卑弥呼
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卑弥呼(ひみこ、158年頃?-248年頃?)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。
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[編集] 名称について
『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、梁書諸夷伝、三国史記新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。「ひめみこ」を音写したものという説もある。当時の中国語が異民族の音を記す時、「呼」はwoをあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。(外部リンク参照*[1] *[2])一方で、当時の中国語から「ビミファ」だったのではないかとする説もある。その場合、「ミファ」は大神(オオミワ)神社のミワに対応し「ビ」は、女性の尊称(ビ、ベ)、日あるいは蛇とも取れ、姫神、日神、蛇神とも解釈できる(後世、そのように解釈された形跡がある)。「日巫女」(日神に仕える巫女)の意味とする解釈もある。いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則についてはまったく説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない。(少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論を基本に考察しなければならない)
[編集] 概要
[編集] 三国志の卑弥呼
[編集] 魏志倭人伝の卑弥呼
魏志倭人伝によると、「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明)。「年已長大 無夫壻」年長大であったが夫を持たず、「有男弟佐治國」弟がいて彼女を助けていたらしい。「自爲王以來 少有見者」王となってから後は、彼女を見た者は少なく、「唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設」ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。 「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。
[編集] 魏書帝紀の俾弥呼
『三國志』(三国志)の卷四、魏書四、三少帝紀第四には正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
[編集] 朝鮮半島の書物から
朝鮮半島の三国史記新羅本紀による。
[編集] 年譜
中国の歴史書による。
- 桓帝・霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱の時代。その後、邪馬台国を治めていた卑弥呼を共立し、倭を治める。
- 239年 - 難升米らを中国の魏に派遣。親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられる。
- 243年 - 魏に遣使。
[編集] 卑弥呼の人物比定
卑弥呼が、古事記や日本書紀に書かれている誰にあたるか、またあたらないかが、江戸時代ころから議論されていた。誰に相当するかによって、日本古代史は大幅に変わりうるからだ。
[編集] 神功皇后説
日本書紀の神功皇后紀において、魏志倭人伝の中の卑弥呼に関する記事を引用している。このため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていた。この説にたてば、邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったことになる。
ただ神功皇后の息子、応神天皇は八幡神として宇佐神宮(大分県宇佐市)に祀られ、皇后自身の祭殿も同社にあり、ヤマト王権の所在地からかけ離れている点を指摘する意見もある(これには神功・応神期にヤマト王権と朝鮮半島の通交が活発化し、通交航路である瀬戸内海沿岸に神功・応神を祀る八幡宮が置かれたのだとする反論がある)。また日本書紀の記述も、記紀編纂の過程で恣意的に加えられたという見方もある。
[編集] 熊襲の女酋説
本居宣長や鶴峰戊申(つるみね しげのぶ)が唱えた説。宣長は、日本は古来から独立を保った国という考えを強く持っており、魏志倭人伝の卑弥呼が魏へ朝貢し、倭王に封じられたという記述は、宣長の受け入れられるものではなかった。また魏志倭人伝の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、宣長は九州の熊襲の女酋長が勝手に倭王を名乗り、魏へ通交したと考えた。この説の考えは現在、九州王朝説へと引き継がれている。
[編集] 筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)説
九州王朝説を唱えた古田武彦は、筑後風土記逸文に記されている筑紫君の祖「甕依姫(みかよりひめ)」が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であるなどと主張している。
[編集] 倭姫命(やまとひめのみこと)説
戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命を卑弥呼に比定した。
[編集] ヤマトトトヒモモソヒメノミコト説
ヤマトトトヒモモソヒメノミコトは、日本書紀の倭迹迹日百襲姫命又は倭迹迹姫命、古事記の夜麻登登母母曾毘賣命。
日本書紀によりヤマトトトヒモモソヒメノミコトの墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、又、日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる古墳であり、当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。
この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、魏志倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。
