ヤマト王権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤマト王権(やまとおうけん)は、古墳時代に倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した王権・政権である。主に奈良盆地を本拠とした。
1970年代より以前は大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は奈良時代以降のものであるとともに、この政治勢力を説明するには「朝廷」という用語は適当でないとされ、1980年代以降はヤマト王権と呼ばれている。この他にもヤマト政権、大和政権、倭王権、倭国政権などと呼ぶ場合もある。
目次 |
[編集] 成立
弥生時代においても、帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に記されているように、倭と呼ばれる政治的な結合が存在していた。しかし、その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。
対して、古墳時代に入ると、規格化された前方後円墳が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから、各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には、畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九州)など各地の墓制が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し、統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は、2世紀前期~中期に出現しているので、ヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だったとする見解もある。
各地域の勢力が連合して、ヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力(邪馬台国)が、各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合して、ヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。
ヤマト王権の王統についても、複数説が提出されている。卑弥呼-壱与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする説、6世紀に河内王朝が崇神天皇の王朝を打倒し、その河内王朝も継体天皇に王朝交替したとする説などがある。
最近の研究では、古事記や日本書紀の記述は、継体天皇(オホド王)以前は不正確であることが分かっており、継体以前については、王の名前や即位した年代は不確かである。その理由は、それ以前は暦に対する考えが違っていたと思われ、それが原因で歴代天皇の年齢が異様に高くなっている。したがって、これ以前の歴史は中国の歴史書や、古墳など考古学的資料によるしかない。中国の史書には、魏志倭人伝の他、晋書には266年に倭国の関係記事があり(倭・倭人関連の中国文献参照)、その後は、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。この間は記述がなく、日本にも文字はないので、日本の王の名や年代は分からない。413年の記事は、高句麗が倭と称して使者を送った可能性も指摘されており、421年の『宋書』倭国伝の記事以降が、倭の五王の時代である。
[編集] 発展
纏向遺跡(まきむくいせき)の発掘により、現在の桜井市を中心としてヤマト王権の拠点があったことが解明されつつある。1970年代以降の歴史学会では、古事記や日本書紀の5世紀以前の記事は不正確な伝説であり、継体天皇は実在しているが、その前の王については不確かとの見解が有力である。とくに継体以前の年代は不正確であり、例えば日本書紀の記述にある、応神天皇が68歳で即位し109歳まで生きたことなどは、当時の平均寿命を考えると正確な記録とは考えられない。また、武烈天皇、顕宗天皇、清寧天皇なども実在ではなく創作されたものとする説もある。しかし考古学的資料により、ある程度のことは分かっている。
大和王朝(ヤマト王権)の発祥の地は、吉備、出雲、筑紫(北九州)など諸説あり不明である。だがこの王権は、三輪山近くのヤマト(あるいは柳本)に、古代都市(纏向遺跡 まきむくいせき、奈良盆地の東南部桜井付近)を造り本拠をおいた王のときに大きく発展した。日本書紀は、纏向に都市を造ったのがミマキイリヒコ(崇神天皇)としているが真偽は不明である。この古代都市は、3世紀前半に建設され、4世紀末には使われなくなった。この後、交易に便利な河内平野に都が移ったとされるが、この都はまだ発見されていない。纏向遺跡には、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳もあり、邪馬台国ではないかともいわれる。纏向遺跡では鉄製品がほとんど出土しないため邪馬台国に関する記述の特徴と異なるとの説もあるが、まだ発掘は一部のみであるし、当時貴重だった鉄は次の都に運ばれたのかもしもない。
330年頃までに、ヤマト王権は筑紫(北九州)を勢力下におき、350年頃から朝鮮半島との交易を始め、当時は日本で作ることができなかった鉄製品を輸入した。朝鮮半島の任那(加羅)は鉄の産地だった。鉄製の鍬や鋤により開墾できる土地が広がり、5世紀には倭の農業生産が大きくなった。これは国力の増大につながり、やがてヤマト王権は百済と結び朝鮮半島に兵を送るなどした。広開土王碑には、新羅や百済に倭の兵が多かったとの記述があり、一時期は朝鮮半島のある程度の範囲をヤマト王権が制圧したらしい。しかし4世紀末には、既に高句麗の広開土王の兵力に押され気味だった。
420年頃から480年頃までが、倭の五王の時代である。この間、倭は中国に何度か使者を送り、朝鮮半島での利権を認めるよう要請した。だが475年には百済の首都漢城が高句麗に占領され、百済は首都を南に移転し国力が落ちた。これは倭にとっても大きな痛手であり、朝鮮半島での利権が縮小し、鉄や朝鮮半島の製品などをもとに各地の豪族を支配するのが困難となった。鉄がないと開墾できる土地の範囲が減り、農業生産が減少することは勢力の低下につながるため、各地の豪族にとっては死活問題だった。このため、ヤマト王権の力も低下したらしい。そのためか、480年頃から510年頃までに6,7人の在位期間の短い王が立ったが、この時期はヤマト王権は混乱した。507年に即位したとされる継体天皇(オホド王)の時代に、ヤマト王権の力が再び強くなった。これ以降の、記紀にある天皇の系譜はほぼ正確である。継体天皇は越前(あるいは近江)の豪族の息子であり、彼以降、大和の勢力と、越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。また継体以前は、各地の豪族は天皇家の盟友としての扱いだったが、継体の時期からは、各地の豪族は朝廷の配下とされたらしい。そのためもあり九州で磐井の乱が勃発したとの見方がある。また継体は、百済救援の軍を送ったが成果はなく、継体没後、天皇家は朝鮮半島への関与をあまりしなくなった。
