霊帝 (漢)
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霊帝(れいてい 156年 - 189年 在位167年 - 189年)は中国後漢の第12代皇帝。諱を宏という。解瀆亭侯劉萇(建)の子。章帝の玄孫に当たる。生母は河間の董氏。
桓帝(劉志)に子がいなかったために、陳蕃らによって擁立された。宦官と外戚の権力闘争で疲弊したと評価される後漢であるが、霊帝の治世において、宦官の優位が決定的となる。即位の翌年、陳蕃らによる宦官排斥計画事件が起こり、かえって宦官らの逆襲を受けて桓帝時代の外戚は排除され、宦官が権力を握ることとなる。霊帝本人は暗愚な人物で、宮殿内で商人のまねをしたり酒と女に溺れて国政に関心を示さず、官職を賄賂で売るなど、悪政を続けた。このため、政治の実権は張譲ら十常侍と呼ばれる悪宦官らに牛耳られることとなり、その結果、後漢は疲弊することとなった。
このため184年、民衆の怒りが大爆発して大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が起こることとなった。この反乱により後漢王朝は一時、危機に陥ったが、董卓や皇甫嵩ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、この反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった。
189年、国内がさらに乱れる中で崩御。後継者を明確に定めていなかったために、死後、息子の劉弁と劉協との間で皇位継承争いが起こることとなった。
霊帝の時代は、後漢の事実上の最後といってよい。宦官を重用し、民衆に重い賦役を課して人心を完全に離反させ、黄巾の乱が起こった結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化し、それがやがて三国時代へとつながるきっかけまでになったのである。
[編集] 皇帝直属の常備軍創設構想
188年10月に皇帝直属の常備軍を創設を構想したと言われている。当時、王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった。必要に応じ、その都度地方から兵を徴集して軍を編成していたのである。しかも地方から徴集される兵の大半は、農民から徴兵した兵士であったため、質も低かったと推測される。そのため、戦闘を専門として高い質の近衛軍を編成し、常駐させるのは歴代皇帝の悲願でもあった。皇帝自ら無上将軍と名乗り、その下に西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官が存在した。その指揮官の中には若き日の曹操や袁紹、淳于瓊がいた。西園八校尉に関する具体的な軍編成規模は解っていないが、1万人規模が妥当ではないかと言われている。この近衛軍の編成には大幅な費用がかさむのが最大の泣き所であったが、後の曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、後の魏の国軍編成の根幹になった程の制度であった。しかも魏以降の歴代中国王朝に引き継がれて行き、長く中国の国軍編成制度として受け継がれていったのである。霊帝が官職を賄賂で売っていたのは、この近衛軍編成のための費用に充てるためではないかと推測するする向きもある。しかし、実際には創設途中で霊帝が没したため、先述した通り曹操によって後に実現される事となる。