Magnavox Odyssey
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オデッセイ(Odyssey)はラルフ・ベア(Ralph H Baer 1922年3月8日-)が開発し、マグナボックス社(Magnavox)から1972年に発売された、世界初の家庭用ゲーム機である。
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[編集] Odysseyが作られるまで
ベアはドイツ南西部で生まれたユダヤ人だが、成人するまでにナチスのユダヤ人迫害が激しくなった為、アメリカに亡命した。ニューヨークでテレビとラジオの技術を勉強した後、電子技術の企業を何社か渡り歩き、ブラウンボックスを作った時はサンダース・アソシエイツ社で、飛行機のレーダーに関する仕事をしていた。なお戦後すぐの1946年にはオシロスコープを使い、ピンポンやテニスの様なミニゲームで遊んでいたと語っており、現在確認出来る最古のビデオゲーム(のようなもの)だとする見方もある。
ベアは思いついた事は全てメモをとる癖があり、1966年8月にバス停で書かれたメモには「テレビで見たくもない番組に対応するにはどうしたらいいか。テレビをゲームに使えばよい」とあり、ここからゲーム作りが始まった。テレビ技術を勉強済だった事から、ゲーム機作りは順調に進み、「キツネと犬」「ピンポン」など数種類のゲームが遊べる「ブラウンボックス」を作って会社に売り込んだ。ちなみにブラウンボックスは茶色い箱で、箱の横にゲームの切り替えに使うスイッチが、ゲームの数だけ並んでおり、上部にはベアのサインが入っている。
だがこの頃不特定多数に遊ばれていたビデオゲームはスペースウォー!だけだった事もあって、企業幹部からの反応は著しくなく、モデルガンを改造した「光線銃ゲーム」など幾つかのゲームを追加、売り込みを続けた。その結果、実に5年もたった1971年に、興味を示したマグナボックスの副社長の働きで製品化が決定、翌1972年から全米にOdysseyの名で売り出す事にした。Odysseyとは映画「2001年宇宙の旅」の固有名詞からとられたものである(ちなみに世界初の個人用コンピュータであるアルテア8800は「スタートレック」の固有名詞からとられている)
Odysseyは発売前の1971年からアメリカ各地でプライベートショーを行い、業界関係者に見てもらう事にした。宣伝にはフランク・シナトラまで起用されたが、当時の宣伝内容、および人々が家庭用ゲーム機について全く知らなかった事が理由で「マグナボックス社のテレビでなければ遊べない」と思われ、失敗しない程に売れたものの、ヒットにまでは行かなかった。
[編集] 主な仕様
コントローラーはジョイステックでなくパドルであり、一つのコントローラーに2つあるので、上下左右の動きをサポート出来る。現在殆どのビデオゲームにある「射撃」「コマンド決定」「ボールサーブ」等のボタンは無い。ゲームの切り替えはスイッチでなくカードを差し込むが、このカードにデータ読み書き機能等はなく、ただ切り替え回線が入っているのみである。一部のゲームは別売りカードを買わなければ遊べない様になっていた。色と音はブラウンボックスにはついていたが、Odysseyではコストの関係から省かれた。また本体以外に以下のオプションが用意されていた。
- オーバーレイ(Overlay=横たわる)
背景の描かれた透明な板。画面に出てくるキャラクタは白い正方形のみで(ただし後述するピンポンゲームは、センターネットを白い縦線で描いていた)当時の技術では背景どころかキャラクタも表示する事が難しかった為、このオーバーレイをテレビ画面に貼り付け、ゲーム上の場所の把握(移動可能・不可能の区別など)や雰囲気をサポートした。これはテレビのサイズを考えて大小2種類ある。ちなみに スペースインベーダーなど白黒時代のアーケードゲームに使われた色セロハンも、オーバーレイと呼ぶ。
- 光線銃
前述した銃も別売りされており、当時エレメカで既に人気ジャンルとなっていたガンゲームの影響も強いと考えられるが、銃社会アメリカをほうふつさせるとする声もある。
- おもちゃの紙幣やチップなど
画面には点数表示も無いので、これを補う為に用意されており、ビデオゲームと言うよりボードゲームの延長線上を感じさせた。
[編集] 発売後(アタリとの関係)
ベアより少し後にビデオゲームの商業化を目指し始めたノーラン・ブッシュネルは、アーケードゲームゲームで「コンピュータースペース」を出して失敗した。だがその発売会社だったナッチング・アソシエーツ社の社長は1972年春、カリフォルニア州バーリンゲームでのOdesseyのプライベートショーを知り、ブッシュネルに調べに行かせた。ブッシュネルはナッチング社長に「そんなに面白いゲームではなかった」と報告したものの、実際にはOdesseyに影響を受け、アタリ社を設立、Odesseyのピンポンゲームを真似て「ポン」を作らせ「世界で初めてヒットしたビデオゲーム」の名誉を勝ち取った。
その2週間後、マグナボックスは「ポン」のことを知り、アタリに対して既に同様のゲームコンセプトについての特許を持っていることを伝えた。2社は裁判所に出廷、マグナボックスはブッシュネルがプライベートショーに出席した証拠を、目撃証人やプライベートショーのサインで提出し、判決はマグナボックスを支持、アタリは法廷外和解による解決で70万ドルを支払うこととなった。マグナボックスがOdysseyで一番儲けた金額は、これだとも言われている。
Odysseyには「ポン」の元になったピンポンゲームが入っている事から、売れ行きに拍車がかかったが、それでも1974年に製造を終了した。ベアも後になって「ポンが出なければ、Odysseyはあんなに売れなかっただろう」と語っている。
「ビデオゲームの父」と言えばブッシュネルだが、これはベアが謙虚な性格で、Odysseyの事を話す機会もいまいち無かったのに対し(それでも発明品に囲まれた写真を撮られたり、ブラウンボックスのレプリカを製作していたりする)、感受性豊かに育てられ、売れる為には他のゲームの模倣や、ゲームのウラ技の様に難局を切り抜け、インタビュー等のパフォーマンスを積極的に行ったブッシュネルとの差が出た為とも言われる。この事から真のビデオゲームの父はブッシュネルでなく、ベアだと言う意見もある。
[編集] Odessey2
日本ではOdesseyは発売されなかったが、ゲーム数を増やし、テンキーを付ける(当時の家庭用ゲーム機にはこれが多かった)などしたはOdessey2は発売された。Atari 2600の改良版であるAtari 2800もほぼ同時に日本上陸を果たしたが、この時あのファミコンも発売、多数のライバル商品をよそにファミコンの一人勝ちとなった事実は、多くの人が知る所である。
[編集] 参考文献
- それは『ポン』から始まった:赤城真澄 アミューズメント通信社 ISBN 4-9902512-0-2 C3076