前方後円墳の分布は、4世紀後期ごろまで、主に畿内~瀬戸内海沿岸(吉備など)~北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし、4世紀後期になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。同時期(4世紀後期)、倭国は百済と連携して朝鮮半島南部への出兵を行うようになった。この背景には、北方の高句麗から圧迫を受けつつあった百済が、対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸国)と連携を強めていたことがあり、この結果、倭国(ヤマト王権)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化していった。ヤマト王権が全国的に展開したことには、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。
4世紀後期より以前、ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから、王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。日本書紀の記述などから、少なくともオオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き、河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡(茨田堤)も残存している。
5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国への朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は、明確とはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部の伽耶諸国に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられている。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより、技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭)へ貢献した。渡来人は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や論語に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術を倭へもたらした。ヤマト王権は、これらの渡来人や全国各地の豪族たちを次第に組織化するとともに(部民制の形成)、中央の豪族層も大臣・大連を頂点とする系列化をおこなっていった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていたヤマト「王権」から、王を中心とする政治組織が権力を担うヤマト「政権」への転換がなされたとする見方もある。
この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王と推定される倭王武が中国へ送った上表文には、ヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態は、ヤマト王権が他の首長より優越はしているが、強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には、吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されているが、そうした中で登場したワカタケル王は、強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。
そうしたワカタケル王の努力に関わらず、5世紀末から6世紀前期にかけて王統が数回断絶し、中国との通交も途絶した。そうした中で、6世紀前期に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一した。オホド王の治世には、北九州の有力豪族である磐井が新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱))が、すぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなった。
その後、ヤマト王権は、対外指向が弱まり、内向性が強くなった。朝鮮半島から暦法など様々な文物を移入するとともに、豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。又、王族や有力豪族の間で紛争が多数発生するようにもなった。こうした中で6世紀末、幾つかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らは強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など、官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。これにより、ヤマト王権という政治形態は解消され、古代ヤマト国家が形成されていくこととなる。
[編集] 王号
ヤマト大王の項を参照。
[編集] ヤマトの範囲
詳しくは大和の項を参照。元々ヤマトの範囲は、現在の奈良県桜井市の、三輪山ふもとにある纏向遺跡周辺と考えられる。現在のJR巻向駅(まきむく駅)、柳本駅(やなもと駅)周辺であり、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳もある。
ヤマトと呼ばれる範囲は、時代が進むに従って拡大した。元々、ヤマトとは現在の奈良盆地の東南部、三輪山近くの(桜井市付近)を指したらしい(山のふもと、山に囲まれた地という意味の「山門」や「山処」や「山本」に由来するといわれる)。三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとの説もある。その地域を根拠地として成立したことから、その政治勢力(王権)をヤマトと呼ぶようになった。なお、ヤマトは奈良盆地全体を指すこともあった。
その後、ヤマト王権(ヤマト政権)の支配権が及ぶ範囲をヤマトと呼ぶようになった。当時、本州・四国・九州を中心とする地域は、中国や朝鮮半島諸国から倭と呼ばれていたが、ヤマト王権の支配範囲と倭の範囲とがほぼ同一となったため、倭と書いてヤマトと訓じるようになった。 その後、「倭」には「野蛮人」といった意味もあるため、「倭」と同じく「ワ」とも発音し「なごやか」などの良い意味を持つ「和」を当てて「ヤマト」と読ませるようになった。 さらに当時の中国にならって地名を漢字2字で表す風潮が起こり、「偉大な」「強大な」「広大な」という意味の「大」と合わせて「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるようになったといわれる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
日本建国史 西暦107年後漢へ朝貢した倭国王は、成立直後のヤマト王権であるという説