倭の五王
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倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、中国南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。
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[編集] 概説
日本書紀などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。「武」は、鉄剣・鉄刀銘文から雄略(大泊瀬幼武命;おおはつせわかたけのみこと)に比定されているが、他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがあり、天皇と倭の五王とを関連付ける証拠は無く、倭の五王の正体については今のところ不確定である。なお、記紀では反正と允恭は兄弟とされるが、宋書では珍と済の関係は記されておらず(梁書では父子となっている)記紀の系譜自体に疑問がもたれている。
また「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年が全く合わないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないとする説もあるが少数派に止まっている(九州王朝説)。
このように、「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年が合わない最大の要因は、仁徳天皇から欽明天皇の間ぐらいにかけて、暦の改変・中国への朝貢について対立があったのではという説もある。もともと日本では春耕秋収で1年と数える倍年暦だったが、中国に朝貢するようになって中国で使われる四季で一年とする通常暦を導入し、その後、遠い傍系の継体天皇の代に再び倍年暦に戻し、継体天皇の子供の欽明天皇(生母が仁徳天皇の男系子孫)の代に再び通常暦を導入したのではと思われる。古来より日本の時空(暦)を操るのは皇室の専権事項であり、農耕社会では暦を操ることは非常に意味が大きかった。中世以降でも暦の改変で皇室と当時の権力者であった織田信長が対立し、それが本能寺の変の要因になったとも言われる。また、中国への朝貢自体も大きな対立要因になったと思われ、中世以降の足利義満の時代でもそれについて日本国内の反発があったように、この倭の五王時代も大きな反発があったように思われる。
使いを遣わして貢物を献じた目的として、東アジアの中心国であり、先進国である中国大陸の文明・文化を摂取すると共に、当時の中国(東晋などの南朝)の威光を借りることによって、当時の日本列島中西部の他の諸勢力、朝鮮半島諸国との政治外交を進めるものがあったと考えられる。
[編集] 倭の五王、外交年表
413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢している。それを年表にすると次のようになる。
西暦 | 中国王朝 | 中国元号 | 倭王 | 用件 |
---|---|---|---|---|
413 | 東晋 | 義熙9 | 讃 | 東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀)(『太平御覧』)(倭の五王かどうかも不明) |
421 | 宋 | 永初2 | 讃 | 宋に朝献し、武帝から、除綬の詔うける。おそらく安東将軍倭国王(『宋書』倭国伝) |
425 | 宋 | 元嘉2 | 讃 | 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる(『宋書』倭国伝) |
430 | 宋 | 元嘉7 | ? | 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) |
438 | 宋 | 元嘉15 | 珍 | これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』倭国伝) 4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀) 珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』倭国伝) |
443 | 宋 | 元嘉20 | 済 | 宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。『宋書』倭国伝 |
451 | 宋 | 元嘉28 | 済 | 宋朝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝) 7月、安東太将軍に進号す(『宋書』文帝紀) また、上った23人は、宋朝から軍郡の称号を与えられる。(『宋書』倭国伝) |
460 | 宋 | 大明4 | 済か | 12月、遣使して貢物を献ずる。 |
462 | 宋 | 大明6 | 3月、宋孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) | |
477 | 宋 | 昇明1 | 倭 | 11月、遣使して貢物を献ずる(『宋書』順帝紀) これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東太将軍倭国王」と称する(『宋書』倭国伝) |
478 | 宋 | 昇明2 | 武 | 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする(『宋書』順帝紀、倭国伝) |
479 | 南斉 | 建元1 | 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東太将軍に進号(『南斉書』倭国伝) | |
502 | 梁 | 天監1 | 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東将軍に進号する(『梁書』武帝紀)(鎮東太将軍→征東将軍では進号にならないため、征東太将軍の誤りとされる) |
[編集] 倭王讃についての異説
413年、『晋書』安帝紀にある方物を遣わしたときの倭国の王については、『梁書』の諸夷伝の倭人の条において、「晋の安帝の時、倭王讃あり」と記されている。この場合、問題となるのは413年、425年、430年がいずれも同じ人物(讃)とみなしてよいかということである。 古事記の干支崩年をもとにすれば、仁徳の崩じたのは427年となる。413年、425年の讃を仁徳とすると、438年のときの「倭王讃没し、弟珍立つ」とある讃とは、記紀の記載と矛盾する。438年に記載されている讃は、記紀との整合からすると履中である。この矛盾は、記紀の表向きの記載からでは理解が容易ではない。 この問題のヒントは「播磨国風土記」にある。そこには、仁徳について大雀天皇と難波高津宮天皇が書き分けられているのである。今日の歴史学では、記紀の記載を優先して、この二人の天皇を同一人物とみなしているが、果たしてそうなのであろうか。例えば、履中とそのの皇后若日下部王は、異母兄妹婚の例とされるが、当時それが禁忌されていなかったというのは正しいとは思えない。このような婚姻関係となったのは、実際の親が異なるにもかかわらず、記紀編纂において系譜を改ざんしたために起きたものであろう。あえて事跡から判断すれば、若日下部王の父は大雀天皇で、履中のほうは難波高津宮天皇ということにある。その難波高津宮天皇は、応神の系譜記事の最後に記される伊奢真若王と考えるべきであろう。それは、履中の伊邪本和気というのは、伊奢真若の子というようにも解釈できるからである。伊奢真若の外祖父は武内宿禰であるが、仁徳の条にある「雁の卵」の部分には、いかにも祖父と孫という情景が描かれている。 伊奢真若も伊邪本和気も、中国側から見たら同じ讃である。以上のように解釈することで、413年から438年に出てくる讃の問題は解決することになる。
[編集] 『記紀』年次との対応関係
古事記に年次の記述は無いが、文注として一部天皇の没年干支を記す。 この没年干支を手がかりに、倭の五王を比定する説がある。 古事記は天皇の没年を次のように記す。
十五代応神、甲午(394年)
十六代仁徳、丁卯(427年)
十七代履中、壬申(432年)
十八代反正、丁丑(437年)
十九代允恭、甲午(454年)
二十一代雄略、己巳(489年)
二十六代継体、丁未(527年)
古事記の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。 しかし一ヶ所、『宋書』の記述と矛盾する。 それは『宋書』倭国伝の次の記述である。 『元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(宋書倭国伝)』すなわち珍を讃の弟とする記述である。
古事記が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。 讃を仁徳、珍を反正とすると、宋書倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。 反正は履中の弟である。 この一点を除けば、古事記の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。
一方日本書紀の年次では、413年から479年の間の天皇は、允恭・安康・雄略の三名である。中国史書の五名との対応がとれない。 また、421年の讃、436年の珍、443年の済という三人の遣使に対し、日本書紀のこの期間に該当する天皇は、411年から453年まで在位したとする允恭一人である。日本書紀の年次とは矛盾点が多く、対応関係がとれない。