[編集] 市が抱えている問題
[編集] 市名に対する批判
四国中央市はその名前の奇抜さ故に、市内だけでなく、全国的に批判の対象となる事が多い。市名が批判される理由として以下のような理由が挙げられる。
- 先走りしすぎたネーミング(道州制を先取りしたものとみられるが、四国内では議論も本格的に始まっているとは言いがたい)
- 地理的に四国の「中央」といえるか疑問。
- 合併協議会によって一方的に決定されたイメージが強い(最初の新市名公募では第一位は「宇摩市」(二位うま市)、「四国中央市」は五位だった。また新市名決定後、住民から再考を求める動きがあったにも関わらず、合併協議会は再考を検討しなかった)
地元の郡名である「宇摩」を採用せず、四国から消滅させた理由について旧伊予三島市長の篠永善雄曰く、「若者が宇摩と言う名前は、馬のようで嫌だと言っている」「宇摩の名前にどんな由来があるか、自分も含めて誰も知らない。そんな地元の歴史なんかに拘る事は無い」「(自分の地元の)三島と言う地名には思い入れがあるので字名に残した」と言う趣旨の発言を読売新聞東京本社の取材に対して残している。
- 今も土居町民の大半は合併も市名も認めてはいない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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