三国史記
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三国史記 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 삼국사기 |
漢字: | 三國史記 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
さんごくしき |
片仮名: (現地語読み仮名): |
サムグクサギ |
ラテン文字転写: | Samguk Sagi (文化観光部2000年式) |
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三国史記(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾らが1143年に執筆を開始、1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の正史である。朝鮮半島に残存する最古の歴史書。全50巻。
目次 |
[編集] 概要
地理志の地名表記(「古の○○は今の△△である」といった記述)の詳細な検討から、遅くとも1143年には編纂が始まっていること、また、『高麗史』仁宗世家23年条や同書の金富軾伝の記事から、1145年12月には撰上されたことが確認されている。全50巻の目次は以下の通り。
- 新羅本紀: 第一巻~第十二巻
- 高句麗本紀: 第十三巻~第二十二巻
- 百済本紀: 第二十三巻~第二十八巻
- 年表: 第二十九巻~第三十一巻
- 雑志: 第三十二巻~第四十巻
- 列伝: 第四十一巻~第五十巻
- 依拠史料
現存しない『古記』、『海東古記』、『三韓古記』、『本国古記』、『新羅古記』等の歴史書を第一次史料としているが、前記の書物が実在したか定かでないため、その記述の内容には史料批判が必要である。また、中国の史料と朝鮮の史料が衝突する場合には朝鮮の史料を優先している箇所もあるが、前記の史料の信用性に疑問があるため、中国などの他国の史料と衝突する部分に関しては慎重な取り扱いが必要とされる。天変記事(ほうき星など)については中国史書と年月を同じくする記述も多い。そのほかの朝鮮の史料として、高句麗には『留記』・『新集』、百済には『日本書紀』にその名が確認される百済三書(『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』。百済滅亡後、日本で著されたとされる)、新羅にも国史を編纂させたと言う記録があるが、いずれも現在は存在が確認されていない遺失書であるため、記述内容を確認できない部分も含まれている。
- 記述の姿勢
新羅、高句麗、百済の三国すべてを「我ら」と記録することで最大限中立的に記述したとされるが、内容面においても新羅の比重が大きく、南北時代(統一新羅時代)と高麗朝を経て新羅人たちが記録した史料に大きく依存したため、新羅への偏重がある。また、編纂者の金富軾が新羅王室に連なる門閥貴族であったため、また、高麗が新羅から正統を受け継いだことを顕彰するために、新羅寄りの記述が多い。中国の史書においてより早く登場する高句麗の建国(紀元前37年)を新羅の建国(紀元前57年)よりも後に据えるのは、その現れである。
古朝鮮、伽耶、東濊、沃沮、三韓等の歴史が抜けているが、これは『三国史記』がそれまでに編まれた勅撰の『旧三国史』をより簡潔にまとめた形式をとっているためとも考えられている。しかしながら『旧三国史』に古朝鮮などの記事があったかどうかは、『旧三国史』が現存しないために確認は不可能である。そもそも、成立から100年近く後の高麗の大文人の李奎報が「東明王篇」の序文で訝しんでいるように、勅撰の『旧三国史』のあったところに重撰となる『三国史記』の編纂が必要とされた理由については、未だ定説は無い。
- 『三国遺事』
『三国史記』に次ぐ朝鮮古代の歴史書として、13世紀末に普覚国尊一然(ふかくこくそんいちねん)という僧による私撰の『三国遺事』がある。書名の「遺事」は『三国史記』にもれた事項を収録したとする意味が込められており、逸話や伝説の類が広く収められている。朝鮮における『三国史記』と『三国遺事』とは、ほぼ日本における『日本書紀』と『古事記』とに相当する、古代史の基本文献である。
[編集] 倭関係記事
- 倭関係記事は三国の本紀、列伝に見出される。それらの関係記事は、おおむね「倭・倭人・倭兵」とに関するものと「倭国」に関係するものとに分類できる。
- 韓国側が独島(日本名:竹島)であるとする「于山島」の記述が出てくる。