日本書紀には、ヤマトトトヒモモソヒメノミコトについて、三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、卑弥呼と同様な神秘的な存在と意識されている。又、崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも魏志倭人伝の「有男弟佐治國」(男弟有り、佐(助)けて国を治む)という、卑弥呼と男弟の関係に一致する。
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は3世紀末から4世紀初頭であり、卑弥呼の時代と合わないとする説が有力であった。しかし最近、年輪年代法や放射性炭素法による年代推定を反映して、古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となっており、上記の箸墓古墳の築造年代は、研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年 頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっている。
[編集] 卑弥呼=下照姫説
アマテラス(天照大御神)は、卑弥呼が日神、さらには照姫という解釈で、後世作られた可能性が高い。同じく、照姫という意味では記紀神話に下照姫が載せられている。下照姫にも、兄弟としてアジスキタカヒコネが記されている。卑弥呼をもとに、天上界は天照姫、下界は下照姫に書き分けて作られたという解釈も成り立つ。 アマテラスと比べ、下照姫はより現実的に描かれており、その原像に迫る糸口となる。また、下照姫の場合、異名同神関係にある神を見出すことが相対的に容易であり、実像に迫ることが可能となる。 異名同神という言葉自体あまり耳慣れないかもしれないが、各地の神社にはどう見ても同じ神でありながらさまざまな名称で祀られている場合が少なくない。例えば、アジスキタカヒコネの場合、神社での祭られ方からすると、一言主、事代主、大物主、大山咋神、ナガスネヒコなどが異名同神となる。下照姫の場合、アマテラスのほか、ミツハノメ、アメシルカルミズ姫、タマヨリビメ、トビヤ姫、イチキシマヒメなどである。 卑弥呼(ビミファ)は、姫神とも解釈できるが、イチキシマ姫は姫神と称される女神(宗像三女神)の一神である。これらの関係から、魏志倭人伝に登場する台与(壱与)というのは,事代主の娘イスキヨリ姫となる。豊受大御神(トヨウケビメ)、トヨタマヒメなど、魏志倭人伝の台与を連想させる名前もその異名である。 ここでは詳細を略すが、異名同神関係を整理すれば、神々の体系と魏志倭人伝に登場する人物の対応が取れてくる。魏志倭人伝に描かれた世界は、記紀神話の天の岩戸等、幾つかの物語に対応することは間違いない。
[編集] アマテラス=卑弥呼説
中国の史書に残るほどの人物であれば日本でも特別の存在として記憶に残っているはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物はアマテラス(天照大神)しかないとする説。
卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北九州で皆既日食がおきたことが天文学による計算より明らかになっており、(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかと考えられている。
安本美典は統計学的手法によって天皇の平均在位年を求めると、丁度卑弥呼が生きていた時代にアマテラスが生きていた時代が重なる[3]と唱えている。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている。(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)卑弥呼の後継者の台与はタカミムスビの娘でアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。
また、作家(松本清張や井沢元彦など)が唱える説として、卑弥呼暗殺説もある。皆既日食の発生により、太陽神(ヒ)に仕える巫女(ミコ)である卑弥呼の霊力がなくなり、邪馬台国の人々により卑弥呼が殺害されたとする説である。この説の提唱者は、卑弥呼暗殺後、邪馬台国は混乱したものの台与が新たな太陽神に仕える巫女として選ばれることとなり、このことが、天岩戸に一度隠れた天照大神が再び出てきたという日本書紀などの記事につながったとしている。暗殺説は、特に根拠はなく想像に頼るところが大きく、単なる提案に過ぎないとする意見が多い。
卑弥呼の記憶が天照大神の信仰となってヤマト王権に継承されてきたとするのが、天照大神説である(ただし、天照大神の信仰は、天武天皇が創始したとする説もある)。天照大神説を補強する文献史料も特に存在しておらず、この説は推測の域を出ていない。
卑弥呼が天照大神だとすれば、邪馬台国は高天原ということになる。邪馬台国東遷説では九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して大和朝廷となったとし、それを伝えたのが記紀の神武東征であるとしている。卑弥呼=天照大神説、すなわち邪馬台国=高天原説は邪馬台国東遷=神武東征説との整合性が高く関連が注目される。
[編集] 卑弥呼=卑弥呼説
卑弥呼に該当する人物が、明確な形で史書に残っていないことから、卑弥呼は卑弥呼であったとする説。魏志倭人伝が伝える倭国・邪馬台国の各事件が、日本の史書に全く見られない。このことにより、卑弥呼を継承する政権は、3世紀中期~後期頃に断絶したのではないかとする説である。これによれば、卑弥呼を誰かに比定する必要がなくなるとともに、卑弥呼・邪馬台国に関する問題点を比較的簡潔に解消することができる。この説は、支持をそれほど得ていないが、次第に注目を集めつつある。
ただ、古代中国の史書と古代日本の史書の双方に明確に同一と判断できる人物や事件が記載されていれば歴史家も楽であろうが、そのようなことはありえない。5世紀の中国の史書に見える倭の五王ですら日本の史書とは矛盾があり同時代の天皇との比定に諸説があることを考えれば、この説は問題点を解決するというよりは問題点を解決することを放棄したとのそしりを受けかねない説である。
[編集] 卑弥呼、日女命(ひめみこと)説
海部氏勘注系図に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人は別名、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)と呼ばれた人で、名前のイメージは、魏志倭人伝が伝える卑弥呼に一致する。またこの二世代後には、台与(とよ)と思われる、天豊姫なる人物がそんざいする。 卑弥呼の系譜