魏志倭人伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
魏志倭人伝(ぎしわじんでん) は、中国の正史『三国志』の中の魏の歴史が書かれた「魏書」(通称『魏志』)30巻のうちの東夷伝に収められている倭人の条の日本において一般に知られる名。つまり正式な名前は『三国志』魏書東夷伝倭人条である。「魏志倭人伝」の名はあくまで通称である。
作者は西晋の陳寿で、3世紀終末、280年~290年間に書かれたとされている。原本は散逸しており、写本のみが残る。全文で1988(又は2008)文字からなっている。
目次 |
[編集] 概要
倭人伝には、中国正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。 ヤマト王権成立期(古墳時代前期)の様子が書かれている。当時の倭(後の日本)が小国により構成されている様子や、生活様式、その小国の位置・官名についての記述が見られる。
小国の位置については、多様な解釈を可能とする記述がなされており、邪馬台国の位置論争の原因となっている。また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。一方で岡田英弘など魏志倭人伝の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。彼らは位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。
[編集] 内容
その倭人伝の内容は、大きく分けて3段落から構成されている。分け方についてはいくつかの説がある。
[編集] 邪馬台国までの国、行程、国の様とその他の国など
- 倭人の居住地や国邑に分かれて住んでいる。漢の時代も今も魏と交渉がある。
- 帯方郡から倭までは、海上を進んで韓国を経由しながら狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。そこまでが七千里ある。海を千余里行くと対馬国につく。そこの役人や島の様子、広さや戸数など島民の暮らしなどを記している。そこから韓海、千余里を渡ると一支(いちし)国につく。役人や島の広さや戸数、暮らしの様子を記している。また、海一つ千余里を渡ると末廬(まつろ)国につく。戸数、居住の様子、土地の様子、生業を記している。さらに、東南へ陸上を五百里行くと、伊都国に到着する。役人や戸数を記し、代々王がいて、女王国に服してきた。ここは帯方郡の使者が往来し、常駐する。伊都国から東南へ奴国(ぬこく)まで百里ある。役人や戸数を記す。東へ進み不弥(ふや)国まで百里ある。南の投馬国まで海を行くと二十日かかる。役人や人家五万戸余と記す。女王国の邪馬台国までは、海上を行くと十日かかる。役人、人家は約七万余戸である。
- その他、女王国より先の国々は、遠く離れているため詳細を知ることが出来ない。21カ国の名が記されており、女王に服する国々の境界である。その南に狗奴(くぬ)国があり、男子が王で、女王に服さない国である。
- 帯方郡から女王国に至るには、一万二千余里ある。
[編集] 倭人社会の習俗、生活、制度など
- 「皆面黥面文身」という顔や体に入れ墨を入れている。
- 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
[編集] 倭国と魏との関係
[編集] 『後漢書』倭伝との関係
范曄が著した『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に、倭についての記述がある。 その内容は『魏志』倭人伝に酷似する。したがって范曄の『後漢書』倭伝は、陳寿の『魏志』倭人伝を基に、書かれたとするのが今日の通説である。しかしその内容は微妙に異なり、『後漢書』倭伝には『魏志』倭人伝に書かれていない事も記す。このことから『後漢書』倭伝の典拠は『魏志』倭人伝ではなく、魏志倭人伝の典拠となった史料を参照しているとする説がある。
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 卑弥呼と邪馬台国
- 魏志倭人伝の原文と対話型和訳
- 邪馬台国は吉備国だった!
- 魏志倭人伝 紹熙本系百衲本の画像 (一紙目、 左側中ほどに「倭人傳」とある。 そこからが倭人伝。)